江戸期の庶民制度                                    江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

 

永代売買禁止に関する将軍吉宗の見解
 幕府が初めて田畑の永代売買を禁止する法令を出すのは寛永20年(1643)3月で、売り主は入牢させた上で追放、本人が死んだ時はその子が同罪と定めている。買い主については、買い取った田畑は売り主を支配する代官または地頭が没収し、本人は過怠牢(罰金の代わりに牢に入れること)に処せられ、本人が死んだ場合はその子が同罪となっている。
 御定書30条には記してないが、御定書が制定された寛保2年(1742)の時点での田畑永代売買の規定は、売り主は所払で本人が死んだ時は子が同罪、買い主は買い取った田畑は没収で過料、本人が死んだ時は子が同罪、と寛永期の禁令より幾分軽くなっている。

 30条の第一・第二条文は、
(延享元年極)
○田畑を永代に売り候もの→当人は過料、加判名主は役儀取り上げ、証人は叱り
○同買い候もの→永代売りの田畑取り上げ
 と一層軽くなっている。(延享元年極)とあるから御定書制定の翌々年(1744)に改訂していることになる。

 法制史家の石井良助氏によると、将軍吉宗が寛保2年の条文の改正を発議し、評定所一座に諮問したことにより、延享元年に上記のように改めたのだという。吉宗は次のように諮問した。

「右永代売は前々より御停止(ごちょうじ)に候、これは容易に田畑売り払わせ申さず候ようにとの御事と相見え候、百姓差し詰まり候えば、田畑差し入れ、流し地にいたし申す事に候、元来所持の田畑に放れ申したき者はこれなく候えども、年貢等不納致し、よんどころなき儀にて、御停止を忘却致したる事にて候、しからば向後所払には及ばず、過料は申し付くべき事か」

 永代売りする百姓は禁令に背こうとして売り払うのではなく、やむを得ない事情があってのことだから、所払では重いので過料にしてはどうか、と吉宗は尋ねている。
 諮問された奉行たちは、親が死没した際にその子が同罪となるのを廃止、買い主も買った土地の没収のみとし親死没時の子の同罪を廃止する答申を行い、現在に伝わる御定書の条文となったわけである。
 
 この答申をしてから程なく奉行たちは、この際永代売買の禁令自体を廃止してはいかがか、と将軍吉宗に伺いを立てている。

「田畑永代売の儀は、寛永二十年未年に仰せ出され候に付き、只今まで右の通り御仕置仕り来たり候えども、御下知の通り、田畑に離れ申したき者はこれ無く、よんどころなく、売買をも仕り来たり候儀と存じ奉り候、其の上質地に入れ候程の者、請け戻し候手当もこれ無く、流し地に罷り成り候類、数多くこれ有り候えば、名目替わり候までにて、即ち永代売に罷り成り候て、この度、右御仕置は相止め候ても、しかるべきやに存じ奉り候に付き、伺い奉り候」
 
 
質地に入れる形式であっても、実際は流してしまう場合が多く、質入れといっても実態は永代売りと異ならない。にも拘らず質入は罰せられない、ならば永代売りの処罰も廃止したらどうか、というわけである。
 これに対して将軍吉宗は以下のように答えている。

「この儀は売買御免に成り候ては、不身上の百姓、当分の徳用に目を付け、猥りに田畑売り放ち候ように相成るべきや、其の上この度の御定になり候えば、売り主の咎めも軽く成り、かつ又是非差し詰まり候えば、今までの通り質地に差し入れ候えば、差し支えもこれ無く候て、まず今までの通りに差し置くべき事」

 
永代売買の禁令を廃止すれば、百姓が利益に目を付けて田畑をやたらに売り払うようになるかもしれない、刑罰が軽くなったこともあり、また金に詰まったら質に入れればよいのだから、これまで通りにしておくのがよい、と吉宗は答えている。永代売買の禁止は、抑止効果のある法令と考えていたようだ。
 
■将軍吉宗はこの時代より23年前の享保6年(1721)に、田畑の質流しを禁止する法令(2年後に廃止)を出している。その理由は、田畑永代売買の禁令があるのに田畑の質流しを許していては、田畑は富農や豪商の手に入ってしまい、この禁令が空文になるということにあった。
 23年後の今回は、質入れを当然のこととした上で、永代売買の禁令を思い止ませる効果ありと主張している。経済の大勢に逆行しているのを承知しながら、幕藩体制の経済的基礎をなす村落において大地主と小作人の対立が激化するのは為政者の欲しないところであり、永代売買の禁令をまったくの空文にしたくなかったものと察せられる。