(追加) 101、吟味事之内外之悪事、相聞候共旧悪御定之外は不及相糺事 (延享2年極) ○総じて吟味の内から外にも悪事これ有る趣を相聞き候とも、旧悪をも免じざれざる品々は格別(他の事柄とは異なる)だが、其の余(ほか)の悪事は相糺すに及ばず、最前より取りかかり候吟味を詰め相応の御仕置に申し付けべく事 (追加) 102、僉議事有之時同類又は加判人之内より早速及白状もの之事 (延享2年極) ○総じて僉議(詮議)事これ有る時、同類または加判人等の内から早速白状いたし、これにより謀計の者どもの悪事が相顕われるにおいては、右の早速白状のものは本罪相当より一等軽く申し付けべく事 103、御仕置形之事 (従前々之例) ○鋸挽(のこぎりびき) (享保6年極) 一日引き廻し、両の肩に刀目を入れ、竹鋸に血を付け、側に立て置き、二日晒す、挽き申すべしと申すものこれ有る時は挽かせ候事 (従前々之例) 但し田畑家屋敷とも欠所 ※罪人の頭首以外は土中に生き埋めにし、頭首を竹鋸で挽くものであるが、実際に挽き殺したのは3代将軍家光の時代までとされる、日本橋南詰の東側広場(西側は高札場)で穴晒(あなさらし、体を穴に埋め頭首を晒す)にするのだが慶安期(1648-1651)に往来の者が本当に挽いたので幕府は驚き、その後は襟のあたりに疵を付け、その血を竹鋸に付けるようになる、が、天和期(1681-1683)頃からは疵を付けることも止め、まったくの形式となった、だが、御定書に記してあるのは将軍吉宗があまりに形式化したのを嫌い復活させたためとされる、しかし往来の者に実際に挽かせるつもりはなく、希望者があっても真似事をさせただけとされる、鋸挽は磔の前に処せられる付加刑となったのである (同)(従前之例) ○磔 浅草品川において磔に申し付け、在方は悪事いたし候所へ差し遣わし候儀もこれ有り、尤も科書の捨て札これを建て、三日の内は非人を番に付け置く 但し引き廻し、または科により引き廻しに及ばず、欠所は右同断 ※浅草は小塚原、品川は鈴ヶ森、日本橋を境に東国の者は小塚原へ、西国の者は鈴ヶ森で御仕置、牢内の者たちは鈴ヶ森へ行く罪人には南無妙法蓮華経、小塚原なら南無阿弥陀仏といって見送ったとされる (同) ○獄門 浅草品川において獄門にかける、在方は悪事いたし候所へ差し遣わし候儀もこれ有り、引き廻し捨て札番人は右同断 但し牢内に於いて首を刎り(切り)欠所は右同断 ※首を切る(斬首)のは町方同心(町奉行所の同心)の持ち役であり、士分以上の首も町方同心が切る。しかし普段切り慣れていないため、町方同心が特に山田朝右衛門(浅右衛門とも)に頼む場合もあったという、朝右衛門の本職は刀の御様御用(おためしごよう)であった、朝右衛門は様斬(ためしぎり)には自身の切柄(きりづか、刀の場合)と槍柄を持参して御腰物奉行より下げ渡された刀・槍にそれをかけて様斬に臨んだ、妙な話だが朝右衛門は罪人の胆(きも)を取り、「人胆丸」(じんたんがん)と名付け薬として売っていたそうである (同) ○火罪 引き廻しの上、浅草品川において火罪申し付け、在方は火を付け候所へ差し遣わし候儀もこれ有り、捨て札番人は右同断 但し物取りにてこれなき分は捨て札に及ばず、欠所は右同断 (同) ○斬罪 浅草品川両所の内の町奉行所の同心がこれを斬る、検視は御徒目付、町与力 但し欠所は右同断 (同) ○死罪 首を刎り、死骸は取り捨て、様者(ためしもの)に申し付け 但し欠所は右同断 (同) ○下手人 首を刎り、死骸は取り捨て 但し様者には申し付けず (同) ○晒し→日本橋において三日晒す (元文5年極) 但し新吉原のものは所の儀に付き、晒しになるべく悪事いたし候はば新吉原大門口にて晒す (同) ○遠島 江戸より流罪の者は、大島、八丈島、三宅島、新島、神津島、御蔵島、利島、右七島の内へ遣わす、京大坂西国中国より流罪の分は薩摩、五島の島々、隠岐国、壱岐国、天草郡へ遣わす 但し田畑家屋敷家財ともに欠所 (同) ○重追放→御構い場所 (寛保2年極) 武蔵、相模、上野、下野、安房、上総、下総、常陸、山城、摂津、和泉、大和、肥前、東海道筋、木曾路筋、甲斐、駿河 (従前々之例) 但し欠所は右同断 (同) ○中追放→御構い場所 (寛保2年極) 武蔵、山城、摂津、和泉、大和、肥前、東海道筋、木曾路筋、下野、日光道中、甲斐、駿河 (従前々之例) 但し田畑家屋敷は欠所、家財は構いなし (同) ○軽追放→御構い場所 (寛保2年極) 江戸十里四方、京、大坂、東海道筋、日光、日光道中 (従前々之例) 但し欠所は右同断 (追加)(享保2年極) 右の重中軽ともに何方にても住所の国を書き加え相構う、住居の国を離れ他国において悪事を仕出かし候ものは、住居の国、悪事仕出かし候国ともに二ヶ国を書き加え、御構い場所の書付を相渡し候事 (従前々之例) ○右の追放の者、御郭外にて放ち遣わし、侍は其の場所に於いて大小渡し遣わし候事 (寛保2年極) ○京都に於いて重追放を申し付け候ものは、右御構い場所の外に河内近江丹波の三ヶ国を加え相構う、中軽追放は別儀これなき事 (従前々之例) ○江戸十里四方追放→日本橋より四方へ五里ずつ (延享元年極) 但し在方のものは居村とも構う、欠所これなきとなせども利欲に拘り候類は田畑家屋敷は欠所、尤も年貢未進等これ有り候はば家財とも欠所 (同)(寛延元年極) ○江戸払→品川・板橋・千住・本所・深川、四ツ谷大木戸より内御構い、但し町奉行所の支配場限り (延享元年極) ○所払→在方は居村払、江戸町人は居町払 但し欠所これなし、しかれども利欲に拘り候類は田畑家屋敷は欠所、尤も年貢未進等これ有り候はば家財とも欠所 町人百姓の重中軽追放 (追加)(延享2年極) ○江戸十里四方並びに住居の国、悪事仕出かし候国ともにこれを構う→重追放欠所は田畑家屋敷家財取り上げ、中追放欠所は田畑家屋敷取り上げ、軽追放欠所は田畑取り上げ 但し田畑家屋敷これなき者は家財取り上げ、田畑家屋敷家財もこれなき者は軽重の沙汰に及ばざる事 ※御定書は幕府より扶持をもらっている者、陪臣、浪人などの侍以上にも適用されたが、この追加条項は百姓町人に限るものとして、御定書制定後3年経た延享2年に決められている、百姓町人のみ重・中・軽のいずれの追放刑でも江戸十里四方・住居の国・悪事を犯した国だけを構うことにしたのは、御構い場所が多くなると殊に日雇いの者は生活していくのが困難となり、どうしても御構い場所で密かに住居していることが多くなる、これが発覚すると罪科が重くなる、それでは可哀そうだとしてこの追加条項に至ったとされる (追加)(同) ○本罪より一等重き御仕置は遠島以下にされるべく事 重追放は→入墨または敲候上、重追放 中追放は→重追放 軽追放→中追放 所払→江戸払 但しすべて右の軽重に心得べき事 (同) ○本罪より一等軽き御仕置の事 死罪は→遠島、重追放 遠島→中追放 (追加)(享保2年、延享元年極) ○田畑持ち高の内、半分或いは三分の二、三分の一取り上げ候者は→持ち高三分の二取り上げべし分は過料一反歩に付き五貫文宛て、同半分取り上げべし分は同一反歩に付き三貫文宛て、同三分の一取り上げべし分は同一反歩に付き二貫文宛て (従前々之例) ○門前払→奉行所門前より払い遣わす (同) ○奴→望みの者これ有り候は遣わす 但し望み候ものこれなき内は牢内差し置く (同) ○追院→住居の寺へ相帰さず、申し渡し候所より直に払い遣わす ○退院→住居の寺を退くべき旨を申し渡す (同) ○一宗構え→其の宗旨を構う (同) ○一派構え→其の一派を構う、同宗にても外の派になり候えば構いなし (同) ○改易→(刀の)大小を渡し、宿へ相帰るそこより立ち退かせ申し候 但し家屋敷取り上げ、家財構いなし (従前々之例) ○閉門→門を閉じ窓を塞(ふさ)ぐ、釘〆には及ばず (寛永元年極) 但し病気の節は夜中に医師を招き候儀、並びに火事の際は申すに及ばず、近所より出火の節は屋敷内で類焼を防ぎ候儀は苦しからず、総じて火事の節は屋敷が危うい体に候はば立ち退き、其の段頭支配へ申し達す (従前々之例) ○逼塞→門を立て夜中に脇の潜りより目立たずように通路するは苦しからず (同) ○遠慮→門を立て脇の潜りは引き寄せ置き、夜中に目立たずように通路するは苦しからず (享保5年極) ○敲→数五十敲き、重きは百敲き、牢屋門前にて科人の肩背尻を掛かげ、背骨を除き絶え入り仕らずよう、検使役人遣わせ牢屋同心に敲かせ候事 但し町人に候えば其の家主名主、在方は名主組頭を呼び寄せ、敲き候を見せ候て引き渡し遣わし、無宿者は牢屋門前にて払い遣わす (同) ○入墨→牢屋敷に於いて腕に廻し幅三分宛て二筋、但し入墨の跡が癒え候て出牢 (従前々之例) ○戸〆→門戸を貫きをもって釘〆 (同) ○手鎖 其のかかりにて手鎖をかけ封印を付け、五日目切りに封印を改め、百日手鎖の分は隔日に封印改め ※手に油を塗ると外れたそうである (同) ○押込→他出は仕わせられず、戸を立て寄せ置く (享保3年極) ○過料→三貫文、五貫文 但し重きは十貫文、又は二十両、三十両、其の者の身上に従い、或いは村高に応じ員数を想定し三日の内に納めさせ候、尤もいたって軽き身上にて過料を差し出し難きものは手鎖 (享保8年極) ○二重御仕置 役儀取り上げ→過料 過料の上→戸〆、手鎖 敲の上→追放、所払 入墨の上→追放、所払、敲 (追加)(従前々之例) ○勢州山田の御神領に於いては、磔火罪獄門等の死骸を晒し候御仕置これなき事 (追加)(寛保3年極) ○科これ有る女の儀、中追放は御関所(箱根)内の相模国は御構いの外に付き、中追放までは申し付けべし、重追放には申し付けまじき事 (追加)(宝暦3年極) ○町人百姓の女は重追放にも申し付けべく事 (追加)(寛保4年極) ○遠島の者が船中にて遭難し、破船の後に助命候はば(命が助かれば)、また流罪たるべし、若し助命候て行方相知れず候はば、人相書をもって浦触をいたし、身寄りの者へも尋ね申し付けべし事 ※遠島の者は霊岸島の御船手番所から出帆する牢屋付きの500石船に乗せられる、出帆した船は鉄砲洲沖で3日間滞船した後に、相模国浦賀の番所へ向かい、ここで流人は改めを受け、流人の始末書を納め、その写しをもらった後、予定の島へ船は向かった、神津島・御蔵島・利島の生活は厳しかったらしく、寛政8年(1796)の「八丈島并伊豆七島之記」には八丈・三宅・新島の三つの島だけに流すことになったと記してあるという、三島の中では三宅島が生活しやすかったとされる (従前々之例) 但し難風に遭い、浦々へ吹き流され候時は、其の浦より警固の船を差し出させ置き、順風次第出船いたし候、若し破船候はば流人は其の島へ揚げ置き、所の者どもに警固致させ置き、注進次第、替わりの島船を仕立て差し越し候事 (追加)(従前々之例) ○遠島の者が船中にて病死いたし候時、御関所(浦賀番所)前に候はば、死骸を番人へ見分させ其の所へ死骸片付け候事 但し御関所を越して相果て候はば其の所に死骸を片付け、名主並びに寺院より証文これを取り、御証文に引き合わせ島守へ相渡し候、島近き所にて相果て候節は其の島守へ死骸相渡し候事 (追加)(同) ○御目見以上の流人並びに女流人は、船中では別囲いにて差し遣わし候事 (追加)(同) ○八丈島・御蔵島の両島への流人は、三宅島まで差し遣わし、島守へ相渡し、そこより順風次第にて右の両島へ遣わし候事 (追加)(寛保3年極) ○盲人御仕置→遠島追放等になるべく科は親類へ預け、居村の外へ猥りに徘徊いたすまじき旨を申し付けべし (従前々之例) ○座頭御仕置→総録へ科の次第申し聞かせ、座法に申し付けべく旨を申し渡す ※総録とは関八州の盲人を管掌する職で、本所一ツ目の総録屋敷に詰めていた、京都には職検校という最高職がおり、総録はこの下に属した (同) ○非人手下→穢多弾左衛門が立ち合い、非人頭へ相渡す ※穢多・非人は現代では差別用語にあたるが、江戸全般を知るには避け得ないので説明する 妙な言い方なのだが、非人は物貰いと紙屑拾いを幕府から認められた身分の者たちで、物貰いを認められた代償として囚人護送や行刑のような特殊な公役を課されていた、非人の物貰いは出家・婿入り・嫁入り・死亡の四つの慶弔時に限り、人家より銭物を貰い集めることを指し、常時人家の戸前に立って物を乞うのとは異なる、紙屑拾いは支配頭である車善七か松右衛門から鑑札を得て行っていた、非人支配頭には車善七と松右衛門の他に小伝馬町の牢獄内の雑事に従事する谷の者長兵衛、斬罪死罪などの死骸の取片付けをする浅茅ヶ原の惣左衛門、他の非人不足の際に応援に出動する代々木の久兵衛などがいた、車善七は浅草の溜を支配し、松右衛門は品川の溜の支配と品川御仕置場の雑事に従事していたが、江戸のすべての非人(幕末に約3000人いたという)を支配していたのは浅草の車善七だった 車善七には日勧進(ひかんじん)と称する収入があった(他にもあったが)、これは毎日非人を江戸町の商舗へ遣わし一文の銭を乞わせるもので、全額が車善七の収入になったという、この車善七を支配下においていたのが穢多(えた)頭の弾左衛門であった 弾左衛門は関八州、伊豆、甲斐、駿河、陸奥の一部を支配し、その支配する穢多の家数は幕末で約6000軒あったとされる、彼らには革類全般と燈心の製造販売の特権が認められており、その代償として幕府が必要とする陣太鼓・武具から雪駄など一切の革類を提供した、弾左衛門の収入は配下の穢多に剥皮一枚の刻印につき銀一枚を納めさせたものと、弾左衛門のみの特権だった関八州における燈心草の生育村からの製出料があった(他にもあったが)、弾左衛門が正保2年(1645)以降に居住した浅草新町の屋敷の広さ約2600坪、敷地の広さに至っては1万5000坪だったという、弾左衛門は支配する穢多・非人など相互間の犯罪について自分で裁判し、死刑も執行できたとされる 穢多・非人は生来の身分の者の他に、非人手下の刑罰を受けた者、百姓町人の身分より落ちぶれて穢多・非人になった者がいるが、落ちぶれて穢多・非人になった者に関しては、そうなってから10年以内に親類縁者からの申請があれば、百姓町人の身分に立ち還れた、これを「素人(しろうと)になる」とか「足を洗ふ」と称したという (享保17年極) ○遠国非人手下→遠国へ遣わすべく旨、穢多弾左衛門へ申し聞かせ相渡す (従前々之例) ○非人御仕置→穢多弾左衛門へ渡し、仕置いたすべく旨を申し付け 但し遠国非人は、其の所の穢多頭へ仕置申し付け候よう申し渡す 右の御定書の条々、元文五庚申年五月、松平左近将監をもってこれ仰せ出され、前々仰せ出され候趣、並びに先例其の外評議の上追々伺いの上、今般相定めのものなり 寛保二壬戌年三月二十七日 寺社奉行 牧野越中守 同 大岡越前守 町奉行 石河土佐守 同 島 長門守 御勘定奉行 水野対馬守 同 木下伊賀守 同 神谷志摩守 右の趣上聞に達し、相決め候奉行中の外、他見有るべからざるものなり 寛保二壬戌年四月 松平左近将監 |