■前説―公事方御定書の成立 寛保2年(1742)4月に※制定された公事方御定書は、武士や僧侶・神官を対象にした刑罰が一部含まれているが、そのほとんどは百姓・町人の犯罪を中心に規定した法典である。 刑罰を規定した江戸時代の他の法典に、「寛政刑典」と呼ばれるものがある。これは松平定信が制定したものと伝わるが、実際に使用された形跡はないといわれる。 その松平定信は寛政元年(1789)に三奉行(町・勘定・寺社奉行)の心得を定めた中に、「御定書之儀は下より御仕置を伺ひ候曲尺(基準)ニて候」と記しており、江戸時代を通じて実用された唯一の法典が公事方御定書だったといえよう。
制定 元文期(1736-1740)の初めに8代将軍吉宗が、勘定奉行杉岡佐渡守能連に命じ、杉岡が単独で公事方御定書の編纂に取り掛かった。杉岡は御触書や御書付(法令)をまとめたものと、先例のない御仕置で老中の下知や一座の評議で決めたものを帳面に記した例帳を吉宗に提出した。御定書上巻の土台となったのが御触書や御書付(法令)をまとめたもので、下巻である百箇条の土台となったのが例帳だった。
公事方御定書は上・下巻ある。上巻は81通の法令が収録された法令集となっている。ただし、犯罪とこれに対する刑罰は下巻に収められている。下巻はどういった犯罪にはどういう刑罰を科するかについて、箇条書に収録している。103箇条あるが、これが「御定書百箇条」と呼ばれるもので、今回UPしたのもこれである。
公事方御定書下巻は制定されても、公布はされなかった。御定書下巻の奥書に、「右之趣上聞に達し、相極め候、奉行中之外他見有るべからざる者也 寛保二年壬戌四月 松平左近将監」(松平左近将監は老中首座松平乗邑)とあり、奉行以外は見ることを禁じている。奉行とは三奉行を指しているが、実際は所司代、城代の職に就いている者にも御定書下巻は与えられている。また、将軍の手元にある御前帳と老中の御用部屋にある御次帳には御定書下巻の内容が記され、評定所には備え付け本があった。 公布せず秘密法典とした理由は明確でない。どういった犯罪に対してどういう刑罰が科されるか、これについては公表されなかったが、御触書などでは、どういった行為が犯罪になるかは一般に知らせており、死刑の付加刑である引き廻しでは科(とが)を書いた捨て札を立てており、刑罰の種類や執行方法は秘密になっていたわけではない。 秘密にした理由として通常いわれているのは、犯罪と刑罰の関係を知られると安心して犯罪を行うので、不安を与えるために公表しなかったというものである。
御定書下巻は江戸時代を通じて秘密法典だったが、時代が下るにつれ公然の秘密となっていった。御定書下巻に則って法典を作った藩や村の名主の所にその写しがあるのは珍しいことではなかったという。 そんな状況から気が緩んだのか、大野権之丞という旗本は天保年間に「青標紙」(あおびょうし)という書冊の中に御定書下巻を収録し、改易となっている。 密かに書き写す中に実際に事件を吟味する者たちがいた。内密に書き写すため誤りや脱落が多かったらしく、これでは裁判上過誤の恐れがあるというので、天保12年(1841)に公事方勘定奉行(勘定奉行は公事方と勝手方の各2名いた)の手元で13部を書き写させて校訂本を作り、寺社奉行所の吟味物調役と勘定奉行所の評定所留役に与えた。 この本は、「棠蔭秘鑑」(とういんひかん)と称し「元・享・利・貞」の4冊を1部とし「元」は御定書上巻、「享」は御定書下巻、「利」は添候例書と寺社方御定書、「貞」は公事仕置に関する書付が収められ、役職を退任すると官庫に納め、新任が就くと与えたという。
寛保2年(1742)に制定された御定書は、それ以降も改訂され追加されて各条の条項が増えていく。延享2年(1745)になると、これでは限りがなくなるので、御定書への追加は別にこれを集めて例書とし御定書に添えておくことになった。これを「添候例書」(そえそうろうれいかき)とか単に例書と呼んだ。 また明和4年(1767)に編纂がなったものに「科条類典」がある。これは御定書の条文を読んでも意味が明確に伝わってこない場合があるため、立法者の意思を知るため御定書編纂に関する資料を整備したものである。この科条類典の各条に類例・裁許例・比例を加えたものが、「徳川禁令考後集」であり、わたしが参考資料の一つにしたのは石井良助氏の校訂による創文社刊行のものである。 今回UPしたのは条文と追加条項のみなので、詳細について知りたい場合は以下の各条の収録を参考に(初刷は1959年から1960年だが、以下は1990年第5刷のもの)。 「徳川禁令考後集第一」(A5判428P、対象ページは250Pから)1条〜17条 「徳川禁令考後集第二」(A5判496P)18条〜46条 「徳川禁令考後集第三」(A5判518P)47条〜71条 「徳川禁令考後集第四」(A5判382P、315Pから付録)72条〜103条
■御定書百箇条について 各条文には例えば、「享保10年極」や「従前々之例」というものが肩書に付いている。「享保10年極」とは享保10年の法令として決めたという意味で、「従前々之例」は法令として決めてはいないが、以前から判例がありそれによったという意味である。つまり、御定書下巻は先例集的な法典だったといえる。
条文の中に、「伺い有るべく」とか「伺い候べし」というように「伺い」の語句に出会うことがある。この伺うは老中に伺うという意味で、三奉行は手限吟味(てぎりぎんみ)といって自分だけで事件の吟味はできたが、言い渡せる刑罰に関しては限度があった。三奉行は中追放(なかついほう)までは自分限りで言い渡せるが、重追放(おもきついほう)以上の刑罰は老中へ伺い許可を得る必要があった。 また老中でも遠島(おんとう)や死刑を三奉行へ許可するには、将軍の許可を必要とした。京都、大坂・長崎などに配された遠国奉行(おんごくぶぎょう)は、江戸からの遠近によって手限仕置(てぎりしおき
言い渡せる刑罰)が異なり、長崎奉行は遠島以下(遠島を含む)を言い渡せたが、日光奉行は追放以下、浦和奉行は入墨以下であった。 代官になると手限吟味は事件に関係した者がその支配所の者か無宿の者に限られ、それ以外の事件は勘定奉行に差し出し、そこで吟味することになる。手限仕置は当初は、叱(しかり)でさえ勘定奉行に伺い出る必要があったが、寛政年間に博奕、幕末になって盗賊に対して敲(たたき)・重敲を言い渡せるようになり、同幕末には一般的に手鎖(てじょう)・過料・叱も言い渡せるようになった。
刑罰の上下大系は、当時は以下のように捉えられていた(刑罰の内容は関係する各条文の註で説明している)。軽いものから順に、
叱→急度叱→三十日手鎖→五十日手鎖→所払(この刑に付加されるものを軽い順に、百日手鎖・過料銭十貫文・敲)→所払(重敲)→江戸払(重敲)→江戸十里四方追放→軽追放→中追放→重追放(付加として敲・入墨)→遠島→死刑(軽い順に、下手人・死罪・獄門・磔) この中に非人手下(ひにんてか)・奴(やっこ)・剃髪(ていはつ)・押込(おしこめ)などの刑が除かれているのは、適用されることが少なかったためとされる。 刑の加重軽減で一等軽し・一等重しという場合がある。一等軽しの場合は二段落とし、一等重しは一段上げとなる。例えば江戸十里四方追放の一等軽いのは江戸払ではなく所払となり、所払の一等重いのは江戸払となる。ただし、死刑と遠島の場合は加重はなく軽減のみで、死刑が軽減されると磔(はりつけ)あるいは獄門(ごくもん)であっても、同じ死刑と見なされて遠島か重追放となった。また重追放の加重は付加された入墨ないしは敲とされた。
なお盗犯については別体系で、初犯は敲→再犯は入墨→三犯は死罪となっていた。 語句として重罪は死刑・遠島を指し、軽罪はそれ以下のすべてを指した。仕置という場合は所払(敲)以上を咎(とが)は手鎖以下を指した。 閏刑(じゅんけい)という法制史用語がある。これは特別な身分の者に科された刑罰で、武士の閏刑は斬罪・切腹、僧侶は一派構(いっはがまえ)・一宗構(いっしゅうがまえ)・追院(ついいん)・退院などがあり、閉門・逼塞・遠慮は武士と僧侶だけに科された。
各奉行所での吟味は、第一回は奉行が大まかな吟味をし、その後は下役の者が行った。町奉行所なら吟味方与力、勘定奉行所なら留役(とめやく)、寺社奉行所は吟味物調役があたった。 犯罪事実の認定が吟味の目的だが、被疑者の自白を主眼としたため、拷問をする場合があった。拷問は釣し責(つるしぜめ)という両手を後ろに縛り上から吊るすものがあったが、ほとんど行われなかったという。 拷問を行うことは吟味役人の恥とされ、巧く誘導して自白させるのが手柄とされたからだが、牢問はよく行われたそうである。牢問は拷問とは呼ばなかったというから言葉は便利だ。牢問には笞打(むちうち)、角材の上に座らせ石を抱かせる石抱、あまり用いられなかったという頭を両足の間に挟み手足を縛る海老責があった。 牢問ではなく拷問しても自白が得られない場合は「察度詰」(さっとづめ)と称して老中の許可を得た上で処刑した。裏を返すと余程の確信がないと拷問は行えなかったといえそうである。
吟味役人の吟味が最終段階に達すると、「吟味詰りの口書」(ぎんみつまりのくちがき、被疑者が刑事責任を認める旨を記した証文)を作成し、口書を被疑者に読み聞かせる。これに異論がないと印もしくは爪印(指頭に墨を付けて捺す)をさせる。口書と呼ぶのは百姓町人の場合で、武士・僧侶は口上書(こうじょうしょ)と称し、武士には書判(かきはん、花押、サインのこと)をさせた。 次に刑罰を決める段取りとなるが、刑罰は御定書下巻を参照して決めるが、三奉行が決められない場合は上記したように老中へ伺いを出す。三奉行から老中へ提出された伺書は、老中から仕置掛かり(係りのこと)の奥右筆(おくゆうひつ)に渡され、奥右筆は以前の判例などの資料を引っ掻き回して調査する。簡単なものは奥右筆で済むが、問題が複雑になると評定所一座の評議にかけて決める。評定所一座とは三奉行・大目付・目付が列座して評議することを指す。 評議の基準としたのも御定書下巻であり、大概は御定書の刑罰を中庸として、これより重そうであれば重く、軽そうであれば軽い刑罰を科したといわれる。
判決が決まると申し渡しは、奉行が裁判所で行い、百姓町人へ死刑を申し付ける場合のみ、江戸では小伝馬町の牢屋の構内で奉行所の役人が申し渡した。 奉行が判決を申し渡す際には、落着請証文(らくちゃくうけしょうもん)を作成する。これには犯罪の事実と科せられた刑罰を受ける旨が記されており、有罪の者に読み聞かせ押印か爪印、武士には書判させる。刑罰の執行は、判決言い渡しのすぐ後に行われた。
話が前後するが、条文の中に「入牢」という語句が出てくる。現代では刑務所に閉じ込めること自体が刑罰(懲役・禁錮)となっているが、江戸時代の牢屋は原則として(永牢・過怠牢は例外)未決拘禁所であった。犯罪の嫌疑者として逮捕されると、奉行所で簡単な取り調べを受け、確かに有罪の嫌疑があれば入牢させ、その後に吟味に取り掛かった。 小伝馬町の牢屋を例にとると、身分などによって大牢(たいろう)・二間牢(にけんろう)・揚屋(あがりや)・揚座敷(あがりざしき)があった。 大牢・二間牢は庶民が収容され、東西にあった。無宿者はガラが悪かったため宝暦5年(1755)に東牢に有宿者、西牢に無宿者を分けて収容している。揚屋は御目見以下の直参、陪臣(ばいしん、直参・大名の家臣)、僧侶、医者、山伏などを収容。西口にある揚屋は女牢と称し、揚座敷に入れる者を除いた武士・庶民の区別なく、女の被疑者を収容している。 揚座敷は御目見以上の直参、これに準ずる僧正、院家、紫衣などの僧侶や神主を収容。揚屋敷は天和3年(1683)に設けらた独立の獄舎だったという。 安永4年(1775)になると百姓牢が設けられ、牢馴れした大牢・二間牢の者から切り離した。牢馴れした者とは度々軽い犯罪をして入牢を繰り返す者や、永牢(ながろう、終身刑)や過怠牢(かたいろう、刑罰に換えて入牢)していた者を指し、これらの者たちが自然発生的に牢内を仕切るようになり、文政期(1818-1829)頃になると幕府が牢内を仕切る囚人を公認し、牢内の名主と添役(そえやく、頭とも称す)を任命するようになる。
牢屋は小伝馬町の他に本所の関東郡代支配の本所牢屋、京都・大坂・長崎などの奉行所や代官所にもあり、江戸の評定所、町奉行所、勘定奉行所には仮牢があったといわれる。 入牢させるのは未決の者だが、軽い犯罪による嫌疑者は入牢させず「預」(あずけ)とした。預には大名預、町預、村預、親類預、宿預などがあった。大名預は500石以上の武士は入牢させないので、吟味中の預である。大名への永預(ながあずけ)というものがあるが、これは刑罰としての預である。名主や月行事(がちぎょうじ、江戸町で毎月交代で町用・公用を務める家主を中心とした五人組の組員)へ預ける町預、村役人へ預ける村預、親類預にも吟味預と刑罰としての預があった。 宿預は旅人宿(公事宿のこと)へ預けるもので、出入筋(出入筋は民事訴訟、吟味筋は刑事訴訟と概ねいえる)の用件で地方から奉行所に出頭する者や差紙(さしがみ、呼出状)で呼び出された者などは旅人宿に泊まるのが一般的だった。差紙の伝達などを奉行所は旅人宿に任せていたこともあり、こうした者を預けていた。
「赦宥」(しゃゆう)について。 恩赦のことである。天皇、上皇の即位、崩御、改元、将軍宣下、将軍の官位昇進、日光社参、将軍子女の誕生、世子の元服、将軍ないしはその近親の婚姻、将軍薨去、年忌法要などに行われた。 法事ににおける既決者の赦は、受刑者もしくは親族から前もって東叡山寛永寺と三縁山増上寺の内で法事を行うほうへ赦宥の願い出を出しておく必要があった。この出願を記した赦帳(廻赦帳とも)を両山は幕府へ渡し赦免を請うのである、出願すればすべての既決者が許されたわけではない。 主従関係を第一義とした江戸時代であるから、主殺(しゅうごろし)のような体制に反する主人・親・師匠に対する刑罰既決者は、赦宥の対象外だった。対象となる既決者も、遠島は29年以上の経過、所払は11年以上が経過していないと対象外となった。 ただし、出来心から犯した者は所払なら6年以上で赦宥の対象となった。つまり、前もって謀(はかりごと)が感じられないような犯罪の既決者なら一定の年数に達していなくとも赦宥されたのである。 祝儀及び法事の赦における未決者の赦は、法事なら幕府によって両山のいずれかの法事結願(けちがん)の日に言い渡された(これは両山への願い出は必要なし)。
■百箇条のどこが興味深いか 第18箇条に、「旧悪御仕置之事」という条文がある。 これは凶悪犯罪だと「旧悪」とはならないで、刑罰の対象とする旨を記した条文なのだが、凶悪犯罪でなければ旧悪とすると示している条文でもある。 旧悪とは何かというと、罪を犯しても12ヶ月間罪を犯さなければ処罰の対象としないという有り難いものなのである。もちろん未発覚の犯罪を対象にしている。 12ヶ月の間犯罪を行わず、また犯罪に関わるような行為をしないということは、その者が後悔していると考えているからであろう。 まさに江戸の懐の深さを感じさせる条文であろう。
第79箇条に、「十五歳以下之者御仕置之事」がある。 15歳以下の者が殺人・放火を犯すと、15歳になるまで親類に預け、その後に遠島に処する条文である。 15歳で大罪を犯す末恐ろしき者だが、死刑にしないのは年少のため心底が改まる可能性が高く、ならば遠島に処してきっちり改悛してもらおうという考えであろう。 今日の年少者の犯罪を想う時、感慨深いものがあるではないか。
第71箇条の条項に、「車を引く者で、人を引き殺し候時、殺し候方側を引き候もの→死罪」がある。 当初は自分の訓(よ)み下し方が正しいか疑問を持った。理由は大八車で引き殺されるようなことがあるのか、仮にそうしたことがあっても死罪とは重すぎるのではないか、そう思ったのである。 そこで「徳川禁令考」にあたると、次のような例文に出会った。
享保十三申年九月御触書 覚 牛車、大八車、地車並びに荷馬等を引き通り候儀、往来の障りに罷りならざるように前々も度々相触候ところ、なかんずく去る寅年きっと相触候ところ近き頃またぞろ猥(みだ)りに相なり、往来の人をよけ申さず我儘(わがまま)に引き通り候に付き、この日も神田佐久間町一丁目の久次郎店に店借する仁兵衛と、神田相生町の伝右衛門店に店借する清六と申すものの両人がから(空)車を引き、牛込払方町を通り候節に同町に住む四郎兵衛の倅で新八と申す十五歳になり候ものへ車を引きかけ、新八は相果て候、畢竟(ひっきょう)先年より度々触書の趣を忘却いたし候ゆえの儀、不届至極に付き仁兵衛は死罪、清六は遠島仰せ付けられ候、自今(今後の意)車引馬士(まご)等はこの趣をきっと相守り申すべく候、これ以後往来のものへ我儘いたし怪我人等がこれ有るに於いては、当人どもは重き御仕置を仰せ付け、人の召し仕いにて候はば其の主人並びに家主五人組名主まで、それぞれに御咎め仰せ付けられべく候、雇い候もの方にても念を入れ候ように申し付けべく候、粗末の儀も候はば落度となすべし、この段を町中の地借店借召し仕い等まで委細触れ知らすべくものなり
大八車が人を引き殺した事実があったわけだ。それも空の大八車が。大八車の引き手は余程のスピードで突っ走たのだろう。そして車輪が
15歳の男子を引っ掛けたものと思われる。 度々警告注意していたにも拘わらず、こうした死者が出れば、他の者への威嚇的効果を狙って死罪にしたのかもしれない。 この条項の次に、「但し人に当たらざる方側を引き候ものは中追放」とある。下の3点の画像を見てもらいたい。
(1)江戸名所図会より |
(2)江戸名所百人一首より |
(3)絵本続江戸土産より | わたしの頭には昔見たことのある(1)の画像があり、大八車は前に引き手が1人、後ろに押し手が2人だと強く思い込んでいた。従って、「殺し候方側」と「当たらざる方側」の引き手がしばらく判然としなかった。 判然とした後も2人の引き手が描かれた絵図を見ないと納得できず、探し出した(2)と(3)を見て、やっと得心した次第である。 条文に「はて?」と疑問を抱き、絵図を探し出す過程は、わたしにとって非常に楽しいものだった。他にも「おや?」と思った条文条項はあった。これが江戸時代唯一の実用法典「御定書百箇条」の楽しみ方なのかもしれない。
■最後に御定書百箇条の訓み下し文について。各条文条項は短く、江戸時代の法典の格調、雰囲気を崩さないよう訓み下したつもりだ。若干意訳も混じっているが、砕けた文にはなっていない。その分、各条文に註釈を付記した。前の条文で註釈を記したら、後の条文に同じ語句が出て来ても註釈は付けなかったので注意されたい。
※参考資料 「江戸の刑法」(大久保治男著 高文堂新書) 「江戸の刑罰」(石井良助著 中公新書) 「江戸時代漫筆第四・第五」(石井良助著
明石書店)など |