江戸期の庶民制度                                     江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

 

公事方御定書百箇条

1、目安裏書初判之事
(従前々の例)
○寺社並びに寺社領、関八州の外、私領、関八州の内にても寺社領より御府内へかかり候出入→月番寺社奉行裏書
(延享2年極)
○江戸町中、寺社領の町、寺社門前並びに境内借地の者ども、御府内へかかり候出入→月番町奉行裏書
(従前々之例)
○関八州御料私領、関八州の外、御料より御府内へかかり候出入→月番勘定奉行裏書
右、双方名主、家主、五人組、立ち合い相済ますべし、若し埒明かず候はば、七日目双方罷り出で候よう、裏書遣わすべく事
 (享保2年極)
 但し支配違いかかり候出入は評定所へ差し出すべし、双方一支配に候はば其の奉行所にて裁許申し付けるべし、在方国々へかかり候出入は、何月幾日評定所へ罷り出で対決すべき旨裏書いたし三奉行かかり月番にて初判一座加印
(享保7年極)
○山城大和近江丹波→京都町奉行
 但し双方共に右四ヶ国のものに候はば、京都町奉行にて取り捌く
(同)
○和泉河内摂津播磨→大坂町奉行
 但し右同断、大坂町奉行にて取り捌く
(従前々之例)
右八ヶ国の内にても京都大坂町奉行支配違い、又は余国へかかり候出入は、寺社奉行月番初判に致すべき候、尤も双方共に右同支配の出入、御当地へ訴え出で候はば、支配の奉行所へ罷り出で候よう申し渡し、取り上げ申すまじき事

※註
目安裏書=訴状の裏に出廷の日を記して、被告方へ発送するもの
初判=在方国々の訴訟の場合、三奉行の月番が最初に署名押印し、訴えを受理して裁判所となることを証した文書
従前々之例=従来からの慣習法、年度が明確な場合は「何年極」(極は決め、定めの意)と記すが、不詳の場合はこう記すことが多いといわれる
出入=民事訴訟、公事、7箇条の註を参照
私領=大名・旗本などの領地
府内=江戸の町内、江戸市中ともいう、文政元年の朱引によると、東は亀戸・小名木村あたり、西は角筈・代々木あたり、南は品川、北は上尾久あたり
御料=幕府直轄領
評定所=評定所は役所ではあるが、評定所独自の役人は下役の者くらいで、裁判は町奉行・勘定奉行・寺社奉行と、町・勘定の両奉行所から派遣された下調役人によって行われた、評定所の出入筋における審理は式日
と立合日があり、式日には三奉行の他に老中と目付が出席し、三奉行の支配違い(管轄違い)の重要公事や事情が錯綜して容易に聴断できないものを裁判した、立合日には目付が出席して(老中は出席せず)支配違いの通常の公事を裁判した、老中は列席しても裁判に関与せず、目付も監察のために出席したといわれる、後になると式日に老中の常時出席がなくなったので、式日・立合日の明確な区別はなくなったようである
式日は毎月2日・11日・20日の3日で、この内の11日だけは後になっても老中が出席し、この日に限って大目付が列席した、立合日は変遷があり、後には4日・12日・25日の3日となった
吟味筋においては、御目見以上の武士の吟味を詮議物と呼び、老中の命により臨時に三手掛(さんてがかり)、五手掛(ごてがかり)という特別の掛かりを設けて裁判した、三手掛は町・勘定奉行、目付の各一人から組織し、御目見以上の武士の犯罪を糺問した、五手掛は町・勘定・寺社奉行、大目付、目付の各一人から組織し、高い役職にある重い身分の者の犯罪と国家の大事に関する事件を糺問した、この際の裁判には目付・大目付とも関与した、御目見以下の武士の場合は吟味事と呼び、町奉行が裁判し、目付が立ち合ったが、この際は目付は監察の任に過ぎなかった
評定所は幕府領の者同士の訴訟に限らず、大名領の者との訴訟、異なる大名領の者の間の訴訟も裁判した、いやこの種の裁判を行う役所が評定所だったといえようか
京都町奉行=町方のみならず寺社のことも兼ね、管轄幕府領の租税徴収もした、老中支配に属した
大坂奉行=東と西があった、老中支配だが大坂城代の監督下にもあった


2、裁許絵図裏書加印之事
(従前々之例)
○国境郡境裁許絵図→老中加印 三奉行連印
 但し右の外、絵図裏書を以って裁許の分は三奉行連印

※註
裁許絵図=裁許とは裁判で許可した事柄、その絵図は境界などの争いを決した絵図面


3、御料一地頭地頭違出入并跡式出入取捌之事
(享保6年極)
○遠国奉行支配御代官並びに私領百姓他へ相かかり候出入、其の所の奉行御代官地頭より断わりこれ有り候上にて、取り上げ吟味およぶべし、断わりこれなき内に百姓訴え出で候はば、取り上げ申すまじき事
(同)
○地頭の出入は、地頭より断わりこれなく候とも、地頭にて取り捌き相済ますべき由申し聞かせ、取り上げ申すまじき候、もちろん地頭より断わりこれなく百姓訴え出で候分は、地頭へ相願いべき旨申し渡し、これまた取り上げ申すまじき候、なおまた相済まざる由地頭より申し聞き候はば、頭支配へ申し立て候よう相達すべし、但し地頭非分の申し付けに相聞こえ候はば、伺いの上取り上げ申すべく候
(寛保2年極)
○跡式又は養子等の出入は、他領かかり合い、訴え出で候とも先方の地頭へ相願うべき旨申し聞かせ、取り上げ申すまじき候、若し地頭の裁許に不審の事も候はば、地頭方へ承り届け候上なお落着致さず候はば、相伺うべく候事
(寛保3年極)
○加判人これ有り確かなる譲り状並びに加判人これなき候とも、当人自筆にて印形相違なく、書面怪しき儀もこれなきにおいては、譲り状の通り跡式申し付けるべし、尤も格別筋違いに候はば、吟味の上筋目の者へ申し付けべく事
(享保6年)
○御料所百姓出入は其の支配人より添え状これなき候はば、取り上げ申しまじく候、品により支配人へ其の趣申し達しなおまた相滞り候はば、対談の上取り上げ申すべき事
(従前々之例)
○一地頭にて寺社より百姓へかかり候出入も、一通り地頭へ申し達し候上相済まず候はば、取り上げ吟味致すべく事
(同)
○寺社より領主へ相かかり候出入、訴え出で候はば一地頭へ申し達し相済まざるに於いては、取り上げ吟味致すべく事

※註
地頭=幕府の旗本、御家人や諸藩の知行人などの小領主
頭支配=その地頭が属す組の頭
跡式=家督相続して跡目(当主・戸主)になること
遠国奉行=京都・大坂・伏見・駿府・長崎・佐渡・山田・下田など幕府直轄地に置かれた奉行を指す
非分=道理に当たらぬこと
筋目の者=家督を継ぐべき血統の正しい者
添え状=百姓が訴訟をおこす際は支配する人の添え書が必要となる
品により=事柄・事情によっては


4、無取上願再訴并筋違願之事
(享保5年極)
○諸願い申し出候もの、一通り吟味の上成り難き願いに候はば立て難き趣申し聞かせ、重ねて願い出候はば咎申し付けるべき旨書き付け相渡し、なお又願い出候はば過料申し付けべく事
(享保5年・寛保3年極)
 但し奉行所へ願い出で取り上げなき儀に付き過料申し付け候ところ遮りて箱訴並びに御老中若年寄中へ訴訟に罷り出で候はば、奉行所へ呼び出しなお又吟味を遂げても立て難き願いに於いては、再び過料申し付けべき事
(享保5年極)
親子兄弟、其の外の親類にても御咎御免の願いは、再び願い出候とも咎に及ばざる事
(享保6年極)
○総じて願いの儀は筋違い申し出候はば、其の筋の奉行所へ願い出候ように申し付け候上、再び申し出候はば其の筋へ対談遂げ(折衝し)、立て難き願いにて取り上げなき旨に候はば、其の筋の奉行所にて相応の咎申し付けべく事
(従前々之例)
 但し立て難き願い奉行所にて取り上げなき旨申し渡し候ところ、同役へ右の願い申し出においては、寺院侍は押込、百姓町人は手鎖申し付けべく事
(従前々之例)
○三奉行所へ訴え出ず直に評定所へ訴訟に罷り出で候ものは其の筋の奉行所へ罷り出で候よう申し渡し、其の筋の奉行所にて吟味の上落着の儀は一座相談の上申し付けべく事
(同)
○親類縁者の由にて訴状差し出し候節、当人願い出難き訳もこれなき候はば、当人に願いのため申すべき旨申し渡し取り上げ申すまじき事

※註
立て難き=訴えを受け容れられない内容のもの
箱訴=評定所門前に置かれた目安箱に訴状を入れて訴訟をおこすこと、訴状箱(目安箱)は評定所の式日の三日間だけ評定所の外の控え所(腰掛とも)の内に出し、昼九ツ(正午頃)までに書付(訴状)を入れるべきことになっていた、訴状箱に入れることが許された内容は、A政治上で役に立つこと、B役人の私曲非分、C役人が長々と訴訟を捨て置いたとき(ただし当の役人へ直訴する旨を断わった上で)、訴えてはならない内容は、A自分のためになること、自分の遺恨で人の悪事を訴えること、B自分がはっきりと知らないことを人に頼まれて直訴すること、C訴訟などにつき筋々の役所へ訴えない内か訴えても裁許のない内に直訴すること、D事実ではないこと、以上の四つの内容の書付は訴人に対して受理しない旨を伝えた上で焼き捨てられた(本人へ伝えない限り焼き捨てなかった)
箱訴ができるのは百姓町人であり、御家人は頭支配に申し出ることとされた、ただし浪人は箱訴をしても構わなかった、書付はかたく封をし訴人の名と宿(江戸宿、ないしは住所)が記されていないと受理されず、同じ内容の訴えを何度もすると罰せられた
訴状箱の鍵を持っているのは将軍だけであったが、訴状を取り出して見たのは制定した吉宗と11代将軍家斉のみだったという説がある、他の将軍については分明ではないとされている
筋違=訴えの受け付け管轄外
手鎖=手錠のようなもの、庶民に科した刑罰で30日・50日・100日の期間があり、罪の軽重によりその期間手鎖をはめ、隔日・5日ごとの手鎖検めに応じ、受刑者の世話は家族が行なったもの
寺院侍=宮門跡や摂家門跡など格式の高い寺に属した武士


5、評定所前箱え度々訴状入候もの之事
(寛保元年)
○評定所前箱へ立て難き願いの訴状を入れ候者は、手鎖かけ預け置く宿仕り候もの、免許の願い再び申し出で候はば宿所の当人へ重ねて訴状入れ候はば、相咎めるべき旨申し聞かせる、尤も当人には右の趣証文申し付け日数構えなく手鎖差し許すべき事
 但し寺院は本寺触頭等へ、浪人は地主家主等へ預け置き免許の願い申し出で候節、これまた前書の通り申し聞かせ証文を取りこれ差し許すべき事
(追加)
○度々箱訴いたし手鎖になり候ところ、差し許し候以後、またぞろ訴状入れ候もの→町・在とも江戸払
(従前々之例)
 但し宿預りまたは手鎖申し付け候ところ、願い相止まず候ものも同断

※註
宿預=やどあずけ、地方から江戸に訴訟のために出てきた者に不正があった場合、その身柄を泊まっている宿屋(公事宿)に預けて逃亡しないよう監視させた、公事宿には旅人宿と百姓宿があり、旅人宿は町奉行所と密接な関係があり、百姓宿は勘定奉行所と密接な関係があった、訴状の提出には公事宿の主人の印形を要したり、目安裏書を被告方へ送達するには公事宿の者の同道を要すなど、地方からの訴訟人にとっては泊まらざるを得ない宿だった、差し紙の送達も公事宿に任されていたことなどから、公事宿は訴訟書類の作成から弁護人的役割なども引き受けていた、江戸宿とも呼ばれた
触頭=ふれがしら、寺院において寺社奉行から出る命令などの触書を配下の寺院へ伝えたり、寺院の訴え事などを寺社奉行へ申し出る役


6、諸役人非分私曲有之旨訴并裁許仕直等之事
(享保6年極)
○諸役人をはじめ其の所の支配人に非分私曲等の儀これ有る旨を訴え出候節は、其の役人支配人へ一通り申し達し、なおまた相済まざる由申し出候はば先方に其の旨を相伺い御指図次第取り計らう、尤も裁許の儀は相伺い申すべく候
(元文3年極)
○奉行所に於いて、諸役所並びに私領で前々裁許これ有りて事済み候儀を年月を経て右裁許非分の由申し立て、再吟味願い出候とも取り上げ申しまじき候、しかれども訴訟方確かなる証文等これ有り、相手方にては証拠これなきにては、先の裁許は必定過失と相見候はば伺いの上詮議に取りかかり申すべき事
 但し相手方に尋ねずして叶わず儀も候はば、評議の上其の所の支配人或いは地頭へ一通り相尋ね申すべき候、猥りに相手召し寄せ申しまじき候事
(元文5年極)
○願い出ず候とも奉行所にて評議の上、先の裁許改めしかるべき儀は伺いの上申し付けべく事


7、公事吟味銘々宅に而仕候事
(享保6年極)
○公事吟味の儀、式日立ち合い差し出し即日相済まざる儀は、かかり奉行宅にて日数かけざるよう吟味を詰め、一座評議の上裁許申し付けべく候
 但し御代官手代かかり申しまじき候事

※註
公事=民事訴訟の裁判、本公事と金公事があり、金公事は借金銀の訴訟で本公事はそれ以外の訴訟を指す、公事は出入物とか出入筋とも称し訴訟人(原告)と相手方(被告)がいる訴訟、これに対して吟味物とか吟味筋という訴訟があり、裁判所が職権をもって被疑者を逮捕あるいは召還して審判するものである
公事の管轄裁判所は、寺社の訴は寺社奉行、江戸の町人の訴は町奉行、御料の者の訴は勘定奉行、訴訟人と相手方が別奉行の支配に属する際は評定所、大名領分の者が他の領分の者ないしは幕府直轄領の者を訴える場合は、関八州以外の私領の者よりの訴は寺社奉行、関八州の内の私領の者よりの訴は勘定奉行が受理管轄した
以上の例外として、武家を相手取る公事は常に評定所の管轄とされ、また跡式(相続)および養子に関する訴訟は常に相手方を支配する裁判所の管轄となった
吟味物については、三奉行、遠国奉行、道中奉行(定員2名で大目付と勘定奉行が各1名ずつで兼務した、諸国街道の宿場吟味や道橋の普請修復など)の支配に属する者の間の犯罪は、その犯罪地を支配する奉行が管轄した
代官手代かかり申しまじき候=勘定所で百姓を吟味する場合、その当該地の代官手代が担当すると住民である百姓に情がうつり裁決が曖昧となるため、その地に関わりのない勘定留役が担当した


8、重キ御役人評定所一座領知出入取計之事
○御老中
○所司代
○大坂御城代
○若年寄
○御側衆
○評定所一座
(元文4年極)
右の分の領知にて出入訴え出候節は、伺い取り計らい及ばざる裁許の趣は相伺い申すべく事
 但し質地並びに借金銀出入は、定めの法これ有る儀に付き伺い及ばざる事

※註
評定所一座=町・勘定・寺社の三奉行を評定所一座といった
領知=領地と同じ


9、重キ御役人之家来御仕置に成候節其主人差扣伺之事
(延享4年極)
○御老中
○所司代
○大坂御城代
○若年寄
○御側衆
○寺社奉行
○大目付
○町奉行
○御勘定奉行
○御目付
○大坂御定番
○駿府御城代
○遠国奉行
(延享4年極)
右の家来の徒士足軽中間等が不届き致し公儀御仕置になり候とも、其の主人は差し控えに及ばず候、侍以上または軽き者にても徒党悪事いたし御仕置になり候は差し控え相伺いべく候
○遠国御役人は其の所に於いて家来悪事いたし御仕置になり候は、右の通り心得べき候事
 但し表向の御役人に候とも家来が徒党悪事いたし御仕置になり候は、其の節の様子次第により差し控え相伺いべき事

※註
差扣=差控と同じ、ここでは主人より書付を出して謝罪すること
仕置=ここでは重追放(関八州・五畿内・肥前・甲斐・駿河・東海道筋・木曾路筋の居住禁止)以上の刑罰ないしは刑の執行の意だが、広義では財政を除いた公権の発動を指す意がある(財政を含む場合もあり)
徒士・足軽・中間・侍以上=徒士(かち)は武士の最下級、足軽は武士ではなく雑役の者で戦陣では歩兵、中間(ちゅうげん)は足軽より軽い雑役夫、侍以上は武士のことで戦陣では騎馬する者


10、用水悪水并新田新堤川除等出入之事
(享保5年、元文5年極)
○諸国村々用水悪水並びに新田新堤或いは川除等において、他領にかかり合い候出入で訴え出候時は、御料は御代官、私領は地頭の家来を呼び出し双方障りこれなきよう熟談致し相済ますべき旨申し聞かす、訴状相渡し其の上相済まざる段は双方役人申し出候はば其の子細承り糺し取り上げ吟味致すべき事

※註
川除=かわよけ、川底を浚うこと。新田開発で用水を引くと古田に水が流れなくなるなど、村々の水争いは生活基盤に深く関わる問題だった


11、論所見分并地改遣候事
(元文5年極)
○論所の事、国境郡境にても双方立ち合い、絵図と御国絵図大概相違これなきに於いては検使及ばず裁許これ有るべき候、入り組み申さざる儀に猥りに検使を差し遣わし申しまじき事
(同)
○検使遣わさず候にて決め難き儀は、国境郡境は御番衆・御代官、村境は御代官が計り差し遣わすべし、但し入り組み申さざる所は郡境にても其の辺りの御代官が見分を行い裁許有るべく事
(享保7年極)
○田畑山林等の出入で絵図書付等にて分け難き地は、改め仕らず候にては相決まらず候はば伺いに及ばずに最寄の御代官・手代を差し遣わし地改めを行い申すべく事

※註
論所=争論になっている場所
国絵図=標準になったのは享保4年(1719)の日本国惣絵図
地改め=国境の地改め役人は大番・代官が派遣され、裁許状には老中が加印、郡境は番衆より代官のみの派遣が多かった、村境は代官の派遣


12、論所見分伺書絵図等に書載候品之事
(享保11年極)
○論所の町歩反別はもちろん証拠に引き候諸帳面証文の文言の内に其の事の員数等書き出し申すべき候、絵図面にて決め候儀は右絵図入用の所ばかりを小絵図に仕り差し出すべき候
(寛保3年極)
○絵図面計りて相分けざる儀は其の傍らに断り書き加え申すべし、但し字数多く候はば絵図には番付けの文字ばかり記し、別紙伺い書に番付けの合い紋差し出すべき事
(元文5年、寛保2年極)
○絵図面論外の分は彩色致さず名所を付け訴訟方相手方と肩書き仕り差し出し申すべき事

※註
番付けの合い紋=絵図面のみでは不明の場合、説明書を付け加え、枚数が多くなったら番号を付け符合させるようにすること


13、裁許可取用証拠書物之事
(元文5年極)
○御朱印は申すに及ばず譲り状古証文古水帳或いは地頭出で置き候書付等、其の紙面疑わしき儀これなきに於いては証拠に取り用い申すべし、私に書き置き候もの或いは寺社縁起の類は猥りに取り用いべからざる事

※註
御朱印=将軍が認可に用いた公印
水帳=検地帳のこと
寺社縁起=由来や沿革などを記したもの


14、寺社方訴訟人取捌之事
(享保6年極)
○寺社訴訟人が届けるべき所へ断わらずして願い出て添え状これなき類は取り上げ申しまじき候、強いて相願い候はば本寺触頭へ相尋ね本寺触頭にて吟味致すべきと申す筋は、本寺触頭へ吟味申し付けべく事
(同)
○本寺触頭を相手取り候か又は本寺触頭へ願い候てもお仕置候に付き止むを得ず願い出候類は添え状これなく候とも取り上げ吟味致すべき事
(同)
○寺社領の百姓が地頭非分の儀を申し出候類は、地頭寺院或いは神主等呼び出して様子相尋ね品により取り上げ吟味致すべき事
(同)
○寺院加わり候出入で裁許申し付け候節は触頭又は本寺を呼び出し承らせ、裁許状に奥印を致させ申すべき事
(寛保元年極)
○一宗法の儀に拘り候ことで、公事訴訟の儀は取り上げ申すまじく候、尤も本寺触頭にて咎申し付け候も難渋に及び候もの又は他宗俗人入り交じり候出入は取り上げ吟味致すべき事


15、出入扱願不取上品并扱日限之事
○火付
○盗賊
○人殺
○人勾引
○逆罪之もの
○名主等私曲非分
○博奕三笠附取退無尽
○隠売女
○巧事
(元文5年極)
右の外にも公儀へかかり候出入扱いの儀は願い出候とも扱い申しまじき事
(同)
○公事扱い願い候節は、日数廿日に限るべし、但し遠国へかかり合い候出入は往復日数を考え其の節々日限り相決め申し付けべく事

※註
人勾引=かどわかし、誘拐犯
逆罪のもの=主人・親・夫などに対しての奉公人・子女・妻などの犯罪
=みかさづけ、宝永期(1704-1710)元禄期(1688-1703)の頃に
俳諧の宗匠が人を集めて、五・七・五の最初の五字を出して、次の七・五を人々に付けさせ優秀なものには褒美として衣類器物をやるということを行っていた、これを冠附とか三笠附と呼んだが、宝永期(1704-1710)の末頃から、最初の五字を3例出し、次の七・五の例を21出し、どれを付けたら秀句になるか当てさせるようになる、参加料は十文ほどで三句とも当てた者は一両が貰えたという、ところが享保期(1716-1735)に入ると、文字を記すことはやめてただの数字を封に入れ、21ある数字の中から三つの数字を当てるサイコロ賭博と大差ないものとなった、それでもこれを三笠附と呼んでいた
取退無尽=無尽(むじん)は講とか頼母子(たのもし)とも呼ばれ、継続的に掛け金を出し合って入札(いれふだ)や振りくじによって取る人を決める制度だが、「取退」(とりのき)はその日に札を売り、当たった者だけが金銭を取り、他の者ははずれとなり掛け金も継続しないものを指す
巧事=たくみごと、詐欺犯


16、誤証文押而取間敷事
(元文5年極)
○相手が得心致さずに押して誤証文取り申すまじき候、たとえ誤証文差し出し候とも其の証文に拘わらず理非次第に裁許仕るべく事

※註
押して=強引に


17、盗賊火付詮議致方之事
(享保3年極)
○盗賊火付詮議の儀は盗賊改め火付改めへ相渡さず其の手切にて詮議致すべき事

※註
盗賊改め火付改め=江戸町奉行とは別に放火・盗賊・賭博に関して捜査・裁判権を持つ独自の警察機関、町奉行は役方(文官)だが、盗賊火付改役(火付盗賊改役とも)は番方(武官)であり、戦陣では先鋒を務める先手弓頭・先手鉄砲頭が加役として務めた、先手頭は1500石高だが、この役に就くと役料40人扶持、役扶持20人扶持の計60人扶持が給付された、賭博(博奕)改も兼務したのは享保3年(1718)からだが享保10年(1725)には町奉行の所管に移っているから短期間だった
盗賊火付改役の最初は寛文5年(1665)の水野小左衛門を嚆矢とし、自宅屋敷を役所とした、この役に就くと籍は先手頭にあるが城内へは出仕せず(席次は先手組の上座)配下の与力同心を使って江戸府内の取り締りを行った、大名・旗本・御家人を除く武士・町人・神官僧侶の区別なく検挙するのが主な任務であり、江戸町奉行のように訴訟を扱わない、よって自宅の役所において独自に罪状を糾明処理していくため間違って捕らえられ処罰されることもあったようだ、先手頭には与力5騎・同心30人が属したが、この役に就くと与力10騎同心50人が配下に付いた
手切=手限り、自分の所で取り調べること


18、旧悪御仕置之事
(延享元年極)
○逆罪(主殺のこと)のもの
(寛保3年極)
○邪曲にて人を殺し候もの
(寛保2年極)
○火付
(同)
○徒党致し人家へ押し込み候もの
(延享元年極)
○追剥並びに人家へ忍び入り盗人
(同)
○すべて公儀の御法度に背き死罪以上の科に処せられるべきもの
 但し役儀に付きて私欲横領いたし候ものは軽く候とも相応の咎これ有るべき事
(寛保3年極)
○悪事これ有り永尋ね申し付け置き候もの
(延享元年極)
右は旧悪に候とも御仕置伺い申すべき候、この外の科は一旦悪事いたし候とも其の後相止め候由これ申す、尤も外の沙汰もこれなきに於いては、十二ヶ月以上の旧悪は咎に及ばざる事
 但し十二ヶ月内より吟味取りかかり十二ヶ月以後に吟味済み候とも旧悪には相立たざる事

※註
旧悪=罪を犯しても十二ヶ月間罪を犯さなければ凶悪犯罪でなければ旧悪として処罰されないというもの、が、十二ヶ月後に吟味が終わったとしても十二ヶ月中に吟味が開始されていると旧悪とはならず処罰されたわけである


19、裁許裏書判不請もの御仕置之事
(従前々之例)
○裁許請けざるもの→中追放
(同)
○裏判並びに差し紙請けざるもの→所払
(追加)(同)
○裁許相済み候儀を内証にて用いず破れ候もの→中追放

※註
中追放=武蔵・下野・甲斐・駿河・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曾路筋・日光道中の居住禁止
差し紙=呼び出し状
所払=居住町・居住村からの追放


20、関所を除山越いたし候者并関所を忍通候御仕置之事
(従前々之例)
○関所通り難き類山越え等いたし候もの→其の所に於いて磔
 但し男に誘引され山越えいたし候女は奴
(同)
○同案内いたし候もの→其の所に於いて磔
(同)
○同忍び通り候もの→重追放
 但し女は奴
(同)
○口留番所を女連れで忍び通り候もの→中追放
 但し女は領主へ引き渡すべし

※註
=はりつけ、関所破りの他に主殺し・親殺しなどに科された死刑、十字に縛り付けて槍を左右の脇腹から肩へ突き上げる処刑
=やっこ、女のみに科された刑、享保13年(1728)に奴女がある際は目付に伝えて、目付から殿中詰めの面々へ伝達し、望みの者があれば渡し、町方では町年寄に伝え、名主家主などに望みの者があれば渡すことに定められた、望みの者がない場合は牢内に置き、昼は牢から出して洗濯などの雑用をさせたという
口留番所=諸藩が国境に設けた人・物の検問所、なお箱根の芦之湖の水中には柵が設置されていたという