吉原という制度                                                    江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

吉原総括

吉原が焼失(全焼)し仮宅(かりたく)に移り営業した回数は、明暦3年の初回を入れて江戸期に23回あった。初回の火事は元吉原だったので、新吉原時代の火事で最も間隔があいている年数を抜き出すなら、延宝4年(1676)から明和元年(1764)の88年間である。この2回の焼失は新吉原に移った1回目と2回目にあたる。88年の間にボヤ騒ぎは何回もあったと思われる。その度に必死になって消火したのであろう。そう考えないと、2回目以降の焼失を説明できない。
 2回目以降、最も間隔があいているのは寛政12年(1800)から文化9年(1812)の12年間で、ひどいのになると明和8年、同9年の連続、元治元年(1864)、慶応元年(1865)、同2年の連続がある。
 明和元年の焼失から江戸期最後の年、慶応3年(1867)の103年間を単純に20で割ると約5.2。ほぼ5年に1回は焼失していることになる。
 88年間焼失しなかったのが、なんとその後は5年ごとに焼失したのである。怪しむに充分であり、きわめて異常である。故意に放火したとはいわないが、ボヤ騒ぎとなっても必死に消火しなくなったとは、確実にいえよう。
  ■吉原焼失年
1 明暦 3年(1657) 正月   9 天明  7年(1787)11月 17 弘化 2年(1845)12月 
2 延宝 4年(1676)12月  10 寛政  6年(1794)  4月 18 安政 2年(1855)10月 
3 明和元年(1764)  8月 11 寛政12年(1800)  2月 19 万延元年(1860)  9月 
4 明和 5年(1768)  4月 12 文化  9年(1812)11月  20 文久 2年(1862)11月 
5 明和 8年(1771)  4月 13 文化13年(1816)  5月 21 元治元年(1864) 正月
6 明和 9年(1772)  2月 14 文政  7年(1824)  4月 22 慶応元年(1865)12月
7 天明元年(1781)  9月 15 天保  6年(1835) 正月 23 慶応 2年(1866)11月
8 天明 4年(1784)  4月 16 天保  8年(1837)10月  

 寛政8年(1796)の「新吉原町規定証文」で、熱心に消火活動をするよう遊郭内で申し合いをしている。格式に依存する茶屋の主人らには火事は迷惑だったろうから、火事を歓迎するふうがある遊女屋の主人らを戒めたものだろう。
 吉原の仮宅営業は、仮宅ゆえに開けっぴろげな雰囲気で、当然格式張ることはなく、遊女屋とは異なる趣きが新鮮に映り、非常に繁盛したという。
 従って、宝暦期(1751-1763)から寛政期(1789-1800)前までの岡場所全盛期は、88年間焼失しなかったそれ以前と比べ、突如として焼失間隔が短くなるのである。
 
 仮宅が設けられた土地は、新吉原が浅草寺裏の田圃の中にあったことから、浅草寺と隅田川、山谷堀に挟まれた三角地帯である田町、新鳥越、浅草山之宿、浅草聖天町、浅草花川戸などが中心となったが、深川永代寺近くにも設置している。
 吉原が焼失し営業ができなくなった場合、遊女屋の代表者と名主が仮宅設置場所と仮宅営業日数を書き上げて、町奉行所へ許可を願い上げる。する。町奉行所で検討した後、許可する仮宅設置場所と営業日数を伝える。
 例えば弘化2年の焼失では、40ヵ所の仮宅地と500日の営業の許可を出願しているが、許可されたのは28ヵ所の仮宅地と250日の営業であった。
 仮宅2回目くらいまでは、賑わいのある寺社の近辺の家屋を探し出し、見苦しくないよう造作などしていた。が、慣れてくるに従い、家屋を買っておき控屋にしたり、地主家持に手付金を定期的に払い、仮宅に備えるようになった。といっても、体裁が悪くても客は仮宅だからと鷹揚だったというから、家屋は立派なものではなかった。また、仮宅時は町奉行所同心の巡邏は変わりなく行われたが、遊女
・芸者の外出は自由だった。

■吉原の太夫の数は、享保期(1716-1735)の10人前後から宝暦2年(1752)の1人となって遂に消滅に至った。法制史家の石井良助氏によると、享保16年(1731)に町奉行は岡場所6カ所(深川州崎、深川八幡前、本所横堀鐘撞堂辺、護国寺音羽町、根津門前、新氷川門前)を「売女御免の場所」に定めようとしたらしい。町奉行は吉原を公娼許可した際の5ヵ条の内の1条「吉原傾城町の外にては一切傾城商売を許さず」があるにもかかわらず、なぜ公娼地を増やそうとしたのであろう。
 享保16年の町奉行は3人いる。大岡越前、諏訪美濃、稲生下野。この年の9月19日に諏訪と稲生が交替しているから、公娼地を増やそうと考えたのは二人より古手の大岡であろう。前例主義をとらない大岡らしい考えである。
 さて、大岡はなぜ公娼地を増やそうとしたのか。公娼地の候補となった6ヵ所はいずれも当時江戸の周縁地である。享保6年より5年後の元文元年(1736)に行われた江戸の人別帳調査がある。町方の人口は52万7000人余り、その内男は33万4000人ほど、女19万3000人ほど。武家の人口は町方並に数えるのが通例だから、江戸の人口は100万余りとなる。男女比を考えてみよう。町方では女の比率は約37l。旗本・御家人は江戸常駐だが、参勤交代でやってくるのはほぼ男ばかりである。これを加味すると江戸の全人口の中に占める女の割合は20lほどと考えられる。
 10人の内女は2人。現代でさえ痴漢・暴行は絶えない、いわんや、であろう。町中に公娼地があるのは風紀上よろしくないということから、吉原は移転させられた。公娼地候補の6ヵ所は周縁にあり、6ヵ所の内なんと3ヵ所は隅田川の向こうである。膨張する江戸の人口を川向こうへ移動させるための目玉として3ヵ所を捉えていたとしても不思議ではない。隅田川には明暦期には架かっていなかった橋が三つもあった(千住大橋は文禄3年1594に架かっているが江戸町中からは遠すぎた。両国橋寛文元年1661、新大橋元禄6年1693、永代橋元禄11年1698、ついでに吾妻橋安永3年1774、以上は竣工年)。江戸町中から近くなり、管理しやすくなったわけだ。
 もう一つ加えれば、吉原の格式における衰微である。虚説だと思うが、仙台伊達62万石3代藩主綱宗に身請けされた三浦屋の高尾太夫は、綱宗が舟で屋敷へ連れ帰る途中、高尾がどうしてもなびかぬため立腹した綱宗によって吊るし斬りにされたという。江戸期に真実味をもって流布した話であり、吉原の太夫は62万石をもってしても落とせぬ格式があったと広く伝わったであろう。ところが、いまや太夫は10人、勢いは散茶女郎にあり、これは誰とでも同衾するのだから岡場所の売女となんら変わらぬではないか、そう大岡は考えたに違いない。

■しかし、大岡越前の考えは実現しなかった。吉原の遊女屋の主人らが真剣になって反対したからである。二癖三癖あるのは当たり前なのが遊女屋の主人である。たかが岡引に1年間600両を付け届ける吉原である。吉原へ1回も行かぬのは男ではない、といわれた時代、いまは老中、若年寄、側衆を務める者も部屋住み時代は吉原へ遊びに行ったはずである。これらに対し、吉原の遊女屋主人らは、まいない攻撃を仕掛けたのだと、わたしは思う。
 対象は違うが深川他の岡場所は町奉行所の与力・同心に、おめこぼしのまいない攻撃を仕掛け寛政改革まで全盛を謳歌した。そして、松平定信が退くと息を吹き返し文化文政を生き抜くが、天保改革ですべての岡場所が潰され、水野越前が退いた後も打撃を吸収し得ず、青息吐息で明治を迎えることになる。
 一方の吉原は景気が悪くなると焼失し、仮宅と怪動(けいどう)のバランスを計りながら明治を迎える。怪動とは町奉行所が私娼を摘発することを指す。吉原が訴願することで町奉行所が怪動を執行するのである。吉原の訴願がなければ執行しないのが慣例であった。
 摘発された売女は吉原へ送り込まれ、吉原遊女屋による入札で格が決められ、三年間吉原で女郎勤めをしなければならなかった。
 歴史学者は、怪動と天保改革によって吉原の遊女数が増え、吉原の頽勢は挽回されたが、私娼の流入によって妓格の低下が進んだとする。下級遊女が増え裾野が広がったと見てはどうだろうか。太夫が消滅し妓格が下がったことは確かだ。しかし、それは江戸中期のことである。
 
 こんな話がある。天保期(1830-1843)末に出雲少将の侍妾だったお光という女のことである。出雲少将とは出雲松江18万7000石9代藩主松平斉斎(なりより)を指す。文政5年(1822)に家督相続し、従四位上権少将。嘉永6年(1853)に遊芸人を招くなど頽廃的であったことから隠居させられている。
 お光は町火消ま組の頭の友蔵という者の娘で、容色芸事とも優れていたという。お光は斉斎が隠居すると、自ら好んで吉原に入り、京町一丁目の岡本屋長兵衛の見世から「思へば」という名で遊女に出た。一時評判となった。だが、お光は最上級の呼出しとはならずに止めたという。
 すでに述べたことだが、吉原で呼出しとなれるのは禿(かむろ)の経験者のみと決まっていた。幕末であっても吉原は決まりを崩さなかったのだ。下級遊女の裾野は広がったが、最上級は生え抜きとの制度は崩れなかった。
 庄司甚右衛門が元和3年(1617)に5ヵ条を勝ち取って以来、江戸期のみで250年間生き延びた。なにがあろうと、強かに継続する意志がないと続かない長い長い期間である。それを可能にした唯一のものを挙げるなら、庄司甚右衛門の先見性であろう。


※参考文献 「第二江戸時代漫筆」(石井良助 明石書店) 「江戸町方の制度」(石井良助編集 新人物往来社)「江戸学事典」(弘文堂)など