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吉原の遊女

■太夫の数を年代ごとに記してみよう。
 元吉原の時代だった寛永期(1624-1643)の末に75人(この当時、格子37人、端881人)、新吉原に移転間もない万治期(1658-1660)頃は25人、享保期(1716-1735)は10人前後、寛保期(1741-1743)になると2人、宝暦2年(1752)に1人となって太夫は消滅する。
 太夫となるに相応しい容色や素養のある女郎が減少したのではなく、太夫として売り出しても遊女屋は儲からなくなったということである。早い話が需給の関係である。散茶(さんちゃ)女郎が現われ、客層が変わった。いや、客層が変わったから散茶女郎が現われたともいえる。
 客層が変わった端的な例として挙げるならば、万治3年(1660)9月28日に佐倉藩主堀田正信が幕府に無断で佐倉城下へ帰り、老中松平信綱らの幕政批判の上書を提出したことである。上書には将軍輔導人がその道を得ないために天下の人民は疲弊し武士も貧困である、早く恩恵を施し窮愁を慰めるべきであるとし、所領返上を申し出たのだった。
 万治期あたりから、旗本・大名の余裕はなくなり始めていた。これに代わるのが札差(ふださし)や幕府御用達などの特権商人だった。札差は旗本・御家人へ支給される蔵米を担保とする高利貸商人のこと。

 さて、散茶女郎である。新吉原移転にあたり幕府が取り潰した200軒余りの風呂屋があったが、その後もこの手の風呂屋が潰せど潰せどモグラ叩きのごとく現われた。寛文3年(1663)、手を焼いた町奉行所がこれら風呂屋と新吉原を示談させた。その結果、71人の風呂屋主人とその抱え湯女512人が新吉原遊郭内に移転することとなり、江戸町二丁目内に新町二つを設け、堺町と伏見町と名付けた。
 これら湯女が散茶の起源であるが、名称の由来を記すと、当時は散茶
という粉茶があり、この茶は袋に入れた煎茶のように沸騰した湯に入れて振らなくても茶の色が出た、誰であっても振らずに色を出す湯女は、散茶と同然だとのことから名付けられたそうだ。
 
新吉原の女郎は大名・豪商であろうと気に入らない男達の意のままにならなかったらしい。加えて格式ばった揚屋制度もあり費用がかかった。
散茶女郎が新吉原を席捲した理由が判ろうというものだ。当初は移転した湯女を散茶と称したが、散茶の中にも容姿の優劣があったから徐々に分化していく。

■下の表をご覧いただきたい。遊女の呼称・等級を説明したい。
 元吉原開基当初は太夫と端(はし)女郎の
上級と下級の2種しかなかった。寛永期に格子女郎や局(つぼね)女郎、切見世(きりみせ)女郎が加わる。局と切見世の出現を正保・慶安期(1644-1651)とする説もある。
 揚代を記すと、当時は元吉原の時代で昼のみだが、太夫は銀37匁、格子は25匁、局は20匁。元禄前の公定相場は1両が銀50匁だから、局が後の昼三(ひるさん)クラスにあたる。切見世女郎というのは長屋見世で客を取り、1切単位(例えば昼6切夜6切の切見世なら、1切は1刻にあたり現在の2時間となる) で売る女郎のことだが、これは後述する。 

■開基〜寛文以前/客の中心は旗本・大名
遊女の等級

 A太夫 B格子(こうし) C局(つぼね) D端(はし) E切見世(きりみせ)
※太夫には「引船」(ひきふね)と呼ばれる遊女が付いた

 
■寛文期に散茶登場、元禄期に局、端が消えた以降/寛文以後の客の中心は豪商
遊女の等級
A太夫 B格子 C散茶(さんちゃ) D梅茶(うめちゃ) E切見世
※享保期から太夫 ・格子を「花魁」(おいらん)と呼ぶようになる
 
■明和期に太夫 ・格子と揚屋(あげや)が消滅、明和期以降の客の中心は町人層
遊女の等級
A散茶 B梅茶 C切見世
散茶は以下の三階級に分化し、三階級とも花魁と呼ばれる
A呼出し B昼三(ひるさん) C付廻し(つけまわし)
※花魁には「新造」(しんぞう)と呼ばれる遊女が付いた、新造の頭を番頭新造(客は取らないのが原則、「番新」と呼ばれた)
 
■明和期以降の揚代
呼出し 昼夜で1両1分
昼三    同     3分
付廻し     同     2分
梅茶      昼     400文
               夜     600文     
切見世       1切(きれ)
       50文〜100文
 
■大茶屋7軒
山口巴屋 井筒屋
近江屋 升屋 松屋
海老屋 駿河屋
■遊女屋の等級
総籬(まがき) 格子が見世(みせ)前から入口土間脇まである
                    揚代1分以下の遊女はいなかった
                    茶屋を通さないとOUT
半籬      土間脇の格子が上半分から四分の一ない
         揚代2分以上の遊女が交じっていたので交見
         世(まじりみせ)とも呼ばれた
                   茶屋を通さないとOUT
総半籬         格子のすべてが下半分しかない
         揚代1分の遊女がいても一人のみ、ほとんど
             が揚代2朱   フリの客でもOK
※1両は4分、1分は4朱、4朱は1000文。以上は公定相場実際は4朱は1500文ほどだと思う。よって2朱は750文
小格子     梅茶女郎がいたが見世の構えは不分明
切見世     小間割長屋 切見世女郎がいた

 散茶女郎が登場する寛文期に局女郎の揚代が20匁から15匁に値下がりする。散茶が15匁だったため対抗して同値にしたのである。これによって散茶の格が知られる。
 散茶との競り合いに負けた局は、元禄期(1688-1703)に梅茶と切見世女郎へと格落ちしていく。中途半端な格となった端女郎は消滅。
 時代が下るにつれ揚代は上昇し、寛保期(1741-1743)には昼夜で太夫銀84匁、格子60匁(元禄以降の公定は1両銀60匁)、散茶は金3分、金2分、1分の三等に分かれる。散茶の勢いは衰えしらずで、太夫は老舗玉屋山三郎の小紫と、同じく老舗三浦屋四郎左衛門の薄雲の二人のみ。格子女郎も19人となる。
 宝暦期(1751-1763)になると老舗三浦屋四郎左衛門の遊女屋が宝暦5年に廃絶、一人となった玉屋の太夫花紫が宝暦10年に消え、揚屋制度も滅びる。散茶のみが勢いを増し明和期(1764-1771)に表のごとく揚代を上げ、三分化したそれぞれに名称が付くようになる。

 元吉原時代の寛永期に剣客宮本武蔵は京町の河合権右衛門の抱える局女郎雲井の馴染み客だった。当時の局女郎のいる局見世は幅6尺から9尺(約1.8〜2.7b)奥行2間(約3.6b)の部屋で、かちん染(褐色)の暖簾の掛かった3尺(約90a)の入口を入ると、3尺(約90a)四方の踏込庭があり、ここに幅1尺5寸(約45a)長さ3尺の腰掛を置いた造作だったという。
 江戸庶民のいわゆる9尺2間(くしゃくにけん)の裏長屋と変わりないが、暖簾や踏込庭に遊女らしき趣きがある。
 局女郎は時代が下るにつれ格が落ち切見世女郎となっていく。切見世は京町一丁目と二丁目の裏路地と角町へ折り曲がる所にあった。天保期(1830-1843)以前は一の長屋地区から五の長屋地区まであったが、水野越前守の改革で江戸の岡場所の切見世を悉く吉原遊郭内に移転させたため、長屋地区が三つ増えた。
 この天保期の切見世は寛永期の局見世より広かった。長屋は一棟を数十戸に割り、一戸あたり間口1間奥行3間の広さであった。入口の柱に角行燈を掲げ、入口を入るとやはり3尺四方の踏込庭があり、中は二畳敷の部屋が二つあった。
 切見世の女郎は概ね30〜50代で、戸前で躊躇している客がいれば、強引に引き込んで逃がさなかったという。1切というより1回50文の切見世も多く、中二階を設けた長屋もあったようである。

■揚屋が絶えると引手茶屋が代わりを務めた。格式ばらず簡略化し費用もかからなくなったが、初会・裏を返す・三会目で馴染みとなる形式は変わらなかった。
 引手茶屋は突然前触れもなく出現したようにみえる。一説に引手茶屋は以前から揚屋に付属していたとするものがある。これに対して、大門の外の五十間道に編笠茶屋が20軒余りあり、宝暦期に編笠を借りる者がなくなったことから、遊郭内の仲の町大通り沿いへ茶屋を移したとする説がある。
 編笠は顔を隠すものだが、それを必要とする武家客が減少した上、目だけ出す黒い竹田頭巾が流行ったらしい。これが借り手のいなくなった理由のようである。
 寛政期(1789-1800)に茶屋の数は、江戸町一丁目に18軒、江戸町二丁目に7軒、揚屋町に38軒、京町一丁目に6軒、角町に16軒、伏見町に9軒、大門外の五十間道に数軒あった。表の大茶屋7軒は江戸町一丁目にあり、仲の町大通り沿いに並んでいた。
 茶屋を通さない遊女と同衾できない遊女屋は、総籬(まがき)だけとする説がある。半籬は茶屋を通さずとも客を直接あげた。なぜ総籬だけが茶屋を通したかといえば、客の勘定から遊女選択などの周旋を、総籬は自らするのを煩わしいと思っていたからと、この説は解く。
 遊女の揚代を清算し周旋までするのは揚屋時代からの慣行だった。大見世の遊女屋は、遊女だけ管理していればよかったのである。茶屋も中間手数料や酒肴料などで稼いだからお互いさまとも思えるが、遊女屋が競って茶屋へ音物を贈っていたから(規約違反であった)、遊女屋には有難いシステムだったようである。
 話は変わる。遊女屋は屋号を名乗っていたが天明期(1781-1788)になると、この頃全盛だった扇屋宇右衛門が五明楼と名乗り、これを嚆矢に丁子屋が鶏舌楼、松葉屋が松葉楼と楼号を付けるのが流行り、遂に新吉原の遊女屋は屋号から楼号へと変わった。また遊女屋の主人を以前は「遊女が親父」(きみがてて)といっていたが、これもただ「爺」(おやじ)と呼ぶようになった。

 こんな川柳がある。
 A傾城は二十八にてヤット足袋
 B娑婆も額も広うなる二十八
 C傾城が客を見立てる二十七
 
Aの川柳は吉原の遊女の年季明け(解放)が28歳だったことを示す。禿(かむろ)までは足袋をはき遊女になると裸足だったことが知られる。Bは遊女は眉墨を描いていた。28歳の年季明けに眉を剃り落とすので額が広く見えるという意味。Cは年季明けの前年から、遊女が自分の身を任せられる相手を選ぶようになることを示している。数え27歳までが遊女の商品価値だったわけである。
 吉原遊女の生え抜きは禿からスタートした。禿は7、8歳から12、3歳までの少女を指す。禿の名の由来は、頭髪を頭頂部分のみ残してあとはすべて剃ったことからだという。禿になりたてから数年経つと、おかっぱ状の垂髪になった。
 禿の遊女のなりはじめ、客を取らない遊女見習い「新造」となるが、この新造が初めて客を取ることを、「突出し」と称した。突出しとは新造の将来性を見込んで遊女屋の主人が売り出すことを意味し、容色や芸事、機転に劣る新造に対しては突出しはやらない。
 突出しは、その遊女屋において全盛の遊女に主人が依頼することに始まる。突出し依頼を受けた遊女は御役と呼ばれ、御役は馴染み客の中から突出し費用を負担できそうな者を選び強請(ねだ)ることになる。突出し費用は季節によって差があった。春なら300〜500両、夏は200両余りだったという。
 これだけの費用を出せる対象客は、金座銀座の役人、蔵前の札差、日本橋魚河岸の魚問屋、神田青物市場の青物問屋、新川の酒問屋などに限られたそうで、この中でも魚河岸・青物市場は馴染みの遊女から突出し費用の負担を依頼されると、栄誉と考え承諾する気風があったという。本人に余裕がない場合は一時市場の共有金をあてることがあり、仲間内からも反対の声はあがらなかったそうである。
 突出し費用は座敷に積む蒲団・夜着などの夜具類、さらに座敷の積物として縮緬などの反物や煙草入れ、扇子などで、これらは突出し新造が普段懇意にしている茶屋の夫婦や芸事の師匠などへ祝儀として贈られた。遊女屋の関係者には仕着(しきせ)などを贈った。贈物には突出し新造の紋所を入れたという。
 なお、突出し新造は最高級の呼出し女郎となったが、禿を経ない者はどんなに容色・芸事に優れていても呼出し女郎にはなれない決まりであった。

■新吉原遊女の数の変遷は以下のごとくであった。

寛保  3年(1743) 2084人  この内切見世女郎312人
宝暦  4年(1754) 2053人  この内切見世女郎175人
明和  5年(1768) 2205人  この内切見世女郎 95人
安永  7年(1778) 2242人  この内切見世女郎148人
文化13年(1816) 1966人  この内切見世女郎214人
天保11年(1840) 2335人  この内切見世女郎  24人
安政  2年(1855) 3732人  この内切見世女郎119人
安政  5年(1858) 3875人  この内切見世女郎542人 
慶応 元年(1865) 3120人  この内切見世女郎247人 
慶応  4年(1868) 3179人  この内切見世女郎424人 

※水野越前守による天保改革は天保12年5月より始まり、江戸町中の隠売女の新吉原移住令は翌13年3月に発布されている。