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吉原という制度                                                    江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

吉原の始め

■江戸期の初頭の慶長の頃には遊女町はなかった。2、3軒分散して男を遊ばせる場所はいくつもあり、10軒以上となると麹町8丁目に14軒ほど、鎌倉河岸に17軒ほど、道三河岸近く(当時は「柳町」と称したという)に20軒ほどの遊里があっただけだった。
 慶長17年(1612)後北条家の浪人という庄司甚右衛門がこれら遊里を見て回り、京・大坂・駿府には公許の遊里町があるのに江戸が野放し状態では、人は放縦に陥り悪業の巣となるかもしれないから、遊女屋は一ヵ所にまとめ取締りの策を考えるべきと、三ヵ条の建言にして幕府へ提出する。要約すると以下になる。
 1、父兄や主人の眼を忍んで遊蕩する良家の子弟を取り締れる
 2、良家の子女が勾引(かどわか)されて娼妓に売られそうになった場
    合、それを防ぐことができる
 3、大坂方の残党が忍んでくることがあろうから、これを取り締れる  
 甚右衛門の建言を幕府が取り上げるのは元和3年(1617)3月と遅かった。しかし、幕府は日本橋葺屋町(ふきやちょう)辺りの2町四方の土地を甚右衛門に与え遊里町とすることを許したのだった。
 その土地は葭(よし)や茅が繁る沼地だった。甚右衛門は土地を埋め立て町家の普請を急ぎ、翌元和4年11月に築造がなる。葭原の地を好字の吉原と名付け遊里町を開いた。

■遊里町を始めるにあたり幕府から甚右衛門に5ヵ条の申し渡しがあった。傾城とは遊女のこと。
 1、吉原傾城町の外にては一切傾城商売を許さず、傾城を囲外へ遣
    すことも相成らぬ
 2、傾城を買遊ぶ者は一日一夜に限ること
 3、傾城は総縫金銀の摺箔などの衣類を着用することを許さず
 4、傾城屋は家作を華美に致すべからず
 5、傾城町において武士、町人ともに出所不審の者が徘徊の際は住
       居を吟味し、なお不審の場合は直ちに奉行所へ訴え出るべし
 吉原町総名主に命じられた甚右衛門は、吉原を5ヵ町に分けた。江戸町1、2丁目、京町1、2丁目、角(すみ)町がそれで、江戸町1丁目に道三河岸の遊女屋を、同2丁目には鎌倉河岸の遊女屋を、京町1丁目には麹町の遊女屋を、同2丁目には新たに上方から下った遊女屋を、角町には京橋角町の遊女屋を配置した。

■狐が迷い込むような土地だったが江戸が賑わうにつれ茶屋が建ち、さらに近くで女歌舞伎や踊芝居が興行されると、江戸市中の人気を集めるようになる。庄司甚右衛門はすでに亡くなり、開基から40年余りを経た明暦2年(1656)10月、風紀の乱れを恐れた幕府は、吉原を召し上げ代替地として本所か山谷のいずれかへ移転するよう命じてくる。この当時隅田川に橋は架かっておらず(千住大橋は文禄3年=1594に架かっているが江戸町中からは遠すぎた)、移転先は山谷となった。
 山谷=浅草寺裏の浅草田圃に5割増の3町四方と1万500両を与えられ、翌明暦3年2月中に引き払うことが決まった。ところが、正月に大火があり、吉原は全焼する。
 急ぎ山谷の造成普請を進める一方、今戸・山谷・新鳥越の百姓家を借りて仮宅(かりたく)営業を行う。同年8月新しい吉原が開かれることになる。これ以後、旧来の吉原を元吉原、移転後の吉原を新吉原と呼ぶようになる。また、移転地が江戸の北の端だったため北里と呼ばれたり、江戸市中から馬や舟で向かうことから、山谷通いとも呼ばれた。

※庄司甚右衛門の来歴
 正保元年(1644)に69歳で没している。主家の小田原北条氏が滅びた天正18年(1590)、甚右衛門は15歳。この時初めて江戸に流れ着き、縁のあった道三河岸、当時は柳町の遊女屋に居候したと伝わる。
 もう一説には、甚右衛門の叔父が東海道吉原宿駅で旅籠を経営していた。小田原城が落城した後、甚右衛門はこの叔父のところに身を寄せる。甚右衛門は叔父へ、これからは江戸が繁栄する、旅籠の飯盛女(当時は足洗女と称した)を連れて江戸へ移ることを進言。
 叔父は甚右衛門の進言を容れ、吉原宿駅の旅籠屋にも説き勧めた結果、25の旅籠屋が江戸へ移転することになる。かれらは直ちに江戸入りせず、品川大井村の近くの荏原郡荒井宿にて遊女屋稼業を始める。天正19年のことだという。
 叔父の一人娘を妻にした甚右衛門は、叔父の稼業を継ぎ、江戸にて一大遊郭を開こうとの野望を抱く。慶長5年(1600)、関ヶ原の役の折、家康が兵を率いて江戸を発する噂を耳にした甚右衛門は、大井村の海岸に扮装した遊女のいる茶店をいくつか設営し、自らは袴姿になり道端に正座して家康を待つ。
 当然、通りかかった家康は訝しんで近臣へ、あれは何者なりやと問う。待ってましたと甚右衛門、小民が安心して生業を営めるのは家康公の武徳が高いからであり、今回の戦も首尾よくいくでしよう。その首途を祝してお供の方々へ抱えの遊女から粗茶を捧げたいと念じ、ここでお待ち申していた。そう言上したのである。
 往路のみならず戦勝後の復路においても同様のことをした甚右衛門は、家康とその近臣たちに強く印象付けたに違いなく、江戸柳町に転居し一ヵ所に遊女屋をまとめる願いを提出、許可されるに至る。甚右衛門以前にも請願した者がいたが、これらは退けられていた。提出した三ヵ条の立案が巧かったこともある。三ヵ条の内、1と2は反対理由にもなり、真逆の発想といえる。
 
 甚右衛門の子孫は屋号を「西田屋」と称する遊女屋を経営し、名主を務めている。通称は甚右衛門、甚之丞、又左衛門などと異なり、代々甚右衛門を名乗ってはいない。
 総名主は初代の庄司甚右衛門、2代三浦屋四郎左衛門であったが、総名主を止め4人の名主を置くようになる。この名主は遊女屋の経営主が兼ねていたが、いつのころからか名主は専業となる。寛保年間(1741-1743)の名主に甚右衛門の子孫の名はないから専業名主にはならなかったようだ。
 なお、吉原の名主は将軍代替時の能狂言には招かれず、江戸市中には21番まで名主組合がある。が、吉原の名主は番外とされ他組との交流はなかった。

※付記 ・元吉原の賑わいと新吉原移転
 
元吉原は遊客ばかりでなく物見高い見物人も多くぶらつき、中之町の4間ほどの通りは雑踏が激しく、女子供は通りの向こう側へ行けなかったそうだ。
 寛永17年(1640)頃、武家や商人が夜遅くまで遊んで翌日の勤めに差し支えることが多くなり、吉原の営業は昼間だけと規定された。これを機会到来とみた湯屋などが、垢流し女と称しながら夜間に女郎同然の営業を行うに至り、元吉原は衰微する。なにしろこんな湯屋が200軒ほど出来たというから、吉原は迷惑し町奉行所へ訴え出たと思われる。天下御免の公娼街なのだから当然であったろう。
 湯屋の一件は幕府によって善処されるが、その前に「吉原の課役」を記しておこう。
 1、江戸城の煤払い、畳替え、火事の際には人夫を差し出すこと
 2、山王・神田の両大祭には傘鉾(山車の類)を出すこと、また愛宕の祭礼には禿(か
   むろ)の内で殊に美麗なる者を選び、美服を装わせて練り歩くこと
 3、老中、三奉行(寺社・勘定・町)が出座する評定所の式日(2日、11日、20日)には
   最上級の遊女(この当時は太夫)を給仕として差し出すこと
 3については寛永年間(1624-1643)に中止となった。家光の時代にあたり、春日局あたりが中止させたのかもしれない。これはわたしの憶測。それにしても元吉原時代の遊女は卑しい下賎なる者という見方よりも、平安時代の白拍子のような扱い方である。
 
 さて、湯屋の一件も含め、新吉原への移転にあたって幕府が出した条件を以下に列記する。明暦2年10月のものである。
 1、今までは2町四方の場所だが、新地は5割増しとする
 2、今までは昼間のみの営業だったが、今後は昼夜の商売を許す
 3、江戸町中に200軒余りの風呂屋を悉(ことごと)く潰した、これは風呂屋から隠し売
   女を差し出させたゆえである
 4、引越し料金として1万500両を下賜する
 3は恩着せがましいが、「公娼街吉原」は幕府の政策であり、今後湯屋同様の私娼の
動きがあれば、いつでも幕府はそれらを潰すと約束しているように受け取れる。