吉原という制度                                                    江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

吉原に関わる職業

■新吉原(以下吉原と略)には遊女屋と引手茶屋(以下茶屋と略)だけがあったのではなく、生活に欠かせない日用品を扱う店もあり、すでに紹介した遊女屋の若者など吉原の特異性から生じた職業に就く人々も住んでいた。このページでは、吉原の特異性が生んだ主だった職業を紹介することにしたい。


女衒(ぜげん)
 女衒は吉原に限った商売ではないが、天保期(1830-1843)に吉原へ遊女を売った女衒は山谷田町(遊郭外)に15軒ほどあった。その中でも三八という者が経営する近江屋は規模が大きな女衒屋だった。
 地方の女衒を山女衒と称す。山女衒の多くは近江屋に属し、誘拐した女児を近江屋へ担ぎ込んだという。山女衒は城下町、宿場町、在郷を物色して歩くのを常としたが、吉原の遊女屋主人から注文を受けることもあり、この時には名古屋、新潟の地へ買出しに向かった。東日本を代表する城下町と湊町であるから、将来性のある女児がいる確率は高い。買出すというのはその土地の女衒から買うことを指し、娘を売らなければ生きていけないような貧窮な家を見付け出し、そこの娘を買ってくるわけではない。
 確かに娘を遊女へ身売りしなければ借金を返せず、一家心中しなければならないという例もあったであろう。が、そうした例は吉原には多くはなかったと、わたしは思う。吉原へ遊女を供給するのは女衒である。遊女屋主人自ら探し歩くことはなかった。ならば女衒は高く売れる娘を探す。効率よく探し出すには人口の多い土地に限る。運ぶにあたっては小さいほうがいい。どうしたって女児誘拐に向かわざるを得ない。吉原の切見世には年季の明ける歳以上の女郎たちが多くいた。小さい頃に誘拐された者に帰る場所などあるわけがない。身売りする家庭環境にあった娘たちより、もっと悲惨である。
 親の借金から身売りした、例えば百姓の娘などは街道筋の飯盛女になったのではないかと思う。吉原にはこの種の娘はいたとしても少ない部類だったであろう。

 さて、時には遊女屋主人が希望するような女児が近江屋にいる場合もあった。この場合は田舎臭さを抜き江戸風につくった上で、女児をともなって吉原へ見せに行き、値段の交渉をした。女衒屋のほうもこれはと思った女児は寄宿させ、女衒の女房が磨きをかけて垢抜けさせ、女衒の養女として売ることも多かった。
 従って、遊女屋主人と売買契約書(女衒が証文を親元から差し入れさせる形をとる)を交わす際には、女衒が親元となったのである。以下は証文の形式例。

    年季証文の事
                                   何某
                                     何歳
このお何と申す者、何町何兵衛店(たな)何助の娘にて、貴殿方へ二十五年一ぱいの暁まで、金子百両にて御抱え下だされ、水金(みずきん)として、金何両御渡し下だされ、たしかに請取(うけと)り申し候、跡金(あときん)の義は人別と引換えに致すべく候、この者勤め中横合(よこあい)よりかれこれ申し候ものこれあり候はば、われらまかり出で、埒明(らちあ)け、貴殿へ対し少しも御迷惑相掛け申すまじく候、宗旨の儀も代々何宗にて、寺は何町何寺檀那に紛れこれなく候、年季証文後日のためよってくだんのごとし
                                        親元 何某
                                        請人 何某
                                        家主 何某
      何右衛門殿

 何某何歳は娘の名と歳、何兵衛店は親が店借している長屋の家主名、二十五年一ぱいとは娘が数えで二十六歳手前までの意、水金は支度金のことだが女衒が掠め取ることもあり、本人は不見(みず)の金で水のごとく流れ去るから水金の字をあてたとも、あるいはちゃんと支度金として衣服が身付(みづ)くからきたともいわれる。人別はここでは人別帳ではなく、親が生国・宗旨・檀那寺・店請人の住所氏名と家族の名前・年齢・職業・続柄を紙に記し、これに家主の印を捺したものだろう。請人は保証人、家主は地主から長屋管理を任された者、何右衛門殿は遊女屋の主人名である。

奉公人入口所
 
江戸町中の請宿(うけやど 奉公口の周旋屋)の看板暖簾は「御奉公人口入所」と記すのが普通だった。「口入」は「くちいれ」とも「くにゅう」とも読むが、吉原で働く奉公人の周旋を専業とした浅草馬道四丁目の「大塚屋」と「酢屋」の看板暖簾には「御」が抜け、「口」と「入」が逆に記されていたという。理由は判らない。
 大塚屋は遊女屋の若者や番頭新造、お針などの周旋をし、酢屋は茶屋の奉公人の周旋と分担していたようだ。番頭新造は新造をまとめた元遊女のこと。年季明けしたが江戸町中に適当な職業がなく、大塚屋を介して遊女屋で働いたのである。番頭新造は客の懐具合や通か野暮かを判断し、その客への接し方を遊女へ教えたそうである。
 「お針」というのは遊女の晴着や夜具などを仕立てた者で、余禄として小布を空き俵に蓄えて1俵300〜400文で人形の衣類を作る者へ売ったという。
 大塚屋、酢屋の主人は岡引も務めており、周旋した者が不正を働き遁走した時などは捕縛するのが容易だったらしく、こうした便から吉原専業の周旋屋になったようである。

見番
 
吉原の女芸者、男芸者を一手に取り締ったのが大黒屋。
 当初大黒屋は角町(遊郭内)で遊女屋を経営していた。安永8年(1779)に女芸者の風儀を矯正しようと(色を売る芸者の取り締り)、同業者と相談して見番所を始めたという。これが遊女屋よりかなり利益が出たようで、遊女屋を廃業して見番所を専業することになる。これにあたって利益が出ていることを知っていた遊女屋主人らが、一手に任せる代わりに相応の負担を迫ったようである。
 大黒屋は日本堤の堤防修復、遊郭外の総下水の浚い、水道尻火の見番人の給料支払い、柵堰板の修繕、臨時の補助金(町奉行所の衣装見分時の饗応費用)などの負担を条件に芸者の一手取り締りを許された。
 女芸者(二人一組)へ客が払う玉代(料金)の計算は、昼九ツ(12時)から夜引四ツ(12時)までを線香7本とし、1本あたり金1分であった。仮に12時間働いたとして1両3分となる。大黒屋は1両3分の中から3分2朱を口銭(手数料)として取ったという。これは半分にあたる(1両は4分、1分は4朱の公定)。やはり、ボロ儲けの商売だったのである。
 男芸者とは幇間(ほうかん)のこと。文化期(1804-1817)以前は専業の幇間はおらず、道外(どうけ 道化と同じ意)役の芝居役者などが豪遊客に連れられて吉原に来ていたが、文化期から吉原遊郭内に住み幇間を専業とする者が現われた。男芸者も見番の支配を受けたが、馴染み客から直接呼ばれた場合もあった。見番は男芸者の場合はこれを黙認した。ただし、男芸者への手数料は玉代1両につき5銭とえらく安かった。
 
 吉原の女芸者の起源は宝暦期(1751-1763)の踊り子との説がある。踊り子は客と同衾したらしい。明和期(1764-1771)に踊り子は消え、芸子という者が20人前後が現われる。
 芸子というのは豊後節や義太夫節などの専門の芸をもった者たちで、客に色を売ることはなかったらしい。大黒屋が見番を創業する前年の安永7年に、女芸者という名称が初めて登場する。この年は芸子16人、女芸者50人余り、男芸者20人。
 見番所には「男女芸者取締所」と大書した大札が掲げてあった。帳場に二人の番頭、十数人の手代が事務をとり、芸者の遊女屋抱え、茶屋抱え、素人抱え、自分抱えの区別なく芸者の名を記した札を掲示し、客から口がかかると札を裏返し、帳面に遊女屋名と買い上げた札数を記した。芸者の数を人ではなく、札と称えたのは見番札からきたものという。女芸者は吉原遊郭内に住み、外出は7、8日前からその旨を見番へ伝えておかないと許されなかった。門限は昼七ツ(午後4時)だった。
 
 以下は芸者の数の変遷。

文化期(1804-1817)女芸者163人 男芸者40人
文政期(1818-1829)女芸者172人 男芸者28人
天保期(1830-1843)女芸者  6人 男芸者28人
安政期(1854-1859)女芸者245人 男芸者25人
慶応4年(1868)    女芸者341人 男芸者38人

台屋
 
台とは膳台のことで、台の物をつくる仕出屋を台屋と呼んだ。
 享保期(1716-1735)に初めて吉原遊郭内に台屋が登場する。喜右衛門という者が、角町に料理屋を開業し、台の物の仕出しも請負うようになる。料理巧者だったようで評判となり、遊女屋は自前で料理するのを止め喜右衛門の店に仕出しを注文するようになった。以後、台屋のことを「喜の字屋」と呼んだそうだ。
 天保期(1830-1843)に台屋は4軒あったが、喜右衛門の台屋はなく、「喜の字屋」と呼称することも廃れていた。この頃の台の物は2朱のものは煮肴と酢の物の二品、1分のものは刺身、煮肴(肴は酒菜の意)、硯蓋(すずりぶた 果物・肴などを載せる)、焼肴の四品だったが、量が少なく不味かったという。食通の客はこれに箸をつけず、他の料理を注文した。その多くは文政期(1818-1829)から有名となった「田川屋」の仕出しだった。
 田川屋は下谷(遊郭外)の大音寺門前にあった。有名な「
八百善」(やおぜん 吉原近くの新鳥越二丁目にあった。文化文政期に繁盛し、吉原の茶屋は仕出しを注文することが多かった)に拮抗するほどの繁盛で、大名・旗本は贈物として田川の料理(料理切手)を選ぶことが多かったらしい。
 吉原遊郭内の食べ物屋で有名どころを挙げると、鰻の「江戸川」、まき煎餅の「正月屋」、白玉餅の「兵庫屋」、饂飩(うどん)と豆腐の「山や」、大通焼の「増田」など。

質屋
 遊郭内に元禄以前(1688-1703)は7軒あったが明和7年(1770)以降から4軒となった。減ったのは遊郭内の事情からではなく、幕府の江戸町中の質屋統制からである。
 他の質屋と異なるのは襠(しかけ 着物の上に羽織るうちかけ)の質入が多かったこと。商売道具なので質入した後は、損料(使用料)を払って借り出すことが多かった。見世から与えられた仕着(しきせ)を質入する者もいた。これも損料を払って借り出すことが多いが、概ね見世側にバレたらしい。
 江戸期の質物が流れる期限は、衣類8ヵ月限り、刀脇差道具諸品12ヵ月限り。利息は100文につき1ヵ月あたり4文、2両以下の質物は金1分につき1ヵ月銀4分、銀1分は銭10文ほど。金の場合の単位の分は「ぶ」と読み、銀の場合は「ふん」と読む。利息については元禄から天保改革までの数字、天保改革で利下げが行われた。

 
駕籠屋
 
日本堤下に「三州屋」があった。家康江戸入りの際に、品川まで出迎えた。その縁故から葵の紋の枠を自分の家の紋にしたいと願い出る。これが許されて代々葵紋の枠を使用したという。
 左が徳川宗家の丸に三ツ葉葵の紋だが、枠というと葉を除いた茎の部分を含めたものだったのであろう。それでないと、どこの紋か判らなくなる。三州屋の提灯を見た者は皆道を避けたというから、茎の部分を含んだ枠だと思われる。あるいは家康の枠は、ただの丸枠ではなかったのかもしれない。珍妙な話だが駕籠屋だから枠を願ったのであろう。三ツ葉は主人・客の見立てか。

始末屋
 
無銭で遊興あるいは勘定不足の客から遊興費を取り立てる稼業である。田町(遊郭外)に越前屋と青柳の2軒が請負っていた。不足の金額の5割引ほどで遊女屋から請負い、そのぶんの金額は即金で遊女屋へ払う。後は当の客本人を預かり自分の家に置き、客が指示した場所へ雇い人を遣わす。遊興費の不足分全額に雇い人を遣わした費用を加えた金額を受け取れれば客を放免し、受け取れなければ羽織衣服帯を剥ぎ取ったという。
 下記の付け馬屋もそうだが、この稼業は岡引の手先が兼業していた。

付け馬屋
 始末屋が対象としたのは下級遊女屋の客だが、馬屋は中級以上の遊女屋の客を請負った。これも田町に2軒あり、若狭屋と藤屋がそれで、不足の金額の2割〜4割引で遊女屋から請負った。遊女屋へ即金で払うことはなく、客から取り立てた後に支払った。

 遊女屋は複数客の場合、すぐに始末屋・付け馬屋へ渡したのではなかった。客の内の誰かが金策で派遣される時は、客の一人を行燈(あんどん)部屋へ押し込め、金策ができる間、1日2度の食事(たくあんと握り飯)をあてがったそうだ。これが駄目なら始末屋・付け馬屋行きとなった。