天皇公卿の制度と事件                                    江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

 

戊午(ぼご)の密勅事件
 
安政5年(1858)4月23日、彦根藩主井伊直弼が大老職に就く。これまで溜間詰の大名として幕政に参与し、裏から幕府開国派を支えてきた直弼が、遂に表舞台のトップに立ったわけである。
 孝明天皇はその後何の連絡も寄越さない幕府に苛立っていた。同年6月27日、幕府から報告があった。三家諸大名の意見を集め、その後に天皇の判断を仰ぐなどということはまったくないまま、いきなり通商条約に調印したという事後報告だった。
 天皇は、夷(外国)を征伐してこその征夷大将軍なのに、これではその官職名にふさわしくないと憤怒し、自分の考えを述べても今回のように幕府に踏みにじられ反故にされるようでは、自分の進退も窮まったと譲位の意向を洩らした。
 関白九条尚忠は天皇を宥め、三家ないしは大老を事情説明に上洛させるよう幕府へ通達する。
 同年7月14日、幕府からロシアと通商条約を締結したこと、イギリス、フランスなどともアメリカと同様の通商条約を締結する方針が伝えられる。その2日後になって、水戸の前藩主徳川斉昭、水戸藩主徳川慶篤(よしあつ)、尾張藩主徳川慶恕(よしたみ)は謹慎中で、大老井伊直弼は多忙なので上洛の延期をしてほしい旨を伝えてくる。
 アメリカ以外の諸外国との条約締結の方針、斉昭父子と慶恕が処罰されたことを知った天皇は憤怒した。天皇は趣意書をまとめ(今回のことは違勅であり、このままでは朝威が立たない、大政委任とはいえ幕府へものをいうべきだ)、関白九条と両役(伝奏・議奏)にこれを見せ、三公と三条実万に意見を出すよう伝えることを求めた。
 この時の三公は、左大臣近衛忠熙、右大臣鷹司輔熙、内大臣一条忠香。彼らと三条実万はすでに内々で相談していたようだ。8月8日には揃って参内し御所内でさらに打ち合わせ、「御趣意書」を作成して幕府へ送ることが決められた。関白九条が文面の修正を求めたが、修正したら天皇の譲位は止められないと答えたため、関白が納得しないまま御趣意書の幕府送付と、水戸藩送付が決まった。
 この御趣意書が安政5年の干支から、「戊午の密勅」と呼ばれることになる。内容は、勅答書に違反する通商条約締結の事後報告は大不審である、朝幕の不一致は国内治乱の重大事なので、「公武御実情を尽くされ、御合体」が永く続くことを願う、徳川斉昭ら徳川家を扶翼(ふよく ここでは将軍家の政治を助ける意)する家を処罰するのは大心配だ、大老・老中・三家から諸大名まで群議を尽くし、国内が治まり、外国から侮られないようにすべきだ、というものだった。
 激烈な内容ではないが、水戸藩へ送付する意味は水戸藩から三家・三卿・親藩大名への伝達を含んでおり、さらに近衛家などには姻戚大名への伝達を命じており、これまでの朝幕関係ではきわめて異例なことであった。
 これに対し井伊直弼は強硬手段をとる。天皇と公卿に影響を与えていた尊王攘夷の志士と、一橋派(13代将軍家定の継嗣問題から紀州藩主慶福を推す井伊直弼や老中松平忠固、水戸家徳川斉昭を嫌う大奥などを南紀派、一橋慶喜を推す徳川斉昭や松平慶永、島津斉彬などを一橋派と称した。井伊直弼が大老になると安政5年5月に慶福が継嗣に任命され一橋派は敗北する)への弾圧を開始する。安政の大獄が始まったのである。
 同年10月24日、条約調印の事情説明に老中間部詮勝(まなべあきかつ)が参内するが、天皇の鎖国攘夷は変わらなかった。
 間部は同年12月18日に書付を朝廷に提出する。二点に絞られる。

1、大老・老中はやむを得ず調印したに過ぎず、軍事力が整えば鎖
  国へ戻すので、それまで猶予してほしい
2、大老・老中へ不審があるようだが、それは陰謀を企む者の工作なの
  で、公家を含む陰謀加担者を取り調べることで不審を晴らしたい

 朝廷は12日後の12月30日に江戸へ帰る間部を呼び、以下のような宣達書(せんたつしょ)を与えた。

大樹 (だいじゅ 将軍のこと) 已下 (いか) 大老・老中役々にも、何れ蛮夷に於いては叡慮の如く相遠ざけ、前々御国法通り鎖国の良法に引き戻さるべく段、一致の儀聞こしめされ、誠にもって御安心の御事に候、然る上は、いよいよ公武御合体にて何分早く良策を廻らし、先件の通り引き戻さるべく候、止むを得ざる事情に於いては審 (つまび)らかに御氷解あらせられ、方今 (ほうこん 現今の意)のところ御猶予の御事に候

 鎖国へ戻すと知って大老・老中への天皇の不審は氷解したとある。その鎖国までの猶予は、7年〜10年とされたようである。
 宣達書によって幕府は朝廷との意思の不一致を修復できたが、破約攘夷・鎖国復帰の約束が残った。そして目先の問題として「公家を含む陰謀加担者」の処分として、「戊午の密勅」の責任を追及してくる。天皇は関白九条を通して、徳川家に悪謀を企てた公家はいない、自分の考えに沿って力を尽くしているだけだと伝えたが、水戸藩への戊午の密勅の返納が命じられ、左大臣近衛忠熙の辞官、前関白鷹司政通 (この人は九条とは逆に鎖国攘夷へ豹変していた)、前内大臣三条実万の落飾(出家)、青蓮院宮の謹慎、内大臣一条忠香など多くの公卿に謹慎が申し渡された。

奉勅攘夷事件
 弾圧強権政治を続けた井伊直弼は安政7年(1860 3月18日から万延に改元)3月3日桜田門外にて暗殺。強権から融和へ、公武合体で鎖国に戻す象徴として
> 文久2年(1862)2月11日、将軍家茂と孝明天皇の妹君和宮との婚儀が行なわれた。
 ここで確認しておきたい。公武合体を最初に主張したのは幕府の誰かではなく、孝明天皇であった。主張する原因となったのは、軍事力が整えば鎖国に戻すと幕府が約束したことにある。従って江戸期最後の天皇である孝明天皇は、公武合体鎖国攘夷論者であったことになる。また、公武合体鎖国攘夷論の背景には幕府がきちんとした政治=鎖国攘夷を行なってくれればよしとする大政委任の考えがあった。大政委任の考えが基本にないと、公武合体ではなく「倒幕」=天皇親政となる。
 再度確認しておこう。孝明天皇は大政委任論を基本として、公武合体鎖国攘夷を主張する江戸期最後の天皇であった。

 文久2年は、尊王攘夷論が各藩、各地で台頭してくる年である。宇都宮の儒者大橋訥庵(とつあん)は、公武合体路線を推進した老中安藤信正の暗殺計画を練った人物だが、彼は和宮降嫁は公武合体による幕府権力の強化策だとし、公武合体を続ければ朝廷も幕府と共に転覆すると述べている。
 長州藩は公武合体による開国策で、藩主の命を受けた藩士長井雅楽が「航海遠略策」を朝廷と幕府へ提出するほどだったが、その後に尊王攘夷を藩論とする。土佐藩は公武合体開国を主張する吉田東洋が、尊王攘夷の武市瑞山派に暗殺される。
 尊王攘夷の流れに反するものとしては、薩摩の島津久光の動きである。薩摩藩では尊王攘夷の有馬新七らが京都所司代を襲撃する計画を練り、京都に集結する動きを見せるが、薩摩藩主茂久の父久光が藩兵1000人を率いて大坂入りし睨みを利かせ、尊王攘夷派志士の取締と幕府政治改革の意見書を権大納言近衛忠房へ提出する。久光は開国論者だったが朝廷は幕政改革の建策を受け入れ、幕政改革を要求する勅使に大原重徳(しげとみ)を任命し、この随行を久光に命じ江戸へ下向させる。
 幕府は勅使と薩摩藩兵の圧力に負け、文久2年7月に朝廷の指示通り、一橋慶喜を将軍後見職に、越前藩主松平慶永を政事総裁職に就任させた。幕府人事に朝廷が口先介入するなどまったく異例なことであった。

 公家が武家と自由に接することは禁じられていたが、松下村塾門下の久坂玄瑞をリーダーとする長州藩士と長州系浪士のグループ、土佐勤王党の武市瑞山をリーダーとするグループが、尊王攘夷派の公家と頻繁に密会するようになっていた。
 朝廷では5月11日に政局の複雑化に対応するためと称して、「国事御用書記掛」(こくじごようしょきがかり)という職を設置し、岩倉具視など25名を任命した。この中には翌年「七卿落ち」(京都から長州藩へ逃れた7人の公卿)と呼ばれる尊王攘夷の過激派である三条西季知(すえとも)、三条実美(さねとみ)、東久世通禧(みちとみ)、四条隆謌(たかうた)、沢宣嘉(のぶよし)の5名もいた。
 この国事御用書記掛25名が連名で天皇の御決意を伺いたいと、就任間もない5月15日に建白書を提出するのである。まったく異例のことである。25名の中で最も官位の高いのが正二位権中納言、このレベルが天皇の御決意を伺いたいと、五摂家でも遠慮しそうな行動をとってきたのである。公卿たちがこうした行動をとるようになる遠因を探ると、幕府が通商条約締結の勅許を求めてきた際に、天皇が従来の朝廷の政務ラインである関白・武家伝奏を乗り越えるため、広く公家たちの意見を集めたことにあろう。良くいえば、下の意見が通りやすく開かれた朝廷になった、悪くいえば規律が緩んで統制できなくなったといえよう。
 天皇の御決意とは、上記の大原重徳を勅使として派遣し、幕府が天皇の希望する改革を拒否して暴政を行なった際にどうするか、というもので、これに対して天皇は、幕府が暴政を行なえば隔絶するとしながらも、基本は「皇国一和いたし、万民一同一心に相成り、相ともに攘夷の一事に決し候ように致したき存念」と、公武合体で鎖国攘夷の実現を願っていることを、議奏を通して伝えている。
 6月になると過激な尊王攘夷派、いわゆる尊攘激派が朝廷を動かすようになってくる。幕府から公武合体(和宮降嫁)に尽力したとして公卿と女官たち17名の加増を伝えてきた。関白九条尚忠に500俵、武家伝奏広橋光成に100石、前議奏久我建通に300石、少将掌侍(ないしのじょう 内侍と同意)今城(いまき)重子と右衛門掌侍堀川紀子(もとこ)に100石などの加増だったが、6月21日に関白九条と橋本実麗(さねあきら 和宮の外戚)を除いて辞退させた。
 なお、関白九条は5月29日に辞職勧告され、6月23日に関白を辞職、閏8月には落飾・重慎(じゅうつつし)みの処罰を受け、領地九条村に隠遁した。九条が辞職勧告された5月29日には、落飾させられた鷹司政通、近衛忠熙、鷹司輔熙に復飾(出家した者が俗人になる意)を命じている。
 また、鷹司政通を攘夷論者に豹変させた鷹司家の侍講三国大学と同家の諸大夫小林良輔は、幕府から追放処分を受けていたが、朝廷内を牛耳る尊攘激派はこの二人の追放赦免と、処刑された吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らの死罪の赦免、墓石取建ての許可など、41名の復権について幕府と交渉し、11月に大赦令を出させている。
 さらに、朝廷内の公武合体派の中心勢力を排除する、「四奸二嬪」(よんかんにひん)排斥運動が起こる。四奸とは内大臣久我建通、左近衛権中将岩倉具視、左近衛権少将千種有文、中務大輔富小路敬直(ひろなお)、二嬪とは少将掌侍今城重子と右衛門掌侍堀川紀子を指す。彼らの処罰を求める願書が8月16日に18人の公家の連名で提出され、岩倉、千種、富小路らは蟄居、落飾を命じられてしまう。
 1ヵ月ほど前の7月20日には前関白九条尚忠を開国論へ豹変させた九条家の諸大夫島田左近が暗殺され、首を四条河原に晒されるなど、テロも頻発しており、岩倉などは岩倉村に潜居する危うい状況であった。
 勢いづく尊攘激派は、朝幕間で合意した鎖国への復帰年数7年〜10年を反故にして、即刻通商条約を破棄し攘夷の断行を幕府に迫るようになる。勅使に尊攘激派の三条実美と姉小路公知(きんとも)が撰ばれ、攘夷断行に備え京都を警衛する親兵(しんぺい)の創設を求める沙汰書(大名10万石あたり1名拠出の案で長州藩の建策という)も携え、土佐藩などの兵に守られ10月28日に京都を発つ。11月27日に将軍家茂に勅書(早く攘夷期限を決めて朝廷へ報告することなど)を渡し、将軍から返答書(来年早々上京して攘夷策について申し上げるなど)を受け取った。
 将軍が天皇の勅命を奉じて攘夷をいかにして実行に移すか、これについて天皇に申し上げるため京都へ上ってくるのである。ここから奉勅(ほうちょく)攘夷が始まることになる。

 文久2年は尊攘派が各藩、各地で台頭してくる年であると共に、従来の朝幕間の慣行が改められた年でもあった。10月に勅使として江戸城に登城した三条と姉小路は、将軍に出迎えられて大広間の上段の席につき、将軍は中段第一席に座った。従来は将軍が上段に立ち、勅使は下段で平伏していた。様変わりである。
 9月14日に武家伝奏に任命された中山忠能(ただやす)は、起請文の提出を辞退した。武家伝奏は就任するにあたって京都所司代の屋敷に出向き、その仕事に疎略のないことを幕府に誓約するため、誓紙血判を提出するのが慣例となっていた。起請文とはこの誓紙血判書を指している。中山が辞退したことに伴ない、幕府と交渉の結果、起請文の提出は以後停止となった。
 幕府は関白や摂政の任免にも干渉し、任免前には幕府の事前の承認を要したが、12月に朝廷が決定した後に幕府へ報告する形となった。
 文書の書式も従来は天皇や宮家を後に書いていたのを12月に改められた。例えば、「公方様(将軍)より禁裏(天皇)へ」が、「禁裏へ公方殿より」というように前に書き、「殿」より「様」のほうが尊敬したいい方だったので、君臣関係を正すことから改められた。また、京都町奉行や禁裏付の武家と公卿が往来で出会った際の挨拶も改められた。
 目に見える形で朝廷の権威が高まり、幕府のそれが低落したわけである。

8.18政変
 
朝幕間の慣行が改まった文久2年12月、重要国政を審議する機関として「国事御用掛」が創設される。国事御用掛の中心となったのは入道尊融親王で、彼は安政6年(1859)2月に謹慎処分となり青蓮院から出ていたが、朝廷内の公武合体派が帰院させて、「国事扶助」を命じて復権させていた。つまり、新設の国事御用掛は尊攘激派に反対する公武合体派を主体にしていたことになる。青蓮院入道尊融親王は翌文久3年(1863)正月になると還俗を命じられ、孝明天皇の片腕として活動するようになる。還俗名を中川宮と称した。
 いわば公武合体派が巻き返しを狙っての国事御用掛の創設であった。そのため国事御用掛は尊攘激派はよって朝廷内外から攻撃の対象となった。誹謗中傷の謀略ビラを撒かれ、人間の耳のような物を屋敷の門前に投げ込まれた議奏中山忠能と正親町三条実愛(さねなる)が辞職願いを出し、左大臣一条忠香、右大臣二条斉敬(なりゆき)、中川宮なども辞職願いを出したが、中山と正親町三条は許されたが、他は辞職を認められなかった。
 文久3年2月11日、長州藩の久坂玄瑞らが関白鷹司輔熙の屋敷へ押し掛け、国事御用掛の人員減少を要求。尊攘激派の公家らもそれに続いて鷹司邸へ押し掛ける事態となる。新たに国事参政、国事寄人(よりうど)という職を設け、押し掛けた尊攘激派の公家14名が就くことで事態は収拾される。
 2月20日には、「草莽微賎の者」(浪士に限らず在野の身分の低い者)が学習院に意見書・建白書を提出できるようにし、学習院出仕という形の登用が行なわれるようになる。学習院は弘化4年(1847)に開校した公家の教育機関であり、民間に開放された学習所ではない。尊攘激派の理由は、テロが頻発するのは「草莽微賎の者」たちの言路が塞がれているからで、学習院を開かれた教育機関にすれば彼らの意見も通るようになりテロが減少するというものだった。この理由自体が、きわめて脅迫的である。
 ここに至って、国事参政と国事寄人の公家と学習院出仕の尊攘激派によって朝議は左右され、形は合法的にはなっているが規制・統制が利かない事態となっていた。
 こんな中に将軍家茂は上洛してくるのである。
 将軍上洛に先立って、将軍後見職徳川慶喜と政事総裁職松平慶永が上京して、2月21日に前関白近衛忠熙、関白鷹司輔熙、中川宮と会談し、慶喜はこの時に最近は幕府と朝廷の両方から命令が出るので、朝廷が大政委任を表明するか将軍が大政奉還するしかないと語り、関白に二者択一を迫ったといわれる。
 慶喜は3月5日に将軍名代として参内すると、

「これ迄もすべて将軍へ御委任の儀には候えども、猶また御委任なし下され候儀に御座候わば、天下へ号令を下し、外夷を掃除仕りたく」
 
 
と、天皇に大政委任を迫った。慶喜は徹夜で大政委任の勅答を待った。その甲斐あって、天皇から、

「大樹(将軍)すべてこれ迄とおりに委任これ有る」

 
と、大政委任の答えをもらった。
 だが、関白から渡された文書は、

征夷将軍の儀、すべてこれ迄とおり御委任遊ばるべく候、攘夷の儀精精忠節を尽くすべきこと

 大政委任ではなく、征夷=攘夷委任のみであった。
 2日後の3月7日に将軍家茂が参内。回答は同じであり、大政委任はされなかった。同年11月の天皇が島津久光に宛てた密勅には、3月時点の朝廷内には大政委任説と王政復古説があり、尊攘激派は王政復古説だったと記されているらしい。天皇自身は大政委任説であり、征夷と国事に委任を分ける考えはなく、関白鷹司は天皇御前とそれ以外では言説が違ったようである。
 朝廷は将軍家茂が上洛した時から攘夷の期限を明確にするよう迫っていた。それを明らかにするまで将軍は江戸へ帰ることが許されなかった。天皇の信任を取り付けたい将軍は、「5月10日」を攘夷の期日と答えてしまう。幕府は5月10日になると「鎖港」交渉をするが、どこからも相手にされない。幕府も本気ではなかったと思う。ところが偶然にも、5月10日に下関海峡をアメリカ商船が通過、これを長州藩が砲撃してしまう。幕府の立場がなくなった。長州藩はその後もフランス、オランダの軍船を砲撃。6月に長州藩はアメリカ、フランスの軍船から報復を受ける。薩摩藩も7月2日に鹿児島湾に入ってきたイギリス軍船と砲撃戦を行なった。幕府は窮地に追い込まれてしまった。
 加えて江戸では、老中小笠原長行が生麦事件(前年の文久2年8月薩摩の島津久光の帰国行列が相州生麦村を通過した際、行列に馬を乗り入れたイギリス商人4人を薩摩藩士が殺傷。上記の鹿児島湾に入ったイギリス軍船は、薩摩藩がこの事件の処罰・賠償を拒否したことからの臨戦行動)の賠償金を支払った上、京都の尊攘激派を一掃するため兵を率いて大坂に上陸、将軍に諌められるという、逆効果も甚だしい事件を起こしている。
 天皇はこの間にいくつかの宸翰を出している。5月10日に「皇国いったん黒土に成り候とも、開港交易は決して好まず候」、6月1日には長州藩に対し「叡感(えいかん 天皇が感嘆する意)斜めならず」「皇国の武威を海外に輝かすべし」、6月6日には傍観している藩があり宸襟(しんきん 天皇の心)を悩ましているので、互いに応援し合い攘夷をするようにという旨の沙汰書を、また、攘夷期限が過ぎたのに貿易が行なわれているのは遺憾、すみやかに破約せよとも命じている。天皇の意思通りのものかどうかは怪しいが、天皇の名のもとに交付されたことは事実であった。
 
 幕府が自ら決めた攘夷日に何もしなかったのであるから、尊攘激派は当然これを盾にして倒幕まで持ち込めると踏んだ。攘夷親征(天皇による征伐)から倒幕親征の構想である。8月13日、朝廷は神武天皇陵と春日社に攘夷祈願の行幸と、親征の軍議を行なうことを布告する。
 だが、尊攘激派の計画は寸前で失敗する。
 8月18日に尊攘激派の公家と長州藩兵が朝廷から追放されたのである。天皇は中川宮や少数の公武合体派の公家と極秘裏に連絡を取り合い、薩摩藩の島津久光の引き出しを計った。なぜ、島津久光なのか。
 久光はこの年の3月14日に入京していたのだが、朝廷を支配する尊攘激派に対して何をいっても通りそうにない現状に失望して、鹿児島に帰っていた。京都滞在中には前関白近衛忠熙や関白鷹司輔熙などと面談し、久光は次のような意見を述べた。
 天下の大政は将軍に委任し、無用の大名や藩士、浪人の類いはすべて京都から退去させること、幕府の将軍後見職や政事総裁職を奴僕のように扱ってはならない、藩士や浪人の暴説を信用している公卿はすみやかに朝廷中枢から退けること。ところが、
前関白も現関白も久光にその考えを三条実美らに直接いってやってくれと頼む有り様だったため、久光は呆れ果てて鹿児島へ帰った次第であった。
 こうした久光の考えは天皇の耳にも届いていたであろう。この島津久光の薩摩藩と京都守護職松平容保(かたもり)の会津藩、公武合体派、中川宮、そして孝明天皇が組んで起こしたのが、8.18尊攘激派追い出しクーデターであった。クーデター直後に右大臣二条斉敬、中川宮、前関白近衛忠熙に宛てた天皇の宸翰にこうある。

三条(実美)初め暴烈の所置(しょち)深く痛心の次第、いささかも朕(ちん)の了簡(りょうけん)採用せず、その上言上もなく浪士輩と申し合わせ、勝手次第の所置多端、表には朝威を相立て候などと申し候えども、真実朕の趣意相立たず、誠に我儘下より出る叡慮のみ、朕の存意貫徹せず、実に取り退(の)けたき段、かねがね各々へ申し聞けおり候ところ、(中略)三条初め取り退け、実に国家のため幸福、朕の趣意相立ち候ことと深く悦(よろこ)びいり候こと

 
三条らの専断と、天皇の意思として出てくるのは「下より出る叡慮のみ」で、三条らを排除したいと考えていたが、それが実現して深く喜んでいると記してある。
 また8月26日、天皇は京都守護職松平容保以下の在京の諸藩主を御所へ招き、以下の宸筆の勅書を見せた。

これ迄はかれこれ真偽不分明の儀これ有り候えども、去る十八日以後申し出で候儀は、真実の朕の存意に候あいだ、この辺諸藩一同心得違いこれなき様の事

 政変以前の勅書は天皇の真実の意思のものではないから、諸藩主は勘違いしてはならぬ、というのである。おそらく見せられた諸藩主は、勅書をこれ以降絶対視しなくなったと思われる。見せるべきではなかった。勅書は真偽を探られることになった。
 さて、排除された三条ら公卿7名は長州藩へ逃れ、朝廷は公武合体派の徳川慶喜、松平容保、松平慶永、山内豊信(とよしげ)、伊達宗城(むねなり 伊予宇和島藩前藩主)、島津久光を新設の朝議参与に任命し、朝廷内の統制回復を計った。

最後のターニングポイント
 
新設参与による参与会議は分解する。幕府の権力回復を狙う徳川慶喜や松平容保らと参与諸侯間の対立が原因で、その結果、京都を軍事・政治的に制圧したのが一橋家の徳川慶喜と京都守護職の会津藩主松平容保、京都所司代の桑名藩主松平定敬(さだあき)。その頭文字から「一会桑」政権と呼ばれた。孝明天皇を中心とする朝廷上層部は、一会桑勢力に依存していくようになる。幕府も尊攘激派全盛期の苦い経験から、天皇を抱え込む必要性を痛感し、横浜鎖港交渉を続けることで天皇の心を繋ぎ止めようと必死であった。
 こうした政治状況の中、長州藩は勢力挽回のため三家老が藩兵を率いて入京、鳥羽・伏見、御所の南の堺町御門、西の蛤御門近辺で幕府軍と激突。いわゆる、禁門の変である。幕府の要請を受けた朝廷は、長州藩追討令を出す。幕府は西国諸藩に出兵を命じたが、戦闘は行なわれず、長州藩が恭順の意を表して三家老の切腹で終わった。これが第一次征長戦争である。
 クーデター直後に朝廷内の尊攘激派の公家が処罰されたが、禁門の変の直後には過激ではない尊攘派の公家が処罰された。理由は長州藩に内応した疑いで、有栖川宮幟仁(たかひと)・同(たるひと)親王、前関白鷹司輔熙、前大納言中山忠能など17人の公家が処罰された。
 2回の処罰によって朝廷は孝明天皇、関白二条斉敬、朝彦親王(中川宮)という寡頭支配体制が確立された。
 慶応元年(1865)9月、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの4ヵ国の代表団を乗せた連合艦隊が兵庫沖に来航する。兵庫開港と条約勅許を狙った示威行動であった。幕府は、「天子をも外夷にはかまわずなでごろしに相成り」と脅しを入れながら、開国通商によって富国化を進めたいので、通商条約の勅許を是非ともして欲しいと願い出た。
 孝明天皇は10月5日、以下の勅書を出すのだった。

「条約の儀、御許容在(あ)らさせられ候あいだ、至当の処置致すべく事」

 
鎖国攘夷の孝明天皇が、
とうとう勅許したのである。勅書の真偽は判らないが、受ける側からすれば勅書に間違いない。
 これより少し前、幕府は第二次征長の勅許を天皇に迫っていた。狙いは幕府権力の回復であるが、今回は前回賛成した薩摩藩が反対していた。薩摩藩の反対は、大久保一蔵(利通)らの画策からで、幕府の権力回復阻止、諸大名の財政難、内戦による外国の介入阻止などから反対したようだ。しかし、孝明天皇は9月21日、第二次征長を勅許するのである。
 大久保は慶応元年9月23日付の西郷吉之助(隆盛)宛ての手紙に、次のように書いている。

もし朝廷これ第二次征長を許し給い候わば、非義の勅命にて、朝廷の大事を思い、列藩一人も奉じ候わず、至当の筋を得、天下万人御尤(ごもっと)もと存じ奉り候てこそ、勅命と申すべく候えば、非義勅命は勅命にあらず候ゆえ、奉ずべからざる所以(ゆえん)に御座候、(中略)只今衆人の怨み幕府に帰し候ところ、すなわち朝廷に背き候よう相成り候えば、幕府の難を御買いなされ候道理に御座候

 
天下万民が納得しない道理に外れた勅命は勅命ではない、といい切っている。当時の状況からいえば、常識外れの勅命だったのであろう。そして、大久保は孝明天皇、朝廷が幕府と共倒れする危うい状態になるとも書いている。勅命を与えたことによって、孝明天皇、朝廷の権威はガタガタッと崩壊したと思われる。
 慶応2年6月、第二次征長戦争が始まる。7月には長州藩優勢の中、将軍家茂が大坂城で病没。広島藩主、岡山藩主、阿波藩主から戦争中止の意見書、薩摩藩から停戦と政体変革を求める意見書が朝廷へ提出される。が、天皇は「解兵(かいへい)の儀宜しからず」と停戦に反対。
 将軍職に就いた徳川慶喜は、8月16日に停戦と諸侯召集を朝廷に願い出る。8月21日、
休戦の勅命を出す。諸侯の招集は朝廷ではなく、朝廷の命を受けた形にして、将軍徳川慶喜が召集することになる。
 孝明天皇、朝廷には状況がまったく見えないようだ。こんな背骨を欠いたような朝廷に、尊攘激派に謀略ビラを撒かれ議奏を辞職せざるを得なかった正親町三条実愛が、8.18政変と禁門の変で処罰された尊攘激派と尊攘派の公家の赦免を要求し、「御立派に御孤立」せよと注文をつけたのである。加えて、岩倉具視を黒幕とする22人の公家が、天下の危急この時とばかりに御所に列参し、諸侯の招集は徳川慶喜ではなく、朝廷の名のもとに直接召集することを要求し、処罰中の公家の赦免と朝政改革(王政復古など)を強く求めた。
 しかし、天皇は朝憲(ちょうけん 朝廷の法規)に違反するとして公家たちは処罰したのである。朝廷の将来を考えているのが幕府か公家か、天皇には判断ができなくなったようだ。鎖国攘夷を捨てた天皇に残ったものは公武合体・大政委任しかないのだから、こうなるしかなかったともいえる。
 慶応2年(1866)12月25日、江戸期最後の天皇、孝明天皇が36歳で急逝する。岩倉具視による毒殺という説がある。分明ではない。
 翌慶応3年(1867)1月、幼帝明治天皇が践祚。処罰されていた公家46名(三条実美ら激派の復権はこの年の12月)が赦免され、朝廷内は王政復古派の勢いが増す。幼帝のため摂政が設けられ、天皇の意向に左右されずに、これ以降、王政復古へ急回転していく。

 慶応3年10月、土佐藩・広島藩が幕府へ大政奉還を建言す。薩摩藩・長州藩・広島藩の藩士有志が岩倉具視を通じて倒幕の密勅を奉請する。薩摩藩・長州藩の二藩に倒幕の密勅が下される。そして、その日に将軍徳川慶喜は大政奉還を奉請、朝廷はこれを許し、10万石以上の大名の入京を要請、将軍の辞職を大名らの入京を待って衆議決定することになる。


※参考文献 「日本の近世 2」(辻達也編 中央公論社) 「江戸時代漫筆5」(石井良助 明石書店) 「日本の歴史16」(横田冬彦 講談社) 「江戸時代史 上下」(三上参次 講談社学術文庫) 「官職要解」(和田英松 講談社学術文庫) 「王朝貴族物語」(山口博 講談社現代新書) 「幕末の天皇」(藤田覚 講談社選書メチエ) 「天皇家系譜総覧」(新人物往来社)など