■以下に掲載した三法令は天皇、公家、門跡(もんぜき
皇子皇女・公卿などが住職となっている寺院)
を規制したもの。江戸期を通して改訂することなく続き、天皇の行動を制限した歴史上初めての法令である。 最初に断っておくと、「諸公家法度」(公家衆法度とも称す)は近世史学の泰斗といわれる三上参次博士が訓(よ)み下し文にしたものであるが、「勅許紫衣法度」(ちょっきょしえはっと) と「禁中并公家諸法度」(きんちゅうならびにくげしょはっと)はわたしが訓(よ)み下し文にしたもので完璧ではない。従って原文(漢文)を併記した。 なぜ、わたしが訓み下し文にせざるを得なかったのかといえば、近世を専門とする歴史学者が、「武家諸法度」を「禁中并公家諸法度」よりも重要視したためである。「武家諸法度」の訓み下し文なら本を漁れば全文掲載してあるものを発見できる。ところが、「禁中并公家諸法度」の全文訓み下し文を掲載している本は皆無なのだ。数ヵ条か数ヵ条の内の前文のみを掲載しているものはあるが、実に全文は皆無である。 「禁中并公家諸法度」を重要だとする見方は、「天皇公卿の制度と事件」の2〜3で記すことにしたい。「勅許紫衣法度」と「禁中并公家諸法度」の原文は、奥付に昭和34年複刊とある「近世法制史料叢書 第二」(石井良助校訂 創文社)に収録されている「御当家令条巻二」によっている。
■家康が征夷大将軍になって4年後の慶長14年(1609)に、後陽成天皇を激怒させた「猪熊事件」というものがあった。これは猪熊教利侍従以下の※殿上人(てんじょうびと)が、天皇が寵愛する広橋局(ひろはしのつぼね)以下の※官女と姦淫した密通事件を指す。
※殿上人
地下人(じげにん)に対する言葉。広義では清涼殿の殿上(てんじょう)の間に昇殿を許された者を指す。狭義では四位、五位の者と六位の蔵人だけを指す。堂上(とうしょう)という言葉は、殿上人の広義の意味と同じだが、狭義の意味は摂家・清華家・大臣家を除いた昇殿を許されている者を指す。この者たちを特に示す場合は平堂上(ひらとうしょう)と呼んだ。 ※官女
上位から順に、典侍局(すけのつぼね)、内侍局(ないしのつぼね)、命婦(みょうぶ)、女蔵人(にょくろうど)、御差(おさし)、御末(おすえ)、女嬬(にょじゅ)、御服所(ごふくじょ)など。天皇の側にいけるのは典侍局と内侍局、命婦だが、命婦は天皇に直接返答をすることが許されておらず、典侍局か内侍局を通して返答するしかなかった。しかし、命婦は通称が「お下さん」(おしもさん)といい、天皇の手が付くこともあったという。これ以上の詳細は「天皇公卿の制度と事件」2〜3でする。
同年7月、朝廷から猪熊事件に連座した殿上人の処分を幕府は命ぜられた。後陽成天皇はこれらを死刑に処す考えでおり、幕府へも天皇の内意が伝えられていた。 同年10月、幕府は猪熊他1名を死刑にしたのみで、その外は流刑にし、罪を問われなかった者や復任させた者もいた。後陽成天皇は憤慨し、その後間もなく譲位するに至った。 猪熊事件から二年後に発布されたのが、「諸公家法度」である。密通事件を背景に誕生しているから、公家の生活態度への規制に及んでいる。 猪熊事件で重要なのは、元来、朝臣を処分するのは朝廷(天皇)の権内だったのが、幕府へ命令(委任)していることにある。「諸公家法度」ではこれを受けて、「右の条々相定むる所なり。五摂家并せて伝奏その届けこれ有る時、武家より沙汰行なうべきものなり」と最後の行に記してある。 なお、「板倉伊賀守」とは第2代※京都所司代板倉勝重のこと。この日付の日は、家康は駿府におり、下向中の板倉勝重にこれを渡し、勝重から※武家伝奏(てんそう)広橋兼勝に伝え、上京後に五摂家へ披露せしめ、諸公家に触れ回らせている。 この当時、公家の風紀は確かに乱れていた。流行の女かぶきを宮中へ呼び入れたり、それに紛れて遊女も呼び入れ、昼間から酒宴の連続で、碁や双六、カルタなどの勝負事・賭け事も盛んに行なわれていたようである。なお、「青侍」とは公卿に仕える六位の侍のこと、
青い袍(ほう 出仕する時に着る上衣)を着ていることからの名称。
※京都所司代
朝廷に関する一切の事を掌る。慶長5年(1600)に創置。初代は奥平信昌、2代板倉勝重が慶長18年2月に侍従に任じて以来、この役は侍従の官となる。老中格、役知1万石支給。
※武家伝奏
幕府の意見=京都所司代からの伝達事項を朝廷=御所の政治を掌る関白へ伝え、朝廷の意見を幕府に伝える役。定員は2名。伝奏と共に両役と称される議奏(ぎそう)は、天皇より仰せ出されることを関白を経て※職事(しきじ)に命じ、下から職事を経て申し出ることを関白に伝える役。定員五名、別に議奏加勢が1名。伝奏、議奏、議奏加勢の役料は200石。両役ともほとんど大納言経験者が務めている。 ※職事
議奏・伝奏から伝えられる命令によって諸公事(くじ
ここでは訴訟事ではなく、朝廷で行なわれる政務・儀式を指す)を奉行(上の命令によって執行)する役。蔵人頭の2名と五位蔵人の3名がこの任に就く。
諸公家法度
1
公家衆家々の学問、昼夜油断なきよう仰せ付けらるべき事 1 老若によらず、行儀法度を背くの輩はきっと流罪に処すべし。但(た だ)し罪の軽重により年序を定むべき事 1
昼夜の御番、老若ともに懈怠なく相勤め、その外(ほか)威儀を正し
伺候(しこう)の時刻を相調(ととの)え、式目のごとく参勤仕るよう仰せ 付けらるべき事 1
夜昼とも指(さ)したる用なき所、町小路徘徊、堅く停止(ちょうじ)の事 1 公宴の外、私にて不似合いの勝負、并(あわ)せて不行儀の青侍以 下拘
(かか)え置く輩においては、流罪先条に同じき事
右の条々相定むる所なり。五摂家并せて伝奏その届けこれ有る 時、武家より沙汰行なうべきものなり 慶長十八年六月十六日 家康公御判 板倉伊賀守とのへ
| ■同時に発布されたのが、「勅許紫衣法度」。広橋大納言は下向中の武家伝奏広橋兼勝のこと。 紫衣は僧位ではなく、高徳の僧に着衣を勅許される袈裟。この袈裟を着けるのは僧にとって栄誉であり、大徳寺などの八大寺は住職として入院することが、即紫衣着勅許を意味していた。 これを家康は勅許以前に幕府への告知を必要とし、幕府が選考審査をした上で入院勅許となるように定め、天皇の自由裁量を規制したのである。 宗派を記すと、大徳寺・妙心寺は臨済宗、知恩院・知恩寺・浄花院(清淨花院
しょうじょうけいん)は浄土宗、泉涌寺(せんにゅうじ)は真言宗、粟生(あお)光明寺は浄土宗西山派、黒谷金戒寺(くろだにこんかいじ
金戒光明寺とも称す)は浄土宗。
勅許紫衣法度
大徳寺、妙心寺、知恩院、知恩寺、浄花院、泉涌寺、粟生光明寺、 黒谷金戒寺 右、往持職之事、不被成勅許已前(いぜん)、可被告知、撰其器量、可相計、以其上入院之事可有申沙汰者也
大徳寺、妙心寺、知恩院、知恩寺、淨花院、泉涌寺、栗生光明寺、 黒谷金戒寺 右、往持職の事、勅許をなさらず前もって告知さるべし。その器量を撰(えら)び相計るべし。その上をもって入院の事、申し沙汰有るべきものなり 慶長十八年六月十六日 家康公御判 広橋大納言殿 |
■「諸公家法度」「勅許紫衣法度」の2年後に発布されるのが、「禁中并公家諸法度」である。なお、礼服の条は訓み下し文にする必要はないと判断したため原文のみ掲載した。 発布の日付がないが、「武家諸法度」が発布された10日後の元和元年7月17日である。原本を清書したのは家康に出頭していた公家の日野唯心だという。清書した日は7月13日前だったのであろう。この日以前は慶長20年なのである。 7月17日、家康は二条城におり、将軍秀忠、前関白二条昭実(あきざね)、前右大臣今出川晴季(はるすえ)、武家伝奏広橋兼勝・三条西実条(さねえだ)が召されていた。 広橋が禁中并公家諸法度17ヵ条を読み上げ、二条と今出川が、「仰せ出(いだ)さる御法度、最も神妙、残る所なし」と答え、二条が著名し続いて将軍秀忠、最後に大御所家康が著名した。 この原本は禁裏に納められたが、万治4年(1661)の禁裏火災で焼失したため、寛文4年(1664)に将軍家綱と摂政二条光平の連署で、内容の改訂はなくそのまま再交付された。
さて、なぜ前関白二条昭実と前右大臣今出川晴季なのか。今出川晴季は当時77歳で公卿中最長老だった。二条昭実は存命中の関白経験者4人の中で最高齢の60歳だった。現職の関白鷹司信尚(のぶひさ)は26歳。加えて、二条昭実は11日後の28日に関白に再任されたのである。7月30日、すべての公卿・門跡を禁裏清涼殿に召し出し、「禁中并公家諸法度」を武家伝奏広橋兼勝が読み上げた。公卿・門跡らはその写しを作成して持ち帰ったという。
各条の説明に移る前に最も重要な条目を挙げると、11条の「関白、伝奏並びに奉行職事など申し渡す儀、堂上地下の輩相背くにおいては、流罪となすべき事
」だと思う。江戸期における天皇の法的・制度的な規制を挙げるなら、よくいわれる1条ではなく、この11条であろう。なぜなら、摂家のみが朝儀に参加できるのだが、その摂家を代表す現職の最高位である関白を、幕府の意向によって動く武家伝奏とつなぐことで、つまり、政務ライン機構によって天皇の個人的な意志が朝廷の方針となるのを制御できるからである。1条のように「天子」の文字はないが、政務ラインで天皇の意志を規制するのである。 この政務ラインに逆らったら次の12条のように、名例律の規定である五刑(笞、杖、徒、流、死)・八虐(謀反、謀大逆、謀叛、悪逆、不道、大不敬、不孝、不義)によって政務ライン(実質は幕府)が裁くのである。「諸公家法度」の最後の行、「右の条々相定むる所なり。五摂家并せて伝奏その届けこれ有る時、武家より沙汰行なうべきものなり
」を二つの条目に分け、公家のみならず天皇をも規制したと言えよう。加えて、公家の官位の執奏(取り次いで天皇に申し上げる意)は
摂家を通す決まりであったから、公家は摂家の五つの家のどれかと主従関係のような形を取らざるを得なくなったのである。
1条の「貞観政要」は唐の太宗の政治に関する言行を編録した書である。「寛平遺誡」は平安時代に宇多天皇が子の醍醐天皇への譲位に際して与えた訓戒書、経史は四書五経や歴史書、「群書治要」は唐の時代に様々な書から統治に関する記事を集撰した編纂書。 つまり、これらの書は政治に関わるものばかりであり、従来からいわれている、1条は天皇の生活を政治から疎外し文芸的な学問に限定するものとの言説と異なる。とはいえ、大いに政治を勉強してくださいとも記されてはいない。 最後のほうに「所載禁秘抄」とある。つまり、ここまで記してきたことは「禁秘抄」に載っていることだと、引用したことをバラしている。「禁秘抄」とは、鎌倉時代に順徳天皇が書き残した有職故実の書。天皇が知っておくべき朝廷の行事、儀式、政務などの故実作法全般に渡る詳細なものだという。そうであれば、この1条の「御学問」は朝廷の政事(まつりごと)としての国家の祭祀・儀式・典礼を指し、これの学習を専要としたといえる。 2条、3条は:現職の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)は親王(上皇・天皇の直子)より上座、前職の大臣は親王の次の座、前職の大臣の次が諸親王(親王家の三世以降)、清華家の前職大臣は諸親王の下とした。13条で親王出身の門跡が、摂家出身の門跡より上座としてバランスを保っているが、上皇・天皇の血筋よりも、現職大臣を上としたことは朝廷の機構としての職を優先したと見なせる。儲君とは皇位を継承すべき皇太子を指す。 4条、5条は摂関の職は摂家の出身であろうと、器用の仁体、すなわち能力を優先すること、老齢であっても能力があれば辞任を認めないとする。器用の仁体を判断するのは幕府であるという含みがある。 6条は養子は同姓の男子から選ぶこと、7条は武家の官位は公家官位の定数とは無関係とする。信濃守や大膳大夫が何人いようが幕府の勝手となったわけだが、将軍が諸大名へ官位を与えるのではなく、儀礼的ではあるが朝廷が武家に官位を叙任する形であった。叙任されれば朝臣となり、問題を残したのである。 8条は年号を改めること、9条は天皇以下の礼服のこと。10条は「諸公家法度」の「老若によらず、行儀法度を背くの輩はきっと流罪に処すべし」と関わりが深い。突き詰めれば、「行儀」とは何かであろう。公家の官職には兵衛府(ひょうえふ)・近衛府に詰める武官があった。江戸期は形だけのものとなったが、近衛前久(さきひさ)は乗馬と鷹狩を得意とした。天正10年(1582)、禁裏南東で織田信長の「武者揃え」に騎馬で参加した公卿に、正親町季秀(すえひで)、烏丸光宣(みつのぶ)、日野輝資(てるすけ)、高倉永孝らがいる。興福寺の僧多聞院英俊(たもんいんえいしゅん)は肥前名護屋へ向かった近衛信尹(のぶただ
前久の子)を「太閤へ武辺の奉公に出らる」と日記に書いているという。 後に近衛信尹は名護屋へ向かったことも含めて薩摩へ流罪となる。このように江戸幕府開設前後には、武張った公卿がいたが、それは「行儀」がよくないことと罰せられたわけである。家康は慶長17年(1612)に、朝廷へ公家の鷹狩禁止を申し入れている。鷹狩から武張られては困るのである。 現在の公家のイメージと大差がある。同様に僧侶も現在は葬式の時にしか頭に思い浮かばないが、13条から17条は僧侶・寺院に関する条目である。この時代、僧侶は影響力の強いエリート集団だった証しである。「臈次」は年功の順序、「戒臘」は修行の年数の意。
禁中并公家諸法度
1
天子諸芸能之事、第一御学問也、不学則不明古道、而能政致太平
者未有之也、貞観政要明文也、寛平遺誡雖不窮経史、可誦習群書
治要云々、和歌自光孝天皇未絶、雖為綺語、我国習俗也、不可棄 置云々、所載禁秘抄、御習学専要候之事
天子諸芸能の事、第一御学問なり。学ならずんば則(すなわ)ち古道 明らかならず、而(しこう)して能(よ)き政事太平を致すもの未だこれ有 らざるなり。[貞観政要](じょうがんせいよう)の明文なり。「寛平遺誡」 (かんぴょうのゆいかい)に経史(けいし)を窮(きわ)めずといえども、「群書
治要」(ぐんしょちよう)を誦習すべしと云々、和歌光孝天皇より未だ絶え
ず、綺語(きご)たりといえども、我が国の習俗なり、棄 (す)て置くべか
らずと云々、「禁秘抄」(きんぴしょう)に載せる所、御学習専要に候事
1
三公之下親王、其故者右大臣不比等着舎人親王之上、殊舎人親
王、仲野親王、贈太政大臣穂積親王准右大臣、是皆一品親王以 後、被贈大臣時者、三公之下、可為勿論歟、親王之
次、前官之大
臣、三公、在官之内者、為親王之上、辞表之後者、可為次座、其次 諸親王、但儲君各別、前官大臣、関白職再任之時者、摂家之内、
可為位次事
三公の下は親王。その故は右大臣不比等は舎人親王の上に着く。 殊に舎人親王、仲野親王は(薨去後に)贈(正一位)太政大臣、穂積親
王は准右大臣なり。一品親王は皆これ以後、
大臣を贈られし時は 三公の下、勿論たるべし。親王の次は前官の大臣。三公は官の内
に在れば、親王の上となす。辞表の後は次座たるべし。その次は諸
親王、但し儲君(ちょくん)は各別。前官大臣、関白職再任の時は摂家
の内、位次たるべき事
1
清花之大臣辞表之後、座位可為諸親王之次座事
清華の大臣辞表の後、座位は諸親王の次座たるべき事
1
雖為摂家、無其器用者、不可被任三公摂関、況其外乎
摂家たりといえども、その器用なきは三公摂関に任ぜざるべから ず。況(いわん)やその外をや。
1
器用之御仁体雖被及老年、三公摂関不可有辞表、但雖有辞表、可 有再任事
器用の御仁体(にんたい)、老年に及ぶといえども、三公摂関辞表有る
べからず。但し辞表有るといえども再任有るべき事
1
養子者連綿、但可被用同姓、女縁者家督相続、古今一切無之事
養子は連綿、、但し同姓を用いらるべし。女縁者の家督相続、古今
一切これなき事
1
武家之官位者、可為公家当官之外事
武家の官位は、公家当官の外たるべき事
1
改元、漢朝之年号之内、以吉例可相定、但重而於習礼相熟者、可
為本朝先規之作法事
改元は漢朝の年号の内、吉例をもって相定むべし。但し重ねて習礼 相熟(なじ)むにおいては、本朝先規の作法たるべき事
1 天子礼服、大袖、小袖、裳、御紋十二象諸臣礼服各別、御袍 、麹塵 (きくじん)、青色、帛、生気御袍、或御引直衣、御小直衣等之事、仙 洞御袍、赤色橡(あかいろつるばみ)、或甘御衣、大臣袍、橡異文、小 直衣、親王袍、橡小直衣、公卿着禁色雑袍、雖殿上人、大臣息或
孫聴着禁色雑袍、貫首、五位蔵人、六位蔵人、着禁色、至極臈着 麹塵袍、是申下御服之儀也、晴之時雖下臈着之、袍色、四位以上
橡、五位緋、地下赤之、六位深緑、七位浅緑、八位深縹、初位浅
縹、袍之紋、轡唐草輪無、家々以旧例着用之、任槐(にんかい)以後
異文也、直衣、公卿禁色直衣、始或拝領任先規着用之、殿上人直
衣、羽林家之外不着之、雖殿上人、大臣息亦孫聴着禁色、直衣、
直垂、随所着用也、小袖、公卿衣冠時者着綾、殿上人不着綾、練
貫、羽林家三十六歳迄着之、 此外不着之、紅梅、十六歳三月迄 諸家着之此外者平絹也、冠十六未満透額帷子、公卿従端午、殿上人
従四月西賀茂祭、着用普通事
1
諸家昇進之次第、其家々守旧例、可申上、但学問、有職、歌道令
勤学、其外於積奉公労者、雖為超越、可被成御推任御推叙、下道 真備雖従八位下、衣有才智誉、右大臣拝任、尤規摸也、蛍雪之功
不可棄捐事
諸家昇進の次第は、その家々旧例を守り申し上ぐべし。但し学
問、有職、歌道の勤学を令す。その外奉公の労を積むにおいては、 超越たりといえども、御推任御推叙なさるべし。下道真備(しもつみちの
まきび)は従八位下といえども、才智誉れ有るにより右大臣を拝任、 尤(もっと)
も規摸なり。
蛍雪の功は棄捐(きえん)すべかざる事
1
関白、伝奏并奉行職事等申渡儀、堂上地下輩於相背者、可為流罪 事
関白、伝奏並びに奉行職事など申し渡す儀、堂上地下の輩相背く
においては、流罪となすべき事
1 罪軽重、可被守名例律事
罪の軽重は、名例律(みょうれいりつ)を守らるべき事
1
摂家門跡者、可為親王門跡之次座、摂家三公之時者、雖為親王之
上、前官大臣者、次座相定上者、可准之、但皇子連枝之外之門跡 者、親王宣下有間敷也、門跡之室之位者、可依其仁体、考先規、
法中之親王、希有之儀也、近年及繁多、無其謂、摂家門跡、親王 門跡之外門跡者、可為准門跡事
摂家門跡は親王門跡の次座たるべし。摂家三公の時は親王の上
たりといえども、前官大臣は次座相定む上はこれに准ずべし。但し 皇子連枝の外の門跡は親王宣下有るまじきなり。門跡の室の位は
その仁体によるべし。先規を考えれば、法中の親王は希有(けう)の
儀なり、近年繁多に及ぶが、その謂(いわれ)なし。摂家門跡、親王門 跡の外門跡は准門跡となすべき事
1
僧正大正権、門跡、院家、可守先例、至平民者、器用卓抜之仁、希
有雖任之、可為准僧正也、但国王大臣之師範者各別事
僧正大正権、門跡、院家は先例を守るべし。平民に至りては器用卓
抜の仁、希有にこれを任ずるといえども、准僧正たるべきなり。但 し国王大臣の師範は各別の事
1
門跡者僧都大正少法印任叙之事、院家者僧都大正少権律師、法印、
法眼、任先例任叙勿論、但平人者本寺推学之上、猶以相撰器用、
可申沙汰事
門跡は僧都大正少、法印、叙任の事。院家は僧都大正少権、律師、法
印、法眼、先例から叙任するは勿論。但し平人は本寺の推学の上、
なおもって器用を相選び沙汰を申すべき事
1 紫衣之寺往持職、先規希有之事也、近年猥勅許之事、且乱臈次、
且汚官寺、甚不可然、於向後者、撰其器用、戒臘相積有智者聞
者、入院之儀可有申沙汰事
紫衣の寺は往持職、先規希有の事なり。近年猥らに勅許の事、
且 つは臈次(らっし)を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向 後においてはその器用を撰び戒臘(かいろう)を相積み智者の聞こえ
有れば、入院の儀申し沙汰有るべき事
1 上人号之事、碩学之輩者、為本寺撰正権之差別、於申上者、可被
成勅許、但其仁体、仏法修行及廿箇年者、可為正、年序未満、可 為権、猥競望之儀於有之者、可被行流罪事
上人号の事、碩学の輩は本寺として正権の差別を撰び申し上げる
においては、勅許なさるべし。但しその仁体、仏法修行二十箇年に 及ぶは正(しょう)となすべし、年序未満は権(ごん)となすべし。猥らに 競望 (きょうぼう)の儀これ有るにおいては流罪行なわるべき事 右、可被相守此旨者也
右、この旨相守らるべきものなり
慶長二十年乙卯七月日 昭実 二条関白なり
秀忠 家康
此拾七箇条、家康、秀忠、昭実先判之趣也、万治四年正月十五 日、内裏炎上之節、就令焼失、今度以副本如旧文写調之、為後鑑
加判形者也
この十七箇条、家康、秀忠、昭実、先判の趣なり。万治四年正月十
五日、内裏炎上の節焼失するによって、今度副本をもって旧文のご とく写しこれを調え、後鑑(こうかん)のため判形を加えるものなり 寛文四年甲辰六月三日 光平 御判
家綱 御判
| |