■久我家のこと 清華家の一つである久我家は、室町時代の初期まで源氏の統領(棟梁)だった。家業・家職は琵琶ではなく笛なのだが、江戸期を通して盲目の職業者を総轄する管領であった。
「四姓」と呼ばれる源・平・藤・橘は誰もが知っているはず。源平藤橘(げんぺいとうきつ)、源氏が最初に配列されていることから、この呼称は鎌倉時代にできたといわれる。四氏族の中で最も勢いがあったからだろう。最後の橘氏はパッとしないが、四氏族の中に入っているからには理由があろう。橘氏の祖は奈良時代、第30代敏達(びだつ)天皇の皇子葛城王(かつらぎおう)が臣籍へ降下して、橘諸兄(たちばなのもろえ)と名乗ったのが始まり。歴史上著名な人物は、52代嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(かちこ)くらいである。それにもかかわらず、四姓に加えられているのは天皇につながる姓氏のためと思われる。 久我家が属す四姓の第一の姓、源氏の話に移る。 南北朝時代に成立した系図集「尊卑分脈」には、嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏、花山源氏、三条源氏、後三条源氏、順徳源氏、後嵯峨源氏、後深草源氏、亀山源氏、後二条源氏、以上17流の源氏が記されているという。 17流の内で最も早く成立したのは、弘仁5年(814)の嵯峨源氏である。この年に嵯峨天皇は詔(みことのり)を出した。自分には皇子女が多く、彼らを皇子女として皇族に入れておくと皇室の支出が膨大となる、よって臣下へ降ろしたい、と。いわゆる臣籍降下である。 嵯峨天皇には判っているだけで50人の皇子女がいる。この内、親王、内親王として皇族に残したのが17人、残りは「源姓ヲ賜ウ」と臣下へ降っている。臣籍降下した皇子女はその母親の身分が、親王・内親王として皇族に残った者たちより低い。 他の16流の源氏の成立も同様な理由からだが、皇子女を臣籍降下させる利点は、@皇室財政の赤字化を避ける。A天皇親政、上皇・法皇院政を支え助ける臣下を生む。この二点に絞られるだろう。 久我家は村上源氏である。村上源氏は院政を支えたことで著名である。白河・鳥羽・後白河の各上皇の院政最盛期を助け、この院政期には公卿の過半数までを村上源氏が占めている。 久我家は62代村上天皇の皇子具平(ともひら)親王の子で寛仁4年(1020)に臣籍へ下った源師房(もろふさ)から2代目の雅実(まさざね)を祖としている。村上源氏中院流の直系であり、雅実を初代に江戸期以前の18代当主の通堅(みちかた)までの歴代の官を調べると、太政大臣8名、右大臣3名、内大臣3名、大納言4名となる。 2代の雅定は右大臣になった人だが、保延6年(1140)に鳥羽上皇の院宣(いんぜん 上皇・法皇の命令文書)により淳和(じゅんな)・奨学両院の別当(長官)に任ぜられ、以後久我家の世襲となっている。両院別当は源氏の公家の中で官位が最も高い者が宣旨(せんじ 天皇の命令文書
)によって任ぜられていたが、院政期は院宣のほうが力があった。 淳和院・奨学院とは何か。淳和院は嵯峨天皇が譲位した弟の52代淳和天皇が、仙洞(せんとう 上皇の御所)に定めたところで、崩御後に寺院・修行道場となっている。奨学院は在原行平(業平の兄)
が元慶5年(881)に藤原氏の勧学院に倣って創設した学問所である。 淳和院のほうは分明でないが、奨学院が源氏とつながる理由は、在原氏も源氏と同様に皇族から臣籍降下した賜姓族で、在原兄弟は52代平城(へいぜい)天皇の皇子阿保親王の子である。奨学院は在原氏のみならず、皇族から臣籍降下した諸氏の子孫で学問に志のある者を収容したという。この「皇族から臣籍降下した諸氏の子孫」を王の子孫、すなわち「王氏一族」と呼ぶなら、王氏の中で最も官位の高い久我家は「王氏の長者」と呼ぶことができる。 淳和院については推測でいうと、51代・52代・53代の天皇である平城・嵯峨・淳和は兄弟で50代桓武天皇の皇子たちである。桓武からは平氏が成立しており、諸氏(平・在原・源)に関わり深いことから、「淳和・奨学両院」という呼び方が生じたのではないかと思われる。 「氏の長者」という呼称がある。宣旨によって源平藤橘の諸氏へ下賜した呼称だが、同氏族を統率して朝廷に仕え、氏神の祭祀や同氏族の叙爵の推薦や処罰などを掌ったといわれる。久我家は「源氏の長者」も世襲しているが、いつからかは分明でない。おそらく淳和・奨学両院の別当に任ぜられると同時に、源氏の長者にも任ぜられたものと思う。 久我家が源氏の長者を世襲できなくなるのは、室町幕府3代将軍足利義満によって、淳和・奨学両院の別当を奪われてからである。つまり、淳和・奨学両院の別当と源氏の長者はセットになっていたのである。 以後、淳和・奨学両院の別当、源氏の長者と征夷大将軍は、「武家の棟梁」を象徴する意味を帯び、義満から歴代の足利将軍と徳川将軍に世襲されていくことになる。 朝廷での出世に邁進した村上源氏から、朝廷での出世を諦め地方へ下って武力に邁進した清和源氏へバトンタッチされたともいえる。公家の落ちこぼれともいえる清和源氏が武力を培ったのは、地方には稀有な天皇につながる子孫(貴種)である一点のみで、これが力のある土豪を吸引し一大勢力を成し得たものと推測される。 なお、「氏の長者」の呼称は室町時代以後は源氏と藤原氏のみが称したが、藤原氏の長者が分明でない。藤原道長から五代目の忠通以降、氏の長者を世襲してきた藤原北家摂関流の直系は二流に分かれる。忠通の長男の基実(もとざね)は近衛家の祖となり、忠通の三男の兼実(かねざね)は九条家の祖となる。鷹司家は近衛家の支流、二条家・一条家は九条家の支流であるから、「氏の長者」は近衛家と九条家の持ち回りだったと思うが、五摂家の筆頭は近衛家であるから、近衛家が長者を称したかもしれない。また、五摂家の中で摂関となった家がその度に称したかもしれない。 ただ、古くからの言葉に「勧学院の歩み」がある。藤原氏の氏の長者の家に慶事があると、勧学院の学生たちがその屋敷へ整列して向かったことを指している。摂関職よりも源氏と同様に勧学院別当となった家が、氏の長者を称したとも思えるのである(後に調べたら摂関となった家が「氏の長者」となっていた)。 次に久我家が盲目の職業者の管領であったことについて述べる。 54代仁明(にんみょう)天皇の皇子人康(さねやす)親王は、病から盲目となり出家して山科に隠棲した。親王は琵琶の名手だったといわれ、度々その山荘に盲人を集めては琵琶や管弦、詩歌を教え、「是我当道」と親王はいったそうである。貞観14年(872)、親王の薨去後、傍らに仕えていた盲人に検校と勾当(こうとう)の二官が宣下されたそうである。 この話、どこで久我家と結びつくのか分明でないが、仁明天皇は淳和天皇の次の天皇であり、嵯峨天皇の皇子であったことが関係してくると思われる。ともあれ、「当道」(とうどう 盲人の官位を掌りその職業を保護する制度)は、平家物語を弾き語る琵琶法師が登場してくる鎌倉時代からである。琵琶法師は平氏の滅亡を物語るが裏を返せば源氏の隆盛を示してもおり、平氏鎮魂から源氏の長者にして王氏の長者でもある久我家が、琵琶法師の職業組織である当道座の庇護管理にあたったのではないかと推測される。 久我家と当道座の関係は、105代後奈良天皇による天文3年(1534)11月の綸旨(りんじ
天皇の勅語文書)
があり、これには当道座を後白河上皇の時代から管領として久我家に安堵した旨が載っているようだ。が、それ以前のことは分明でない。 久我家と当道座の関係が判然とするのは、江戸期に入ってからである。徳川幕府は当道座を公認し、座は琵琶法師の他に箏、三味線、鍼灸、按摩などの盲人も加え組織を拡大する。 明暦2年(1656)、久我家当主久我広通は幕府に当道座に対する久我家の管領権の由緒を強調すると共に、当道座に対し官職の授与の礼物(礼銀)と検校以下の座衆からの年頭礼物の納入などを要求する。しかし、当道座はこれを拒否する。10年にわたる係争の後、幕府が仲介に入り、寛文6年(1666)に当道座中は久我家の「座中管領」を認めるに至る。この1年前に久我広通が右大臣となっていることも影響していると思われる。 管領は10年係争するに価する総轄職であった。盲人の官位は上から下まで73階級あり、当道座の盲人が官位を得るには、官位相当の官金を久我家に納め、久我家から交付される辞令書を受け取れば、官位を名乗ることができたのである。 盲人の最高位は京都の当道職屋敷に在住した職検校(しきけんぎょう 職十老とも称したようだ)、次が関東の盲人を総管した江戸の総録。職検校も総録も検校の中から選任された。 盲人の官名を上から順に記すと、検校、勾当、座頭、紫分(しぶん)、市名(いちな)、都(はん)。以上の六つだが、検校には一老から十老まで、勾当には一段から八段までとあり、すべてを数えると73階級となるのである。各階級の昇進には7年経て、3年経てなどの制限があったが、まともに順序を踏んでいては生涯検校になれないので、実際は一定の官を得るための金(官金)を納めることで昇進を早めることができた。 例えば、都の初級になるには金1分、都の最上級には4両、市名は金2分に始まり最上級は6両。都から検校の最上級までに719両が必要だったといわれる。天保年間(1830-1843)の調べでは江戸に検校68人、勾当67人、座頭170人、市名360人ほどいたそうである。なお、市名というのは「何の市」と称することができるもの。 久我家にはかなりの収益となったはずだが、金を納めて市名以上の官を得た者には毎年幾分かの割戻しが久我家からあったという。ということは、久我家は集まった官金を京都・大坂の商人などに貸し付けて運用していたことになる。あるいは座頭金(ざとうがね)として職検校に運用させていたとも考えられる。 座頭金とは盲人が高い官位を得るために資金を増やそうとして貸す金のこと。高利で取立てが厳しいことで有名な貸金だった。 久我家の資金運用はともかく、盲人の収入について若干述べて、予定より長くなったこのページを終わりにしたい。 盲人は武家町で暮らす盲人以外は、つまり町中で暮らす盲人はすべて当道座に入る決まりであった。当道座で渡世修業をして官位を得ることを第一に心懸けるべし、と安永5年(1776)11月の幕府法令にもある。 盲人の渡世は琴曲、三味線、針治、按摩(導引とも称す)の礼金と、官金の利息、配当があった。配当とは、幕府の法事、将軍の薨去時には総録へ下賜金があり、これを検校から無官の按摩まで分け合ったのである。また、武家・町家の区別なく吉凶事の時は盲人に金をやるのが慣例だったので、これも配分した。 こうした渡世から官金を蓄えていくわけだが、官位が高くなるにつれ武家の社会においても盲人は相当な待遇を得られ、それにつれて収入も増したのであった。 以上、特例として久我家を紹介した。「天皇公卿の制度と事件」は4ページになるかもしれない。 |