天皇公卿の制度と事件                                    江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

 

「およつ御寮人」事件
 
第108代後水尾天皇が即位した慶長17年(1612)に、家康は将軍秀忠の末娘和子の入内(じゅだい)を申し入れていた。入内の宣旨は2年後の慶長19年4月に出されるが、女御御殿の造営などの準備が始まるのは元和4年(1618)。この間、大坂の陣、家康の薨去、後陽成上皇の崩御などで入内は延期されたのである。
 入内準備が始まった元和4年に事件が起きる。
 「およつ御寮人」は、大納言四辻公遠(よつつじきんとう)の娘で女官(典侍)だった。後水尾天皇の寵愛を受け、すでに皇子賀茂宮(かものみや 没年5歳より逆算すると1618年生まれとなるようだ)を儲けていることが明らかになった。女官が皇子女を産むことは御所では普通のことで、驚くべきことではない。事件となったのは、産んだのが男子であったこと、
秀忠の正室お江与の方(和子の母)が男女関係に厳格だったことが挙げられよう。
 翌元和5年5月に秀忠が上洛。上洛中の6月2日におよつ御寮人は皇女梅宮(うめのみや 文智女王、奈良円照寺開基)を出産。秀忠は参内したが入内には触れず、在京最後の9月18日に前大納言万里小路充房(までのこうじあつふさ)を丹波篠山へ、権中納言四辻季継(すえつぐ)・左中将高倉嗣良(つぐよし)を豊後府内へ配流とし、その他若干の公家を処罰した。
 四辻季継と高倉嗣良は四辻公遠の次男と三男で、およつ御寮人の兄にあたる。名目は天皇の不行跡は近臣の不品行の影響というものだったが、御所には傾城・白拍子・女猿楽を招じて酒宴を催すなどの公家衆法度違反が見られた。が、御所に芸能民が訪れるのは通常のことではあった。幕府の処罰を受け容れた武家伝奏広橋兼勝は、土御門泰重から、「三百年以来の奸侫(かんねい)残賊臣」と罵倒されたそうだ。
 これに対し天皇は、公家の処罰は自分の不徳であると、譲位の意向を右大臣近衛信尋(のぶひろ 天皇の同母弟)に伝えた。天皇の譲位は、天皇のもとへ女御として入内する婚姻の解消を意味した。
 幕府は交渉にあたっていた京都所司代板倉勝重を、その子の重宗に替え、上使として外様大名だが徳川家と親しく近衛家とも縁故のあった藤堂高虎を派遣。朝廷側は近衛信尋、天皇の叔父八条宮智仁(としひと)親王らが天皇を宥めたりした。
 結果、天皇から、「何様共、公方様御意次第(いかようとも、くぼうさまぎょいしだい)との返事をを得られ、元和6年(1620)6月18日、和子入内のはこびとなり、入内後に配流された公家らを召還することで妥協が成立したのだった。
 入内の日、和子は14歳、後水尾天皇は25歳であった。和子は女御という地位で入内する。女御は後宮女官の一つで地位は高くなかったが、平安時代に藤原摂関家の娘が女御になると地位も次第に高くなったという。
 天皇と和子の仲は天皇の生母中和門院(ちゅうかもんいん 近衛前子) の配慮もあり、うまくいったらしい。入内して4年後、寛永元年(1624)11月、天皇は和子を中宮に冊立(さくりつ 勅命により皇太子・皇后を立てる意)する。和子は後水尾天皇が寛永6年(1629)に譲位するまでの9年間に二男三女を儲け、東福門院と称するようになっても二女を産んでいる。
 後水尾天皇は譲位の後に和子以外の他腹の皇子女が幾人もある。しかし、天皇在位中には和子以外の皇子女は一人も記録にないという。
 隠居した細川忠興が、子の肥後熊本藩主忠利に天皇譲位を報じた書状がある。寛永6年12月27日付の書状で、その中に以下のような文がある。

御局衆之はらに、宮様達いか程も出来申候をおしころし、又ハ流し申候事、事之外むごく、御無念ニ被思召由候。いくたり出来申候候共、武家之御孫より外ハ、御位ニは付被申間敷ニ、余あらけなき儀と被思召候

 徳川の血を引かぬ皇子女は、情容赦なく圧殺し、流産させたというのである。だが、和子の産んだ子で天皇となったのは、109代明正(めいしょう)天皇一代に止まった。その後、徳川家と縁故のある天皇は111代後西(ごさい)天皇のみだが、それは天皇の妃が高松宮好仁親王の娘明子女王で、この明子女王の母が2代将軍秀忠の養女亀姫で、実は越前松平忠直の娘という説明するのに長くなるほどの縁戚関係である。
 徳川将軍家の娘が入内するのも、和子一代で終わったのだった。

紫衣事件
 
寛永4年(1627)7月16日、西丸老中土井利勝の屋敷に在府中の京都所司代板倉重宗と金地院崇伝が召集された。この時、崇伝は家康の定めた法度の記録31冊を持参し、3人で協議したという。3日後の19日、西丸において大御所秀忠は板倉重宗に次の5ヵ条を命じた。

1、諸宗の出世は法度書に背き乱れている。武家伝奏三条西実条(さねえだ)・中院通
    村を通して天皇に申し上げ、出世は保留し、改めて各人の器量を吟味して任命する事
1、寺々の伝奏(各公卿家が務めていた)へも、法度に相違する者が出世を希望しても、
  今後みだりに執奏させぬよう、武家伝奏と相談して申し渡す事
1、公帖(任命辞令)を受けていない者でも法度発布以前からの場合は免除する事
1、知恩院執奏の上人号も法度に相違している者は保留し、再吟味の上認可する事
1、百万遍(知恩寺)・浄華院・黒谷(金戒寺)より執奏の者も、知恩院を経由して出世の
  手続きをする事

 
これによって元和元年(1615)の諸法度発布以降の出世・紫衣に対する勅許が無効となった。
 反発が強かったのは、大きな影響を受ける大徳寺と妙心寺だった。大徳寺の沢庵宗彭(そうほう)玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)、江月完玩(こうげつそうがん)と連署して抗議書を幕府へ提出した。
幕府は50歳以上になって出世した者はそのまま認める妥協案を示し、大徳寺・妙心寺も請書(うけがき)を出して詫びた。しかし、沢庵らは屈せず寛永6年(1629)7月に江月の刑は免ぜられたが、沢庵は出羽上山へ、玉室は陸奥棚倉へ配流となった。
 紫衣事件について細川忠興は忠利に次のように報じている。

口宣一度ニ七八十枚もやぶれ申候、主上此上之御恥可在之哉

 勅命を伝える文書が一度に70〜80枚も無効になった。これ以上の御恥辱はあるだろうか、というのである。
 天皇は公家への官位授与も自由にならず、皇室財政も武家に管理されて自由にならなかった。そして、この頃の天皇は背中の腫れ物に苦しんでもいた。単なるおできではなく、父君の後陽成天皇や叔父の八条宮智仁親王を死に至らしめた癰疽(ようそ)ではないかと恐れられていた。医師通仙院の薬を処方していたが快方せず、灸治や鍼は天皇に在位している限りは許されない治療だった。
 後水尾天皇の譲位を一気に促したのは寛永6年(1629)10月10日の家光の乳母福が、武家伝奏三条西実条の妹分として天皇拝謁を強行した事件だった。福は内侍の局のお酌で盃を頂き、「春日局」の称号を賜る。一説に天皇の病状を探るためのごり押しだったともいわれるが、公家たちは唖然とした。一介の武家の下女が拝謁した上に天盃を受けるとは、「帝道は地に落ちた」と日記に認めた公家もいたらしい。
 一ヵ月後の11月8日の早朝、突然公家衆は束帯を着けて参内の命を受ける。後水尾天皇譲位と、女一宮興子(おきこ)内親王践祚(せんそ 皇位継承)の旨が告げられる。このことは摂家、武家伝奏、和子さえ知らず、天皇の義弟の一条康道や中御門宣衡(のぶひら)のみが知っていたという。中御門宣衡は、「およつ御寮人」事件の際に、御所への出仕停止処分を受けた一人。
 翌寛永7年9月12日、興子内親王の即位の式が挙行された。859年ぶりの女帝明正天皇の誕生であった。

後光明天皇毒殺説
 
天皇や将軍が急死すると毒殺説が浮上するものだが、この天皇の急逝後、次の後西天皇践祚まで二ヵ月余り皇位が空位になっており、こうした例は律令制度が整って以降では以下の二例しかないので、述べておきたいと思う。

宝亀元年(770)  称徳天皇→光仁天皇の8月4日→10月1日
弘治3年(1557) 後奈良天皇→正親町天皇の
9月5日→10月27日

承応3年(1654) 後光明天皇→後西天皇の9月20日→11月28日
 

 後光明(ごこうみょう)天皇は寛永20年(1643)10月21日に第110代の天皇として即位している。11歳であった。父君は後水尾上皇、母は参議園基任(もととう)の娘藤原光子。
 死因は天然痘とされている。22歳という若さでの崩御だった。毒殺説の根源は幕府儒者で、8代将軍吉宗の侍講も務めた室鳩巣(むろきゅうそう)が記した「鳩巣小説」である。
 天皇の病状が悪化したため、関東から医師を参上させ、薬をすすめたが天皇はこれを拒んだという。しかし、京都所司代が強くすすめたので、やむなく服用されたところ容態が急変した。
 「鳩巣小説」の中に毒殺の文字はないという。「鳩巣小説」の中の後光明天皇の記事は、正徳5年(1715)5月6日付の鳩巣の手紙から収録したものだという。天皇の崩御から60年ほど経ている。薬の服用をすすめた所司代を土井大炊頭(おおいのかみ)としており、京都所司代に土井大炊頭が実際に登場するのは、鳩巣の時代から50年ほど後の土井利里しかいない。さらに幕府が上洛させた医師武田道安(どうあん)は事実だが、天皇は道安出発の前日に崩御されている。
 とはいえ、後光明天皇の英明ぶりは関東まで聞こえ、御三家の中に天皇と密かに通ずる者がいたらしい。京都所司代板倉重宗をしばしば悩ませた逸話もある。ある時、父君の後水尾上皇が病臥(びょうが)された。天皇は見舞いに行く旨を所司代へ伝えた。天皇行幸(ぎょうこう)には関東の許可を得て儀式を正す必要があるから不可の旨を所司代は伝えた。すると天皇は、急いで禁中(京都御所)から院の御所(上皇の御所)まで廊下を作れば、御所の中のことだから行幸とは呼べないだろう、と所司代に平然といった。
 天皇は剣術を好んだ。所司代が天皇の剣術稽古が関東へ聞こえてはよろしくないと諌めた。それでも剣術稽古を天皇がやめられないので、所司代は「この重宗、切腹せねばなりませぬ」と申し上げた。すると天皇は、武士の切腹を見たことがないから腹を切って見せよ、といわれた。所司代板倉重宗は大いに閉口したそうである。

ターニングポイント1
 
延享元年(1744)の幕府領総石高は463万石余り、年貢高180万石余り。この数字は共に江戸期を通じて最高のものだった。延享元年は、8代将軍吉宗が将軍職を器量に難がある家重に譲り、自らは大御所となる前年にあたる。
 勘定奉行は年貢増徴に辣腕をふるい、江戸期を代表する酷吏とされる神尾春央(かんおはるひで)。経世家の本多利明は「西域物語」で、神尾が「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と放言したことを咎めている。
 神尾はこの年、勘定吟味役堀江荒四郎らを引き連れ、畿内・中国筋の生産力の高い地域を廻って代官を督励した。その甲斐があって上記のような江戸期最高の年貢高を得るわけだが、百姓たちの抵抗も激しかった。
 摂津・河内・和泉・播磨の百姓たち2万人が京都の代官青木次郎九郎の役所へ押し寄せ、年貢の減免を願い出た。青木代官の手代元締栗原藤八らへ、百姓たちは以前から賄賂を贈っていた。栗原らは年貢増徴の至上命令と百姓たちの突き上げの板ばさみから進退窮まり、「朝廷へ願い出ろ」といった。徳川幕府の末端役人が思わず口走った言葉、それが朝廷へ願い出ろとは意味深長である。
 百姓たちは、内大臣近衛内前(うちさき)と武家伝奏葉室頼胤(よりたね)・坊城俊将(としまさ)へ減免の斡旋を願い出る。さっそく武家伝奏が所司代へこの旨を伝達する。
 幕府が調査に乗り出し、その結果、代官手代の責任となり栗原藤八は死罪、その他連累者は多数に上ったのである。しかし、徳川幕府の絶頂期、逆にいえば後は下がるのみだが、多数の百姓が朝廷を目指して幕府への斡旋を訴えたことは、記憶すべき象徴的出来事だろう。 

宝暦事件
 
事件の中心人物は竹内式部。正徳2年(1712)に越後国新潟の町医者竹内宗詮(そうせん)の子として生まれる。17〜18歳の頃に京都へ上る。伝手があったようで大納言徳大寺実憲(さねのり)に近習として仕え、4石を給与される。学問は松岡仲良(なかよし)に師事し、山崎闇斎の垂加流神道や儒学を学び、師の仲良の手に負えなくなったらしく仲良の師玉木葦斎(いさい)の門に入る。
 やがて徳大寺家の禄を辞し、麩屋町(ふやちょう)丸太町下ル町の借家に塾を開く。徳大寺家へは、近習格として出入りは許されていたようだ。
 塾には以下の公卿らの他に、地下官人や諸国からの門人を含めると700〜800人もいたらしい。
 徳大寺公城(きんむら)、大納言烏丸光胤(みつたね)、大納言正親町三条公積(きんつむ)、中納言坊城俊逸(としやす)、少納言西洞院時名(ときな)、右中将高野隆古(たかふる)、左中弁勘解由小路資望(すけもち)。以上の7名は式部の代講もできた公卿たち。桃園天皇の侍読(じどく)伏原宣条(のぶえだ)、桃園天皇の近習として右兵衛督(うひょうえのかみ)高倉永秀・左少将西大路隆共・左少将中院通維(みちこれ)・右馬頭(うまのかみ)町尻兼望(かねもち)がいる。他に中納言岩倉恒具(つねとも)、中納言今出川公言(きんこと)、左少弁裏松光世(みつよ)
 
 
式部はいわゆる四書五経などの儒学書の他に、「日本書記」神代巻や尊王思想の書とされる浅見絅斉(けいさい)「靖献遺言(せいけんいげん)・栗山潜鋒(せんぽう)
「保健大記」などを講義したという。
 宝暦8年(1758)7月15日に式部と公家らが、その言動によって処罰されるのだが、式部の講義内容が窺えるものに武家伝奏広橋兼胤(かねたね)の日記がある。この内容は、式部の元門人だった参議綾小路有美から右大臣九条尚実(なおざね)が聴取し、これを伝奏の兼胤へ尚実が伝え、兼胤が所司代松平輝高へ伝達したものだという。

天子を至つて尊敬之儀、強(あなが)ちに申し講じ、右之通、日本に於(おい)て天子程貴(たつと)き御身柄はこれなく候に、将軍を貴と申す儀は人々も存知、天子を貴ぶを存ぜず候。子細ハ如何之儀ニ而これあるべき哉。是ハ天子御代々御学問足らず、御不徳。臣下関白已下(いか)(いず)れも非器無才故之儀ニ候。天子より諸臣一等ニ学問を励み、五常之道備へ候ヘバ、天下之万民皆その徳に服して天子に心を寄せ、自然と将軍も天下之政統を返上せられ候様ニ相成り候儀ハ必定、実に掌を指す如く公家之天下ニ相成り候。

 式部のこうした講義は公家たちを元気づけたらしく、中には武家を倒すために軍学兵法や武術を学び出す者もおり、彼らは交替で警護にあたる御番の際に剣術の稽古を繰り返したといわれる。
 事を大きくしたのは、といってもここまででも結構危ういが、天皇が甚だしく影響を受けてしまったことであった。時の天皇は116代桃園天皇、延享4年(1747)に7歳で即位し、宝暦事件の頃は18歳前後。
 天皇は式部門下の伏原宣条に儒学講義を受けていたが、その内に式部門下の公卿たちが、御番の際に交替で天皇に「日本書記」神代巻の進講を始めるようになった。
 この噂を聞いた前関白一条道香は、関白近衛内前(うちさき)ら摂家一同と相談し、天皇の嫡母青綺門院(桃園天皇の実母は姉小路実武の娘で開明門院と称して存命だった。青綺門院は桃園天皇の父君桜町天皇の女御だが、譲位後に皇太后となっている。よって嫡母と呼ばれたものと思われる。二条吉忠の娘)の賛成を得て、天皇を強く諌め進講を中止させた。これが宝暦7年(1757)8月のことであった。
 ところが、天皇の意志は強固だった。関白近衛内前に講義再開を激しく迫った。困り切った内前は青綺門院(せいきもんいん)に相談する。やむをえないとなり、翌宝暦8年3月から関白監督下での西洞院時名による神代巻の進講が始まる。
 講義再開は式部門下の公卿たちを鼓舞した。数ヵ月後に不穏な噂が流れ始める。不安に駆られた摂家一同は、青綺門院の同意を得て、同年6月に進講を打ち切らせ、同時に近習徳大寺公城を罷免、正親町三条公積を病と称させて天皇から遠ざけた。これを知った天皇は宸翰(しんかん 天皇直筆の文書)を関白近衛内前に渡す。その宸翰は以下。

此間摂家一列より、神書聞こと、すいか(垂加)流にてハ為に成まじき、さるによつて、何とぞやむる様にと、たって関白申され候故、得心せざれども、相やめる由云。其後とくとしあむ(思案)候所、得心せずしてやむること先如何。其うえ愚存道にかなはば勿論、又一列被申通が道にかなふにしても、得心せざるにやむること甚如何。道の事故、このままにすてをきがたき也。彼流なにがあしきゆへ、為にならぬよし申さるるぞ。心底いぶかしく思ふ。さだめて格別のわけ有べし。くはしく聞度(ききたく)おもふ。名々に所存被書付、一封可被上なり。夫神道ハ、わが大祖及爾(なんじ)ノ大祖と、万世の為に心をあはせ、天地自然の道をかんがへて、たてをかせられたるわが国の大道にして、朕(ちん)ハ勿論、政(まつりごと)をとる人、必まなぶべき能みちなること也。此間も神家輩より聞は何も所存なきよし申さるる。なるほど右輩より聞ハさしつかひもなき事故、さやうにしたき者なり。去(さり)ながら、右輩に聞べき人体相みえぬによって、これまで彼流人体より聞しこと也。彼流至てただしきやふに思ふ。去ながら、一列より被申通が義理にかなひ、神慮によくかなふぎ(儀)明日に知たらハ、必一列より被申しこと用、向後彼流聞まじき也。さて又愚存神慮義理にかなふぎ(儀)ならば、これまで之通にて則可聞なり。只今は一列所存と愚存と相違なり。二つのうち、いづれが道にかなふこと、依不成分明也。

 神家(吉田流)の神道なら聴いてよいというが、吉田流にはしかるべき人物がいない。自分は垂加流が正しいとおもうが、摂家一同が彼流(垂加流)はいけないというなら、そのわけを各人銘々に文章に記して出せ、納得せぬかぎり受講はやめない、というのである。
 関白らは説得を諦め、天皇側近から式部一門を排除することに決める。6月28日に前の徳大寺公城、正親町三条公積に加え、烏丸光胤、坊城俊逸、高野隆古、西洞院時名、中院通維の5人に籠居(ろうきょ)を命じると共に、問題の根源である竹内式部の処分を武家に求めた。
 式部は6月28日から京都所司代において連日訊問を受け、身柄を町内預けとされた。公家への軍学講義、武器購入斡旋の有無を追及されたが、式部は一貫して否定した。
 7月4日以降沙汰やみとなっていた審問が7月22日から再開。2日後の24日になると式部の身柄は揚り屋へ移され、籠居中だった7人の公卿は免官・永蟄居(えいちっきょ 終身一室に謹慎させる刑)に処され、その他多くの公家が免官・遠慮などの処罰を受けた。
 当時の幕府側に竹内式部をまともに論駁できる人物はいなかったようで、幕府は式部を処罰する口実が見付からず苦慮したらしい。そんな折に情報が飛び込む。この年の5月29日の鴨川洪水の際、高倉・高野・西洞院などの公卿らと式部が、洪水見物と称して賀茂河原の三本木の遊女屋で酒宴を催した事実が明らかになる。場所柄不相応な所へ供をしたことが、式部処罰の口実を与えた。
 式部処罰の理由は、公家へ神書を講義すべき家が決まっているのに辞退せず講義したこと、浅見絅斉の「靖献遺
」を講義したこと、これに加えて上記の場所柄不相応な所へ供をしたことで、翌宝暦9年(1759)5月6日、竹内式部へ五畿内・関東八国・東海道筋・木曽路・甲斐・近江・丹波・越後・肥前の諸国からの追放が申し渡された。

明和事件
 
この事件は天皇公卿に直接関係しないが、竹内式部が間接的に関わってくるので述べておきたい。
 事件の中心人物は山県大弐(やまがただいに)。甲斐国巨摩郡(こまごおり)篠原村の郷士の家に享保10年(1725)に生まれている。
 山梨郡山王権現社の神官加賀美光章から垂加流神道と古典を、巨摩郡藤田村の五味釜川(ごみふせん)から儒学を学んでいる。32歳の頃に江戸へ出て、9代将軍家重の側用人大岡忠光に儒者として仕えるが、間もなく浪人となって八丁堀永沢町に塾を開く。儒学と軍学を講じて諸藩士、浪人、僧侶などの門人が1000人ほどいたという。
 ここまでなら事件にならないが、これに大名家が絡んでくる。大弐は上州小幡藩織田家2万石の家老吉田玄蕃と親交があった。吉田玄蕃は藩主信邦の信頼を得て藩政改革の途上にあった。しかし、家老拓(せき)源四郎は藩主の信任が厚い玄蕃を妬み失脚を狙っていた。
 そんな時、織田家の菩提所崇福寺の僧梅叟(ばいそう)は大弐の軍学を受講する。大弐が甲府城の要害について論じ、江戸城攻略法を講じているのを聴いて、その論議の危うさを藩の用人松原郡大夫に告げた。運悪く郡太夫は拓源四郎の一派だったため、源四郎はこれを好機と、藩主信邦の実父である高家織田信栄(のぶひで)と謀り、玄蕃に謀反の疑いありと謹慎処分にした。
 この頃、幕府では宝暦事件に連座した藤井右門を探していた。右門の父は討ち入りに加わらなかった赤穂浪士という説がある。浅野長矩の江戸家老で、浅野の一件後に越中国へ移住したという。右門はその長男で、京都に出て正親町三条家に仕え、竹内式部門下の公家と親交があり、事件後に江戸へ逃れて大弐の塾へ身を寄せていた。
 これを褒美目当てに密告する門弟がおり、大弐の関係から織田家の内紛も幕府の知るところとなった。大弐らは明和3年(1766)12月に捕縛され、取り調べの結果、翌明和4年8月21日に大弐は死罪、右門は獄門(処刑前に獄死)、織田信邦は隠居、家は弟信浮(のぶさき)が継ぎ出羽国高畠へ転封、織田信栄は高家免職、その他連累者は多数に上った。
 この折に竹内式部は、その一味の疑いを受けて取り調べられた。疑いは晴れたが、お構いの場所である京都へ入ったことが判明。八丈島へ流罪となったが、途中の三宅島で病没した。56歳だった。
 なお、大弐への死罪宣告の要旨は以下。

1、甲府城付きの武器員数を申し触らした事
1、熒惑星(けいわくせい 火星)が心宿(天の28宿の内の1宿)にかかるのは兵
  乱の兆しと古書にあるが、上州辺の百姓の騒動にその験(きざ)しが
  見えると講じた事
1、禁裏は行幸もできず囚人同様と講じた事
1、兵学講釈において、甲州その他の地理・地名などを用いて講じた事

 百姓の騒動とは、幕府が家康の150回忌法要を日光東照宮で営むにあたり、参列者が多数見込まれるため沿道村々へ助郷の増加計画を立てた。これに対して明和元年(1764)の暮れから翌年にかけて、武蔵・上野・下野の3ヵ国の百姓20万人が蜂起した。これを「伝馬騒動」と称しているが、幕府領の多い関東での騒動=幕府お膝元での騒動であり、幕府の威光の陰りを示す事件とされている。

ターニングポイント2
 浅草蔵庭相場(あさくさぐらにわそうば)というものがある。蔵米取の旗本・御家人の給与は、浅草にある幕府の米蔵から支給される。この浅草蔵で自分が食べる飯米と、換金する払米(はらいまい)に分けるのだが、払米は浅草蔵の庭先で売り払うため、その値段を浅草蔵庭相場といった。天明7年(1787)5月の浅草蔵庭相場は100俵が212両だった。平常は40両前後だったから、なんと5倍以上の騰貴であった。
 天明年間(1781-1788)は天候が不安定で東北地方や関東では凶作続きであったが、天明7年は5月に江戸、大坂、堺、広島、長崎、石巻、和歌山、大和郡山、駿府など諸国で米騒動が起こり、幕府や諸藩は有効な政策を打ち出せず、天明の大飢饉の頂点にあった。
 諸国で一揆・打ち壊しが続く中、京都御所の周囲には不思議な現象が見られた。6月の初旬から御所の築地(ついじ)を取り巻き、千度参りする人々がいた。実際に千度も参る人はいないだろうから、千度の意味は何回もや熱心にと同じであろう。
 千度参りが始まった日付については、天明・寛政期の風聞などを記録した「落葉集」には6月7日頃、近衛経熙(つねひろ)など公家の日記には6月8日とある。人々の千度参りは2ヵ月ほど続くのだが、日を追うにつれて人数が増え、人々は御所の南門や唐門(からもん)に銭を投げていった。銭12文を包んだ紙には願い事や訴え事が書かれていたという。
 まさしく神仏への祈願と同様で銭は、賽銭といえよう。御所が神仏と化した現象である。祈願の内容は、「御南門を拝し奉り、五穀成就の祈念をば成し奉りたり」と、飢饉からの苦痛解放だった。
 御所千度参りの人々を目当てにした物売りが500〜600人も出ていた。御所では暑さを癒すによかろうと酸味の強い小りんごを一人ずつに配った。用意した3万個が昼過ぎにはなくなった。京都・大坂のみならず近江・河内あたりからも参っていたらしい。それほどの数の人々が御所の築地の周りを廻っては、賽銭を投げていったのである。
 朝廷は京都所司代からの千度参り差止めの申し入れを、信心からのものだからそのままにするよう答え、築地周りの溝を浚って御所内の湧き水を流し込み、炎暑の癒しに清水を提供したり、有栖川宮は人々に茶を振舞ったり、後桜町上皇は上記の小りんごを配慮したり、好意的な対応をしている。
 この頃に武家伝奏を務めていた油小路隆前(あぶらのこうじたかさき)の役向き日記には、天皇(光格)が飢饉により餓死者が多数出ている状況に対して、朝廷が施し米を配ることができないか、幕府が米を配って救済することはできないか、朝廷から幕府へそうした指示を出せないかなど、心を悩ませていることが記されている。
 そして6月14日、武家伝奏は御所に参内した所司代(戸田忠寛)に面会し、天皇の意向を受けた関白(鷹司輔平)の命令を伝達すると共に、朝廷から幕府への申し入れを書いた書付を渡す。書付は口頭で伝えたことを念のために書付にしたものだった。書付には「生民(人民の意)困窮御厭(おいと)い」の文言が入っていたといわれる。
 朝廷が幕府の政治に「申し入れ」をするなど、江戸期の朝幕関係において、まったく異例なことであった。
 8月に入ると朝廷は飢人救済について話し合いたいと、関白と所司代との会談を申し入れている。これに対して所司代は、先例はあるのかとか、救い米については近日中に申し渡すことになっているなど、会談に腰が引け避けたようだ。結局、所司代は老中と相談した上、救い米1000石の放出を決定し、この旨を8月5日に朝廷へ報告するのである。

 御所千度参りを京都の人々が最初から行なったのではなく、京都の行政を担当する京都町奉行所へ何度も救済策を訴え出たにもかかわらず、奉行所が措置を講じてくれないため、朝廷へ千度参りという形で訴えることになったのであった。つまり、ターニングポイント@では、「朝廷へ願い出ろ」といわれての行動だったが、今回は幕府が駄目なら朝廷があるさ、と自然に移行したことになる。ここが重要なポイントである。