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春日局の背後には?
 
「江戸城三刃傷」と呼ばれるものに、貞享元年(1684)の若年寄稲葉石見守正休(いわみのかみまさやす)が大老堀田筑前守正俊を殺害した事件、元禄14年(1701)に浅野内匠頭長矩(たくみのかみながなり)が吉良上野介義央(こうずけのすけ)に斬り付けた事件、そしてこれから紹介する刃傷事件として最初のものがある。
 寛永5年(1628)8月10日、老中井上主計頭正就(かずえのかみまさなり)が目付豊島刑部少輔明重(ぎょうぶしょうゆうあきしげ)に、西の丸殿中で殺害される。抱き止めた者まで殺害したというから、浅野長矩とは格段の違いである。
 刃傷に至った原因は明瞭ではないが近世史学の水江漣子氏によると、「武野燭談」
(ぶやしょくだん「江戸史料叢書」人物往来社、「窓のすさみ」(「江戸著聞集」有朋堂文庫)が春日局の遠因説を伝えているという。
 井上正就の嫡子河内守正利と大坂町奉行島田越前守直時の娘の縁談がまとまっていた。仲人は豊島明重であった。これに春日局が介入した。春日局は井上正就を召し出し、「上意」と称して鳥居土佐守忠政の娘と縁を結ぶように命じる。井上はこれを承諾し、豊島明重に島田直時の娘との破談を申し出る。
 井上は天正5年(1577)生まれでこの年52歳、春日局天正7年(1579)で井上より2歳年下である。老中格の井上を召し出し、上意であると告げるのだから頭抜けた権勢である。家光が将軍位に就くのは元和9年(1623)だが、秀忠は大御所として寛永9年(1632)まで健在で、事件の寛永5年は家光に実権はなかったはずだ。
 春日局が縁組を命じた鳥居忠政は出羽山形22万石を領有する、家康2代前の松平清康から仕える譜代の名門である。鳥居忠政は刃傷事件の翌月に病没し、嫡子忠恒が継ぐが寛永13年(1636)に継嗣を指名せぬまま病没したため断絶改易となるが(後に名跡相続3万石)、事件当時は22万石の名門譜代の国主大名だった。
 井上正就の家は父の清秀から家康に仕え、正就は天正17年(1589)に秀忠に近侍し150石を与えられ、元和元年(1615)1万石を加増され大名に列している。その後も加増され、事件当時は遠江横須賀5万2000余石を領有していた。 
 春日局に命じられた形だが、井上にとっては良縁であったわけだ。自らも大名となったのだから大坂奉行クラスの小身旗本より22万石の鳥居と縁組したほうが井上家の将来性はある。たぶん春日局は破談を申し入れねばならない井上の立場を斟酌して、「上意」と称したものであろうか。
 井上に破談を申し入れられた豊島明重は、大いに困惑しただろうが、結末から推測すると上意を盾にしたであろう井上に憤慨し、面目を潰されたと激怒したはずだ。豊島は島田に自分の不明を詫びる手紙を送ると刃傷に及び、8月14日切腹を仰せ付けられ豊島家は断絶。
 事の顛末を聞いた島田直時は、自分の娘の縁談で豊島を刃傷へと追い詰めたことを申し訳なく思ったようで、自裁してしまうのである。

 「武野燭談」の巻之五には、春日局は諸大名の婚姻には特に干渉し、諸大名の息女たちを時々大奥の広座敷まで呼び出して、それぞれの縁組を申し渡すのが常だったという話が載っているという。凄い権力を持っていたことになる。春日局とはいったいどのような人間だったのか。家光の乳母になる前の、「お福」時代の春日局を知りたいものである。

 お福は美濃の名族斎藤内蔵助利三(くらのすけとしみつ)の末娘として生まれている。母は稲葉刑部少輔通明(ぎょうぶしょうゆうみちあき)の娘でお阿牟(あん)
 父の利三は明智光秀の重臣で、豊臣秀吉との山崎の合戦に敗れ自裁。父の死後、お阿牟とお福らは縁故を頼って堺に逃れる。さらに父利三の妹が正室となって嫁いでいた、四国の覇者長宗我部宮内少輔元親(ちょうそかべくないしょうゆうもとちか)を頼って土佐へ渡る。
 土佐へ渡るにあたって便宜を計ったのは、明智光秀や長宗我部家と交流があった堺の茶人・豪商今井宗久だったといわれる。
 長宗我部家とは父利三の妹が正室となっているだけでなく、父利三の弟石谷兵部光政の娘が、長宗我部元親の嫡子信親(のぶちか)の正室として嫁いでおり、かなり親しい間柄にあった。お福は土佐の岡豊(おこう)城下で不自由なく暮らせたであろう。
 やがて長宗我部家も秀吉と戦うことになり、降伏した結果、阿波・讃岐・伊予を取り上げられ土佐一国のみとなる。さらに秀吉の出兵命令により九州へ出陣するが、豊後戸次川(べつきがわ、現・大野川)において島津軍に大敗、この時、長宗我部信親と石谷光政は戦死する。お福の親しんだ人たちが亡くなっていく。再び父利三の死を知った際の感慨が湧いてきたかもしれない。
 長宗我部家に御家騒動が起きる。戦死した信親の後継争いが泥沼化し、二人の兄を飛び越えて四男盛親(もりちか)が跡継ぎに決まるが、これを批判した者たちは誅戮されてしまう。元親が健在であったため、お阿牟とお福らの待遇は変わらなかったというが、目の当たりに御家騒動を見たお福には、後年の教訓となるものがあったはずだ。
 お福の長兄斎藤平十郎利宗は山崎の合戦に敗れた後、細川幽斎に預けられ、その後に加藤清正に仕えていた。この頃、尾張・美濃の大名衆が秀吉の正室ねね(後の高台院)の取り巻きを形成していた。お阿牟には戦国の女性としての子育ての理念のようなものがあったのかもしれない。お阿牟はお福らを連れて上方へ戻り、長宗我部家の正室一族として、大坂・伏見の長宗我部屋敷に住み、お阿牟の伯父稲葉一鉄の正室が大納言三条西実條(さねえだ)の娘であったことから、尾張・美濃の人脈のみならず公家人脈とも旧交を暖め、新しい人間関係を築いていったようだ。
 稲葉一鉄の庶子に稲葉重通がおり、この重通の婿養子に美濃十七条城主林政秀の子、稲葉八右衛門正成(まさなり)が入っていたが、重通の娘が一子を残して病没したことから、お福が重通の養女となり正成と結婚することになる。お福17歳、正成26歳であった。
 正成は当時、秀吉の甥である羽柴金吾中納言秀秋に仕える禄高2万石の重臣だった。秀吉に仕えていたが、幼少で丹波亀山10万石の大名となった秀秋に付けられていた。
 
 秀秋はその後、筑前名島(なじま)33万6000石の小早川隆景の養子となり、小早川家を継ぐ。
 お福が初めての子正勝を産んだ年に、小早川秀秋は二度目の朝鮮出兵の総大将を命じられ、夫の正成も出陣する。小早川家が朝鮮に出兵するには多額の金銭を要したであろう。領封した筑前名島には博多も封内にある。お福は堺の今井宗久・宗薫(そうくん)父子を介して博多の豪商神谷宗湛(かみやそうたん)らと交流があっただろう。正成も小早川家の家老として、封地の年貢を抵当にして出兵資金を調達したであろう。
 当然稲葉家の蓄財も行なったはずだ。当時の南蛮船の寄港地は平戸から長崎へ移っていたが、博多の神谷宗湛らは何人かの出資者と組んでリスクヘッジをし、盛んに長崎からアモイ、ヴェトナムなどに交易船を出帆させていたから、かなりの蓄えができたのではと思われる。
 ところがこの豊かな封地から小早川秀秋は、越前15万石へ移封されてしまう。朝鮮の戦役で秀秋は軍功を立てるのだが、石田三成などの讒言があったようだ。そのため封地を半減されたらしい。
 しかし秀吉が死没すると、五大老の筆頭家康によって秀秋は旧領筑前名島33万6000石に復す。関ヶ原で秀秋が転向するのは、高台院(秀吉正室ねね)や秀吉・ねね夫婦子飼いの加藤清正、福島正則らの働き掛けだけではなく、旧領に復させてくれた家康の以前からの配慮もあっただろう。 
  関ヶ原後に秀秋は備前52万石を領封し、稲葉正成も5万石となった。だが、世間から裏切り者との烙印を押された秀秋は、老臣を殺すなどして狂乱していく。秀秋を見限る家臣が相次ぎ、正成も秀秋のもとを去り美濃谷口村に隠棲してしまう。果たせぬ野心に悶々の日々を送る正成だった。お福は四男を懐妊していた。正成はやがて京・大坂に出て仕官の道を探すが、浪人の身を抜け出せぬどうにもならぬ慰めに若い女に手を出し始める。
 そしてこの頃、父利三の友人でお福も親しく交遊していた京の絵師海北友松(かいほうゆうしょう)から手紙が届く。徳川秀忠と正室お江与の方の嫡子竹千代の乳母に、お福を推薦する者がいると記してあった。
 正成に愛想尽かししたお福は、産んだばかりの正利を一度抱いただけで家を出、海北友松からの手紙を正成に送り付けたという。京へ上ると三条西の屋敷に、今井宗薫と南禅寺金地院(こんちいん)の僧以心崇伝(いしんすうでん、金地院崇伝とも称す)が待っていた。
 金地院崇伝は家康の側近で「黒衣の宰相」などと呼ばれる政僧、今井宗薫は秀吉の死後に家康に取り入り関ヶ原の軍資金や武器を調達した政商である。この二人が推薦したのであるから、お福は単なる乳母ではなく、それ以上のものを彼らから期待され、また期待されうる器量を持った女人だったのであろう。「春日局」はお福がなるべくしてなった人物像といえようか。

田沼意次の背後には?
 江戸城は大奥・中奥(なかおく)・表向(おもてむき)の三つに区分され、大奥と中奥の境は銅塀で区切られ上・下二本の御鈴廊下によってつながっているだけだった、という説明はすでにした。が、中奥のことは記してこなかった。田沼と中奥は関わりが深いので説明しておきたい。
 大奥を奥御殿、中奥と表向を合わせて表御殿と呼んだりする。大奥と中奥の境に厳重な銅塀があったから、そのように呼んだものと思うが、表御殿の中奥と表向にも境はあった。
 中奥は将軍が日常生活を送り、政務を執る場所であり、幕府の中央政庁にあたる表向に詰める諸役人が、中奥に許可なく出入りすることはできなかった。
 中奥と表向の境には、「上ノ錠口と「口奥」の二ヵ所があった。上ノ錠口は黒書院の奥の杉戸にあり、将軍が表向へ出る時と諸役人が中奥の御座之間で将軍に御目見する時以外は閉鎖されており、将軍側近役の小納戸が開閉などを管理していた。
 口奥は土圭之間(時計之間とも表記)にあり、土圭之間に詰める坊主が常駐して、表向の役人が中奥に入らないよう見張っていた。中奥の役人と表向の役人が面談する際は、中奥の役人は土圭之間の内に座り、表向の役人は土圭之間の敷居の外に座る決まりだった。
 中奥と表向は中奥と大奥の境のような塀はないが、厳然とした境界はあったのである。表向の総取締役は老中だが、中奥の総取締役は側衆であった。8代将軍吉宗からは側衆の中に御用取次を新設したので、中奥の総取締役は御用取次(正確表記は「御側御用取次」)になった。
 中奥に詰める役人は側衆の他に、将軍の身の回りの世話にあたる小姓、小納戸、侍医の奥医師、侍講の奥儒者などである。田沼意次が最初に就いたのは小姓であった。
 意次は享保4年(1719)に生まれ、享保19年(1734)に小姓となっているから16歳で江戸城にあがったことになる。本丸小姓ではなく、当時将軍世子として西の丸にいた家重の小姓だった。
 意次の父意行(もとゆき)は吉宗が将軍となって江戸城に入った際に紀州藩から随行して幕臣となり、禄高600石で小姓から小納戸頭取となり享保19年(1734)に死没している。
 意次が中奥の総取締役である御用取次に就くのは、宝暦元年(1751)33歳の時である。禄高は父の遺領を継いだ600石に1400石が加増され2000石になっていた。

 御用取次の職務内容を説明しよう。主務は老中以下の諸役人から上がってくる未決・機密の案件を将軍へ取り次ぐこと、将軍の政事・人事の相談役、将軍の情報源である目安箱の取扱いと御庭番の統轄などで、殊に平の側衆が既決事項を上申するのに対して御用取次は未決の案件を上申するところがポイントで、将軍が若かったり病弱だったり暗愚だったら御用取次の政事・人事への影響力は絶大なものとなってしまう。よって野心・野望の持主が御用取次に就くと、表向の総取締役である老中もその権勢に恐れることになる。
 意次は御用取次を16年間の長きに渡って務め、明和4年(1767)49歳で側用人となる。側用人は御用取次より格上で常置の役職ではない。表向でいえば大老にあたるであろう。
 側用人は旗本が務める役ではなく、大名が務める役である。意次の禄高は相良城主2万石となった。さらに明和6年(1769)老中格、安永元年(1772)老中、老中でも「昵懇(じっこん)の職兼る事、故(もと)の如し」の命があり、中奥の総取締を兼帯した老中であったから、権勢並ぶ者なしとなった。


 9代家重が長男の家治に将軍位を譲るのは宝暦10年(1760)、10代将軍となった家治は24歳だった。意次が御用取次に就いて9年目であるから、家重・家治の2代に渡って意次は重んじられたわけだ。家重は言っていることが側用人大岡忠光にしか理解できなかった暗愚将軍(将棋が強く本当は頭が良かったとの説もある)だったとされる。家重が将軍位を譲ったのは、唯一家重の言語を理解する大岡忠光が死没したからだといわれている。息子の家治は父と異なり聡明で祖父吉宗に可愛がられたそうだが、政事に興味がなかったのか意次が興味をなくさせたのか分明ではないが、絵画を好んだとされている。
 家治の子女は4人あったが成長するのはお知保(ちほ)が宝暦12年(1762)に産んだ家基のみ。家治の正室は閑院宮直仁親王(かんいんのみやなおひとしんのう)の娘倫子(ともこ)で、家治との仲は良かった。従って家治に側室はいなかったのだが、倫子の産んだ子に女子が二人続いたことから、年寄松島が側室を置くように進言する。選ばれたのが松島の部屋で仕込まれて、家重の代に御次として奉公していたお知保だった。
 お知保は御家人津田宇右衛門(うえもん)の娘とされているが定かではない。このお知保に狙いを付けたのが意次だった。意次の側妾がお知保の知人だったそうだ。これは怪しい。お知保の知人の女を探し出して側妾にしたか、側妾の知人の女を年寄松島に預けて仕込ませたのか、このいずれかであろう。
 お知保の給与は20人扶持・強合力金150両だったのが、明和3年(1766)に50人扶持・合力金500両となり、安永2年(1773)に合力金1000両、同4年(1775)には2000両となる。
 お知保の弟とされる津田信之を明和2年(1765)に小姓から新番頭に出世させ、蔵米300俵から1000石の知行主にした。明和6年(1769)には側衆に引き上げ2000石、安永6(1777)年に5000石、天明6年(1786)に6000石としている。
 大奥の予算も要求されるままの額を給付し、意次の大奥での人気は絶大だった。家治の正室倫子は明和8年(1771)に薨去しているから、大奥の権勢はお知保に集中したろうから、お知保と以下の表(深井雅海著「江戸城をよむ」より 原書房)の大奥年寄たちに気配りしておけば万全だった。
 
 ■10代将軍家治時代の大奥年寄

年寄の序列→
↓年号月

1 

2 

 3

4 

5 

6 

7 

8 

明和5年 松島  高岳  浦尾 岩瀬  滝川  むめ田  清橋   
    7年 松島  高岳  滝川  むめ田  清橋  うら田     
   9年 松島  高岳  花園  飛鳥井  滝川  清橋  うら田   
安永3年2月 高丘  花園  飛鳥井  滝川  清橋  花島     
   5年  高岳  花園  飛鳥井  滝川  花島  野村     
   6年  高岳  花園  飛鳥井  滝川  花島  野村     
   8年  高岳  花園  飛鳥井  滝川  花島  野村     
天明2年  高岳  花園  飛鳥井  滝川  野村  砂野     
   3年  高岳  花園  飛鳥井  滝川  野村  砂野     
   4年12月 高岳  花園  常盤井  滝川  野村  砂野     
       5年 高岳  花園  常盤井  万里小路  滝川  野村  砂野   
       6年閏10月  高岳  常盤井 万里小路  滝川  野村  梅野井  大崎  高橋 

 話は前後するが、意次の父親と同様に吉宗が将軍となった際に紀州から随行して幕臣となり、共に小姓となった者に岩本正房がいる。正房の息子に正時と正利がおり、正時と意次は同じ日に家重の小姓となっている。
 正時の弟正利にお富(登美とも表記)という娘がいた。お富は意次の紹介で明和元年(1764)に大奥へあがることになる。すんなり大奥へあがったわけは、お富の母、正利の妻が大奥の年寄梅田の養女だったことが影響していよう。
 お富は美人ではなく青黒く太った女だったと伝えられるが、明和8年(1771)いかなる機縁があったか、
一橋家の徳川治済(はるさだ、以下一橋治済と略す)の目に留まる。一橋治済という男は冷酷な策士の一面を持つから、女の好みも変わっていたようだ。治済は将軍家治にお富を是非とも側室に迎えたいと懇願した。
 一橋治済の正室は桂宮公仁親王(かつらのみやきみひとしんのう)の娘在子(ありこ)だが、明和4年(1767)に没していた。お富を治済の側室にするには大奥と一橋家奥御殿、中奥と治済側近衆の合意を必要とする。適任なのは意次であった。大奥に人気があり、意次の妻の父伊丹直賢(いたみなおかた)は一橋家の家老であったし、当時意次の弟意誠(おきのぶ)、意致(おきむね)も一橋家の家老となっている。
 お富は安永元年(1772)に一橋家奥御殿に迎えられ、中臈となって翌安永2年10月に、後の11代将軍家斉となる豊千代を産む。

 なぜ一橋家に生まれた豊千代が将軍になれたのだろう。10代将軍家治には家基という世子がいた。明和6年(1769)8歳で将軍世子となり西の丸に入るが、安永8年(1779)2月21日、新井宿への鷹狩の帰途、品川東海寺で休息する。この際に腹痛を訴える。急遽江戸城へ戻るも2日後に急逝。18歳だった。身体は壮健で頭脳も明晰だったようで、末頼もしい頑健英邁(がんけんえいまい)な世子だった。
 家基の急逝を食中毒死とする人がいるが、季節は2月である。昆虫のハンミョウの毒を盛られたという説がある。分明ではないが、いずれにしても自然死とは思われない。
 工作したのは誰か、となるが、推測すると9代将軍家重の血筋を嫌悪する者、一橋家の徳川治済であったろう。
 御三卿の田安家・一橋家・清水家はそれぞれ支配領地なしの10万石を給付されているが、家として成立した時期が異なる。最も遅いのが9代家重の次男重好(しげよし)が家祖となる清水家。宝暦3年(1753)に別家となり、後のことになるが、寛政7年(1795)に家祖重好が没すると、
2代目は11代将軍家斉の子が継いでいる。
 田安家と一橋家は8代将軍吉宗の次男と四男が家祖となっている。田安家の家祖宗武の子は長男から四男まで早世して、五男治察(はるあき)が父宗武の没した明和8年(1771)に家督相続して2代目を継いでいる。治察の下に六男定国と七男定信がいたが、定国は明和5年(1768)に伊予松山藩松平家へ婿養子、定信は安永3年(1774)3月に陸奥白河藩松平家へ婿養子に出ている。定国の養父定静(さだきよ)は安永8年(1779)に没、定信の養父定邦は寛政2年(1790)に没しており、急ぐ養子縁組ではなかった。
 田安家を継いだ2代目の治察は、弟の定信が婿養子として陸奥白河松平家に入った同じ年安永3年8月に22歳で没する。治察に子女はなく、弟たちは養子へ出され、姉妹たちは大名家へ嫁ぎ、末妹は将軍家治の養女となっていたため、田安家は当主不在の明屋敷となったのである。
 一橋家は家祖宗(むねただ)が明和元年(1764)に没すると、三男の治済が家督相続して2代目となる。しかし、長男重昌と次男重富は養子へ出されている。次男重富と三男治済は側室の子であるが、長男重昌は正室一条兼香の娘顕子が産んでいる。長男重昌は延享4年(1747)に越前福井藩松平家へ養子に出ている。養父宗矩(むねのり)は寛延2年(1749)に没しているが、一橋家の嫡男が養子に出る必要があったか疑問だ。次男重富は養子に入った兄重昌が宝暦8年(1758)に没したことから越前福井松平家に養子に入っている。
 長男重昌が養子として一橋家を出た延享4年(1747)、長男重昌は5歳、次男重富は2歳で、三男治済は産まれてもいない。この有り様は一橋家が家として幕府から重んじられていない証しではないか。田安も同様であり、将軍家の血筋が絶えた際は、家重の血統である清水家を継承第一位にする意図が幕府にあると、一橋治済が考えたとしても不思議ではない。
 田安家・一橋家の養子縁組を裁許したのは、老中衆には憚(はばか)りがあったろうから、未決案件として御用取次に渡したであろうから、一橋家の長男重昌の件は大御所吉宗が、次男重富の件は将軍家重と側用人大岡忠光と御用取次田沼意次の合議、田安家のものは側用人田沼意次が将軍家治に裁許を進めたものだろう。「楽翁公伝(らくおうこうでん
渋沢栄一著 岩波書店)
は、定信の才能を恐れた田沼意次が将軍職に就きかねない田安家から切り離すために養子へ出した、と述べているが将軍云々を除けばその可能性はあるが、将軍家治の世子家基が謀殺されるのは安永8年、定信が養子に出されるのは安永3年だから、将軍云々は関係ないと思う。

 家基が謀殺された安永8年(1779)、将軍家治は43歳だった。子づくりを諦める年齢ではないが、家基を失った落胆からか、元々淡白な質の将軍家治は、天明元年(1781)閏5月、一橋治済の長男豊千代を世子として西の丸に迎えるのである。家治に豊千代を薦めたのは田沼意次であり、意次は一橋治済に大きな貸しをつくったと確信したはずだ。
 しかし、治済は意次を成り上がり者と見下していたから、貸し借りレベルではなく、贈物としか捉えていなかったであろう。 
 一橋治済が、田沼意次失脚への暗躍をいつ頃から始めたかは判然としない。おそらく意次の長男で若年寄に就いた意知(おきとも)が江戸城で新番組の佐野政言(まさこと)に刺され、この傷がもとで死没する天明4年(1784)4月から、松平定信が溜之間詰(幕府政治顧問の詰所)となる天明5年(1785)12月の間だと思う。意知の死を田沼家衰退の予兆と見て取った治済は、一橋家同様軽んじられた田安家出身の定信と手を組み、定信が溜之間詰となるよう意次へ薦めたものであろう。
 意次が老中を解任(形は病気を理由にしての依願退職)されるのは、天明6年(1786)8月27日。意次の禄高は5万7000石となっていたが、同年閏10月に2万石を減封され、江戸城への出仕止めの処分を受ける。
 なぜ、こうした処分となったか。意次の与党は江戸城に健在であった。意次の与党は、大奥に筆頭年寄高丘・年寄滝川、中奥に筆頭御用取次横田準松(のりとし)・御用取次本郷泰行(やすあき)・同田沼意致、表向の幕閣に大老井伊直幸・老中首座松平康福(やすよし)・老中水野忠友・同牧野貞長、若年寄井伊直朗がいた。なお、幕閣の与党として挙げた者たちは意次と親戚関係にあり、横田の前任の筆頭御用取次稲葉正明(まさあきら)は意次と同月同日に解任されている
 意次が解任される2日前の8月25日に将軍家治が薨去している。ただし、薨去した日は8月25日ではなく、8月20日とする説もあり明確でない。また死因も明確ではない。家治は天明6年の春頃から病がちになったといわれる。一説によるとこうである。8月に家治の病状が悪化し、意次の家に出入りしている町医者若林敬順に投薬させたら、家治が三度吐き出した。病状は一層悪化したため、意次の反対を押し切った重臣たちは他の医師に診せた。若林敬順が調合した薬は十棗湯(じゅっかんとう)というもので、軽い病状には効くが重体の患者には効かないものだった。早い話が、意次のせいで家治は手遅れとなり死んでしまったというわけだ。
 将軍家治を殺すことは、意次が自分の首を絞めることと同様であり、バカげた説である。一橋治済が、家治が重体(重体にした)となった際に、息子の次期将軍家斉を楯に家治の寝所(この頃は中奥の御休息之間の上段18畳であろうか、天保期には御小座敷、と時代によって異なる)から人払いし、自分の与党に引き込んだ御三家(尾張宗睦・紀伊治貞・水戸治保)の連中と看病のふりをし、幕閣に家治の死を知らせず、いきなりある日幕閣の連中を呼び付け、家治の薨去を告げる。驚嘆する幕閣にすかさず意次が差し向けた医者の不手際を告げ、意次の解任を迫る。この場面に一橋治済の他に家斉と御三家の面々がいれば、意次の与党の幕閣といえども従わざるを得なかったであろう。

 家治の薨去により家斉が将軍位に就く天明6年、家斉は14歳、その父一橋治済は36歳、松平定信は29歳、田沼意次は68歳。年齢を並べると意次の高齢が目立つ。しかし、意次は江戸城に残る田沼与党を踏ん張らせるのである。
 天明6年閏10月6日付で一橋治済が御三家の当主たちへ送った書状に、老中として相応しい人物として、松平定信、酒井忠貫(ただつら)、戸田氏教(うじのり)の三人を挙げ、特に松平定信についてはその人となりをよく知悉していると推薦し、これを受けた御三家当主たちも、定信については十分には承知していないが、優れた人物と聞いていると答え、治済の意見に賛同した。そして、治済と御三家は12月15日に幕閣に対して、松平定信を老中に推薦することを申し入れる。
 だが、彼らの申し入れはすんなりとは通らなかった。
 同じ年、つまり意次が解任され江戸城出仕を禁じられ、治済と御三家が定信を推薦した同じ天明6年、この年の12月、田沼意次は雁之間詰として江戸城への出仕が許されるのである。翌天明7年の正月の年賀では、将軍家斉に拝謁した席次は老中に準じていた。
 将軍の実父にして御三卿の治済と御三家の意見が通らず、意次が復活してくるのである。どうした?そう思った治済と御三家は大奥の年寄大崎を天明7年2月1日に尾張江戸藩邸へ呼ぶ。
 年寄大崎は次のように内情を語った。

将軍家斉は、御三家の申し出であることに配慮して定信を登用したい意向であったが、老中水野忠友が反対したこと、また、大崎と同じ大奥年寄の高丘と滝川が将軍から意見を求められ、9代将軍家重の代に、将軍の縁者を幕政に参与させてはならないという上意があり、その点で定信は、将軍家斉とは同族であり、そのうえ定信の実妹種姫(たねひめ)が10代将軍家治の養女となっていて、家斉とは姉弟の関係にある[将軍の縁者]であるので、定信の老中登用は家重の上意に反することになると答えた(藤田覚著「松平定信」中公新書)

 これに対して治済と御三家は相談し、家重の上意である「将軍の縁者」は母方の親類の外戚を指すのであり、松平定信はそれにあたらないとの書状を年寄大崎に渡す。上の年寄の表では大崎は七番目の年寄であるにもかかわらず、筆頭高丘と四番目の年寄滝川とは反対の立場を明確にとっていることが判る。天明6年に突然名前が登場してくることから、一橋家の奥御殿に勤めていたのが、家斉の将軍世子により西の丸に随行し、家斉が将軍位を継いだので本丸大奥の年寄として名前を連ねたものと思われる。
 治済と御三家が「将軍の縁者」は外戚を指すとしたにもかかわらず、それを公式の理由として幕閣は、2月26日に正式に定信の老中登用を拒否するのである。
 治済と意次の政争は膠着状態となった。
 その間にも大奥の大崎と高橋は、治済に頼まれて色々と活動している。彼女たちの活動を通して意次与党の中心人物が、筆頭御用取次の横田準松であることを知った治済は、天明7年5月某日に一橋邸に大崎を呼んで、横田準松への対応策を訊ねた。これに大崎は、

此度ハ甚六ヶ敷、私手際ニは参かね候(この度ははなはだ難しく、私の手際には参りかね候 「岩波講座日本歴史12 近世4」)
 
 と答えている。ここから、大奥の年寄は隠密同然の工作をする場合がある、ということが判る。
 治済らが思案に暮れていた同じ5月、意次与党が一挙に解任されてしまうのである。原因は5月18日から26日にわたって起きた、将軍お膝元の江戸における大打ち壊しだった。一橋治済はこの事件を小人目付12人(一橋家の家臣)を使って調べている。それより素早く御庭番を使って調べたのが、御用取次の中で唯一田沼意次に与(くみ)しない小笠原信喜(のぶよし)だった。横田・本郷・田沼意致の三人の御用取次は、将軍家斉に江戸打ち壊しの事実を正確に伝えなかった。ここを衝かれた。5月24日に本郷、28日に意致、29日に横田が解任されたのである。

 前代未聞の江戸の大打ち壊しは、25日までに江戸の町の米屋を中心に約1000軒の商家が襲われた。田沼意次が権力を握った明和・安永・天明期は低温が基調で不作の年が多かった。天明3年は浅間山の大噴火から関東・東北が大飢饉となり、天明6年は全国的な大凶作から商人の買占め・売り惜しみが起き、天明7年に困窮した江戸の店借り暮らしの町民が、町名主・町年寄らを動かし、彼らを通して5月18日に月番の北町奉行曲淵景漸(まがりぶちかげつぐ)へ救済訴願する。だが、曲淵は、「町人というものは米を食事に用いる者にあらず、何にても用ゆべき」と、かえって叱り付け却下した。これでは町民の憤懣が爆発するのは当然である。
 6月19日、松平定信が老中に就任した。

その他
 
「大奥法度」というものがある。江戸考証家の稲垣史生氏によると、元和4年(1618)に秀忠が出した後、寛文10年(1670)に細部にわたるものがあるが、それは文中に年寄の名が出ており、4代将軍家綱の大奥のみを対象にしたものだという。
 江戸幕府終末まで大奥を規制した大奥法度は、8代吉宗が設けたもので、享保6年(1721)4月に発布された。以下は稲垣史生氏が現代語に直したものを、さらに砕けた文にしたものである(稲垣史生著「武家の夫人たち」収録 新人物往来社)


  
 
 1、文通は祖父母・父母・兄弟姉妹・伯(叔)父伯(叔)母・甥姪・子と孫に限るこ
   と。この他に文通する時は御年寄に申し出ること。宿下がり(実家への帰休)
   の際の面談は前記の近親のみに限り、面談した相手の帳面に記し、後に御
   年寄の吟味をうけること。

 2、御目見以下の女中は親子・縁者を長局へ呼び寄せてはならない。近い親類
   で部屋子にしたい者があれば、その旨を御年寄に願い出、御留守居の指図
   に従うこと。

 3、宿下がりのない女中(御目見以上)は祖母・母・娘・姉妹・伯(叔)母・姪、男
   子は9歳までの子・兄弟・甥・孫に限り大奥へ呼び寄せても構わない。泊める
   理由があれば御年寄に願い出、御留守居に届け出た上、二晩限り泊めるこ
   とができる。

 4、長局に使いの女を泊めてはならない。泊める必要があれば御年寄に届け
   出、御留守居の指図に従うこと。

 5、衣服・諸道具・音物(いんもつ、贈物)・振舞事は身分相応にすること。

 6、部屋で振舞事や寄合をしても、夜更かしは絶対にしてはならない。

 7、御紋(三ツ葉葵)付きの道具類は一切私用に貸し出してはならない。

 8、長局に出入りするゴゼ(按摩)は二人に定めおくこと。

 9、御下男(御広敷の小者)を私用に使ってはならない。急なことがあれば御年
   寄から御広敷番頭へ断わった上で使うこと。

10、召使の内、不審な者は早々に辞めさせること。御城内を大切に思い、少しの
   油断もあってはならない。


 
 右の箇条を堅く守り、誓詞前書の趣、相違なきよう心がくべきこと。そのため左にしるしおく。

 誓詞

1、御奉公のこと、実義を第一とし少しも後ろ暗いことをしてはならない。すべて御
  法度の趣、堅く守るべきこと。
1、御為(主家)に対し悪心をもって申し合わせ致すまじきこと。
1、奥方(大奥)のことは何事によらず外様(親兄弟も含む)へ申すまじきこと。
1、女中方(大奥関係)の他、表向き(政治的)な願い事は一切すまじきこと。
 附、御威光をかり、私の驕(おご)り致すまじきこと。
1、諸傍輩中(同僚)の陰口を申し、或は人の仲をさくようなことすまじきこと。
1、好色がましきことは申すに及ばず、宿下がりの時も物見遊所へまいるまじきこ
  と。
1、面々の心および候ほどは、日頃の言動に気を配り申すべきこと。
 附、部屋の火元、念入りに申し付くべきこと。

                                         著名捺印

 大奥法度にある宿下がりについて付け加えると、表使以下の御目見以上は及び以下の者は、奉公勤めしてから三年目ごとの春に宿下がりが許され、一回目は六日間、二回目は12日間、三回目以降は16日間となっている。
 御台所には外出の機会はほとんどなく、表使以上の御目見以上の者も、代参に出るかその供に加わるかしない限り、大奥の外へ出ることはできなかった。ただし、親の病気など重大な時に限り、最小限の外出が許された。お手付き中臈の場合は、いつ将軍からのお召しが掛かるか知れないので、親の病気でさえ外出は認められなかった。
 奥女中に部屋子として使われている者は、毎年春秋二季に宿下がりがあった。宿下がりした彼女たちは一人前の奥女中を気取ることが多々あり、彼女たちの話をまともに聞いて版行した作者もいたようだ。

 大奥の逸話には眉唾っぽい話が多い。
 いくつか例を挙げてみよう。
 「七ツ口の貫目吟味」→年寄絵島が役者生島新五郎を長持に詰めて七ツ口から運び込んだため、事件後に大天秤を置き、長持は重さを計ってから搬入した。本当に新五郎を長持に詰めたか疑問。
 「御添寝役制度」→将軍が正室以外の中臈と同衾する際は添寝役のお手付き中臈と御伽坊主を各一人付け、翌朝年寄に報告させるが、これは将軍綱吉が柳沢吉保の側室染子を大奥にあげて同衾した際、染子が寝物語に100万石をねだり、綱吉が頷き一札を書いたため制定されたとする。綱吉は好色に描かれることが多いが、それにしては産ませた子女が二人と少ない。
 綱吉には他に側用人牧野成貞の妻阿久里(あぐり)を大奥にあげて側室にしたという話がある。阿久里は牧野との間に三人の女児を産んでおり、しかも館林時代に牧野と阿久里を結婚させたのは、他ならぬ綱吉である。側室にしたければ、結婚前の若い阿久里に手を付け側室にしたであろう。
 話が女だけの大奥となると、情報が漏れてこない分オーバーに伝わる傾向がある、といえようか。ただし、幕末の大奥に関しては、「千代田城大奥」「旧事諮問録」「海舟余波」などの体験者・目撃者の談話があり、そうしたことはないと思われる。また、大奥全般の時代に関しては三田村鳶魚翁の「御殿女中」が資料としてよく活用されているようだ。

 最後にちょっといい話を勝海舟が伝えているので、それを記しておきたい(引用資料「海舟余波」)
天璋院と、和宮とは、初めは仲が悪くてネ。ナニ、お附のせいだよ。初め、和宮が入(い)らした時に、御土産の包み紙に、[天璋院へ]とあったそうナ。いくら上様でも、徳川氏に入らしては、姑だ。書(かき)ずての法は無いといって、お附が不平を言ったそうな。それで、アッチですれば、コッチでもするというように、競って、それはひどかったよ」
 そんな二人だったが、最後の将軍慶喜の時代となり、鳥羽伏見の戦いに敗れ、慶喜が上野寛永寺大慈院に謹慎。慶喜の正室美賀は一橋邸に留まったことから、江戸城の主は天皇家の娘和宮と官軍島津家の娘天璋院の二人となる。この二人がいては江戸城は攻撃できない。
 二人は徳川家の存続を心から訴える手紙を、天璋院は「薩州隊長人々」宛てに、和宮は京都朝廷へ送るのである。
 徳川家が存続し、江戸城が無血開城されたのも、蔭に彼女たちの力があったからともいえよう。
 明治になると、
「私の家に御一処にいらした時、配膳が出てから、両方でお上りならん。大変だと言って、女が来て困るから、[どうした]と言うと、両方でお給仕をしようとして睨みあいだというのサ。(中略)お櫃(ひつ)を二つ出させて、一つ宛、側に置いて、[サ、天璋院さまのは、和宮さまがなさいまし、和宮さまのは、天璋院さまがなさいまし、これで喧嘩はありますまい]と言って笑ったらネ、[安芳(あわ、海舟のこと)は利口ものです]と言って、大笑いになったよ。それから、帰りには、一つ馬車で帰られたが、その後は、大変な仲よしサ」