大奥の制度と力                                    江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

 

 前ページからの職制説明の続きで書き始めたが、内容は江戸期最大のスキャンダル絵島事件」の謎を解く、というものになった。御年寄の説明しかしていないので、職制の説明は次ページへ回すことにした。

御年寄(おとしより)
老女とか局(つぼね)とも呼ばれる大奥第一の権力者。御用掛、年番、月番などの役分担があり、御用掛は外出する際は10万石の格式であり、表御殿の重役である御側御用取次(8代将軍吉宗の時に新設)とよく内談したそうである。月番は朝四ツ(午前10時頃)に詰所の千鳥之間へ出勤して、煙草盆を前にして座り、表使や右筆など諸役を呼び付け差配し、昼七ツ(午後4時頃)に退出したという。中年寄ないしは御客応答(おきゃくあしらい)から御年寄の役に就くが、名称に似ず20代前半で就く者もあったらしい。
 御三家・御三公卿の御簾中(ごれんじゅう、将軍世子・御三家・御三卿の夫人に限った呼称、御台所は将軍夫人のみの呼称)が訪れても軽く頭を下げる程度だったというから大したものだ。この御年寄、大奥一切を差配することから、商人からの賄賂攻勢・誘惑や表御殿の政争に巻き込まれることもあった。例えば、7代将軍家継時世の年寄(大年寄との説もある)絵島。
 
 事件となるのは正徳4年(1714)2月2日、絵島と年寄宮路の二人に、東叡山寛永寺にて謹慎の旨が突然申し渡される。理由は20日前の将軍生母月光院の代参の折、七ツ口の門限に遅れたことであった。代参とは月光院付きの二人が、主人月光院の代理として前代までの将軍が埋葬されている寛永寺と芝増上寺へ参詣することで、これは正室や側室がが参詣すると、供物や行列が大掛かりとなり費用がかかるからである。七ツ口であるが、これを説明するには大奥の建物構造を紹介する必要がある。
 大奥は三つの区画に分けられる。御殿向、長局(ながつぼね)向、広敷(ひろしき)向の三区画である。御殿向には将軍の大奥での寝所や御台所、将軍生母、その子女(10歳くらいまでは大奥で養育)の居室、奥女中の詰所などがある。長局向は側室以下の奥女中が暮らす住居があり、広敷向は大奥の事務や警備を担当している男の広敷役人の詰所がある。
 
 将軍が暮らす表御殿の中奥と大奥は銅塀で区切られ、上下二本の御鈴廊下(吉宗の時代までは1本の御鈴廊下だったらしい)でつながっている。境に錠口があり、錠口を管理していたのは中奥側が小納戸役の中から担当する奥之番、大奥側は錠口という役の女中だった。常に閉まっていたため老中ないしは御側衆が大奥の年寄と面談したい時は
女中の錠口に掛け合い、大奥年寄が彼らと面談したい時は奥之番に掛け合って錠口の杉戸を開けてもらった。将軍の出入りの際も女中の錠口が杉戸をいちいち開けたというから厳重なものだった。
 御殿向の後ろに接してあったのが長局向で、御殿向と長局向に接し、大奥の玄関廻りにあったのが広敷向である。御殿向で暮らす者が外出するには広敷向の玄関を通り、広敷御門から出る、この一つだけだった。長局向に暮らす者が外出するには、広敷向の下広敷と七ツ口の二つがあった。広敷向の玄関を通れるのは御台所、御部屋、広敷役人、用事があって大奥へやって来る表の役人などで、奥女中は通れなかったのである。七ツ口は主に奥女中の使用人の部屋方が出入りしていた。
 七ツ口は長局向の御半下部屋と広敷向の境にあり、外から広敷御門を入ると広敷玄関が正面右寄りに見えるが、この玄関とほぼ90度右奥へ歩いていくと七ツ口がある。朝五ツ(午前8時頃)に開き昼七ツ(午後4時)に閉まった。近くには広敷伊賀者などの詰所がある。
 奥女中が出入りする下広敷は、広敷御門を入ると七ツ口とは逆の左方向へ歩いて行くと下広敷御門があり、これを入ると下広敷がある。ここから広敷向の廊下を広敷向と御殿向の境へ向かうと境には御錠口があり
この御錠口は太鼓の合図によって、明け六ツ(午前6時頃)に開き、暮れ六ツ(午後6時頃)に閉まる。御錠口の隣には広敷伊賀者勤番所などがあった。
 また、年寄が御台所や生母の名代で寛永寺・増上寺へ代参する時は、長局の自分の部屋に吊るしてある駕籠を下ろして乗り、御錠口を通り下広敷から出掛けたというから、絵島もそうしたと考えられる。
 
 絵島の謹慎の理由は、七ツ口の門限に遅れたことだった。絵島らは御錠口は暮れ六ツ寸前に通っている。七ツ口は絵島らの使用人の女中が出入りするところである。本人らに過失はないが、その使用人に過失があり、管理を怠ったために謹慎という形である。御錠口と七ツ口の番人は伊賀者であり、奥女中は日頃から彼らに付届けなどをして、大目に見てもらっていたようである。この時も御目こぼしされて何事もなかった。20日後に謹慎なのである。事を問題視し荒立てようとする者がいたことは疑いないだろう。
 翌3月五日、次のような判決が絵島に下される。

「絵島事、段々の御取り立て候て、重き御奉公をも相勤め、多くの女中以上に立ち置かれ候身にて、その行正しからず、御使に出候折々、又は宿下りの度々、貴賎を選ばず、よからぬ者どもに相近づき、さしてゆかりなき家々に泊り明し、中にも狂言座の者どもと年頃(ねんごろ)馴れしたしみ、その身のおこなひ、かくの如くなるのみに非ず、傍輩の女中をすすめ、道引(みちびき)あそびあるき候事ども、その罪重々に候へども、御慈悲を以て、命をお助けおかれ永く遠流に行はれ候者なり」

 年寄という重き身分にありながら、普段の行いがよろしくないから流罪にするというのである。狂言座とは木挽(こびき)町6丁目にあった山村長大夫座のことで、絵島らが代参の帰りに二階の正面桟敷に席を占めて観劇し、芝居の幕間に美男で評判の生島新五郎玉沢林弥などの人気役者が挨拶に来て酒の酌をしたという。奥女中たちにとっては最高の時間だったであろう。が、こうしたことは従来から普通に行なわれ、大目に見られてきたことである。死罪のところ御慈悲で流罪、などという大それた罪にはあたらない。
 絵島事件に連座して罪を得た者の数は1500人余り、流罪は絵島の他に生島新五郎、座元の山村長大夫、これで山村座は断絶、絵島に取り入った浅草の薪炭商人栂(つが)屋喜六、呉服商後藤縫殿介の手代満助、これら商人と絵島の間を仲介した奥医師奥山交竹院玄長(きょうちくいんはるなが)、彼は将軍家継の病気を治したことがあったという。死罪となったのは絵島の兄とされ、交竹院の遊興仲間とされる御家人白井平右衛門、絵島に遊興をすすめ交竹院の弟とされる水戸藩御徒頭奥山喜内。奥女中で流罪・追放刑となった者は68人いたという。

 商人が年寄に取り入るのは当然のことであろう。大奥の年間経費は約20万両であった。将軍家茂の御台所に和宮が降嫁して以降、4万両〜5万両超過することがあったというが、簡単に計算できるように20万石とし、さらに米1石の価格を江戸中期の元禄頃の1両として、将軍家全体の経費に占める比率を出してみたい。
 徳川将軍家の石高は時代により差はあるが約700万石あったといわれる。この内から旗本領を除くと約400万石。年貢徴収率を四公六民とすると約160万石が将軍家に入る。1石=1両の換算だから、約160両が年間予算として使える金額となる。20万両は全体の12.5パーセントを占める。
 これは凄い冗費だ、と思ったまともな役人は多かったらしいが、大奥の経費削減は不可能だったようだ。ただ、幕末の慶応2年(1866)、大奥も節約する気になった。が、その節約は3万両であった。なのに前代未聞の大改革といわれた。以下の5点が主な節減だった。

1、御台所の衣装は洗張(あらいばり)して見苦しくなければ再度着用
2、上臈以下の奥女中は俸給を若干減俸する
3、長局や詰所で湿気払いと称して朝夕杉の葉を焚いていた。この経費1日30両、これ
  を廃止
4、詰所、廊下などの金網行燈の張替えとして、1日に延紙50帖、障子繕いとして美濃
  紙1日50帖を使用していたのを月1度に改める(美濃紙1帖は48枚)
5、1年に盆暮の2回畳の表替えをしていたのを暮1回にする

 話にならない節減である。幕末でさえ緊張感を大幅に欠いた大奥である。絵島の時代は砂糖にたかる蟻のごとく商人が取り入ったであろう。御用達となって利権を得るためだから、年寄が外出するや待ってましたとばかりに接待攻勢をかけてくる。芝居は奥女中接待には最適だったろう。美男の多い芝居を観劇させた後、お気に入りの役者を併設の芝居茶屋に招いて、後は奥女中の好き勝手にやれるように手配するなど、豪商たちには雑作もないことだったろう。
 
 謎解きというか犯人探しに移ろう。ただし、私見であることをお断わりしておく。(しかし、職制の説明から逸れていくけど、ここまで書いてくると仕方ないよね。なんか長くなりそうな嫌な予感がする)。
 
 徳川将軍の側室の経歴を伝える書物のなかで、江戸研究家の三田村鳶魚翁が最も正確と評したのが、「幕府祚胤伝」(ばくふそいんでん)である。その幕府祚胤伝で絵島が仕えた家継の生母月光院(お喜世、あるいは左京)の項をみると、「正徳三年癸巳十一月三日、従三位に叙せらる。のち吹上御殿に御住居。宝暦二年壬申九月十九日、同所において逝去」とある。
 家宣の御台所熙子(てるこ)の項では、「正徳三年癸巳四月二日一位様と称す(三月三日宣下従一位)。享保二年丁酉十二月十五日西の丸へ御移り。同十六年辛亥九月廿七日二の丸へ御入り。元文六年辛酉二月廿八日同所に於いて御薨去」と詳しい。なお、熙子の法号は天英院。
 もう一人見てみよう。家宣の側室お古牟(こむ)は、「正徳二年薨御に依り十月廿日、落飾して法心院殿と号し、馬場先御用屋敷に住居す。其の後浜御殿の内に住棲す。明和三年丙戌六月二日、同所に於いて死す」と、この箇所に関しては月光院より若干長い。
 お古牟の法心院は家千代という男子を産んだが2ヵ月ほどで早世している。家宣は正徳2年(1712)10月に薨去したから、子のいない側室は本丸大奥から去り、御用屋敷に移るのが原則であった。よって法心院は馬場先御門内にあった俗に比丘尼屋敷と称した所に移り、そこが後の吉宗薨去後にその側室が移動してきたためトコロテン式に、浜御殿(後の浜離宮)へ移った。比丘尼屋敷としては桜田御用屋敷のほうが有名ではある。
 御台所の天英院は存命中に従一位を叙位されている。家継は形としては子にあたるが、実子ではないのに従一位をもらっているところが凄い。それも家継が将軍位に就く2ヵ月ほど前の叙位である。存命中に従一位に叙位された正室は天英院だけだと思う。他の正室は和宮も含め亡くなってから従一位を贈られるのが普通である。天英院の権勢大であったことを物語っている。
 天英院が本丸大奥から移るのは西の丸で、享保2年(1717)12月である。8代将軍として吉宗が江戸城へ入ってくるのは家継が亡くなったとされる正徳6年(1716、この年の6月22日から享保元年)4月晦日である。吉宗が入ったのは二の丸である。吉宗が将軍に就くのは同年五月朔日、本丸へ移るのが同年5月22日。吉宗の正室はすでに死没しているとはいえ、天英院の腰の重さはどうしたことだろう。1年半後に西の丸へ引越すのである。
 吉宗が本丸へ移った後の二の丸には吉宗の長男の長福(後の9代将軍家重)が享保元年8月に入り、さらに享保3年5月に吉宗の生母浄円院(お由利)が二の丸に入っている。天英院が西の丸から二の丸へ享保16年に移動するのは将軍世子となった家重の正室として伏見宮の娘比宮(なみみや)が京都から下向してきたからである。通常だと西の丸は将軍世子か、将軍譲位後の大御所が居住するのが原則だから、これで異常が普通に戻ったことになる。

 問題の月光院である。
 叙位の年は天英院と同じだが月日が11月と遅い。しかし、天英院の場合は弟の近衛家熙が前年まで摂政を務め、父の基熙(関白を10年以上も務めている)も朝廷に隠然たる力を持っていたお蔭もあるから当然としても、月光院の将軍生母として存命中に従三位に叙位されるのは、やはり権勢のあったことを物語っている。側室で将軍生母になり従三位を存命中にもらったのは他に、綱吉の生母として影響力大であった桂昌院(お玉)だけであろう。その後桂昌院は存命中に従一位に叙任されるという、離れ業をやってのけてしまう。家継が綱吉のように60歳以上まで長生きしていたら、月光院も可能であったろう。そう思うのは月光院が葬られたのは芝増上寺の桂昌院と同じ霊廟だからである。天英院が葬られたのは芝増上寺の崇源院(秀忠正室お江与)と同じ霊廟。比較はできないが、家宣・家継時代の大奥には桂昌院と崇源院が同居していたともいえようか。ともあれ、
吉宗が前代の二人を粗末に扱わなかったことが判る。
 
 月光院の項のどこが問題かというと、「叙せらる。のち吹上御殿」の部分の「のち」なのである。吹上御殿とは吹上の庭園に新築した屋敷を指す。吉宗が月光院の住居する屋敷として造ったといわれる。天英院の西の丸への移動が遅いのは、月光院が吹上御殿へ移るのを待っていたのではないかと思われる。問題はどこから月光院は吹上御殿へ移ったのか、これなのだ。「のち」は正徳3年11月から享保2年までのおよそ4年間を不分明なものにしている。引用した幕府祚胤伝の難点は、「幕府を憚った痕跡が明らか」なところだと、校注者の高柳金芳氏は記している。
 正徳3年から吉宗が江戸城に入る前までの女中付きの女主人は4人いた。天英院と月光院に、綱吉の側室で鶴姫と徳松を産んだ瑞春院(お伝)と、綱吉の養女で会津松平家、次に有栖川宮家と婚約が成立しながらも、どちらの相手も嫁ぐ前に病没したため行かず後家のようになった竹姫(清閑寺熙定の娘)である。瑞春院は綱吉が薨去すると三の丸に移り、元文3年(1738)に亡くなるまでここで暮らしている。竹姫はどこかといえば、寂しい境遇から察して同じ公卿家出身の仲間がいる、本丸大奥ではなかったかと思う。
 月光院は絵島事件によってお付き女中総浚えのような形となり、将軍生母とはいえ気位の高そうな天英院の顔は見たくなかったであろうから、西の丸に移ったのではないかと思うのである。異常ではあるが、満でいえば3歳の子供が将軍に就くのも異常だ。時の権力者の側用人間部詮房(まなべあきふさ)と月光院の二人が、よく吹上庭園を散策していたという話がある。吹上庭園は本丸からより西の丸のほうが近い。
 天英院が西の丸へ引っ越すのに1年半も掛かったのは、月光院が吹上御殿へ移った後の西の丸のリニューアルに時間を喰ったからだろう。天英院は家宣が将軍となって西の丸から本丸へ移るにあたって、本丸大奥を70万両余りの金額をかけて改修させているのである。
 吉宗が月光院のために吹上御殿を建てたのは、当然天英院と月光院のソリの悪さを知ってい たし、ある種の後ろめたさがあったからだろう、その後ろめたさは天英院にも忖度できることで、月光院への御殿新築を同意せざるを得ないところでもあった、と推測されるのである。

 これ以降、人名・年月が複雑になってくるので年表式にまとめ、それから説明に入ることにしよう。薨去は三位以上の死亡、年齢は数えで記した。 

暗闘の12年

宝永元年(1704)4月
紀伊藩主綱教に嫁いだ将軍綱吉の側室お伝の子鶴姫が逝去 28歳
同年(1704)12月
甲府藩主綱豊(後の6代将軍家宣)が将軍世子として西の丸に入る

宝永2年(1705)5月

紀伊綱教が薨去 41歳
同年(1705)8月

紀伊綱教の父光貞が薨去 80歳 
同年(1705)9月
紀伊綱教薨去後に藩主となった弟頼職が逝去 26歳 

宝永5年(1708)12月

家宣の側室お須免が大五郎を産む

宝永6年(1709)正月

5代将軍綱吉が薨去 64歳
同年(1709)5月
家宣が6代将軍位に就く
同年(1709)12月
家宣の側室お喜世が鍋松(後の7代将軍家継)を産む

宝永7年(1710)8月
お須免が産んだ大五郎死没 3歳 

正徳元年(1711)8月
お須免が虎吉を産むも、2ヵ月余りで死没 

正徳2年(1712)10月

家宣が薨去 50歳 

正徳3年(1713)5月
家継が7代将軍位に就く
同年(1713)7月
尾張藩主吉通が薨去 25歳
同年(1713)10月
尾張吉通薨去後に藩主となった嫡子五郎太が死没 3歳

正徳4年(1714)3月
絵島事件

正徳5年(1715)9月
家継に霊元法皇の皇女八十宮の降嫁が決まる

正徳6年(1716)4月
家継が薨去 8歳 

 5代将軍綱吉の子女は二人しか生まれなかった。鶴姫と徳松、二人ともお伝の産んだ子である。鶴姫は延宝5年(1677)に生まれ、徳松はその2年後の延宝7年(1679)に生まれ天和3年(1683)に4歳で早世している。
 その後は子を孕む側室もないため吉宗は、母の桂昌院が絶大な信頼を寄せる僧侶隆光の進言を入れて、子宝に恵まれようと度が過ぎた生類憐みの令を頻発していく。
 綱吉に嫡子がない場合は、綱吉の甥にあたる甲府藩主綱豊が将軍位を継ぐのが筋とするのが大方の見方だった。綱豊は4代将軍家綱の継嗣候補に挙げられた一人であった。この時の候補は、館林藩主綱吉、綱吉の兄ですでに亡くなった甲府藩主綱重の子綱豊、有栖川宮幸仁親王を仮の将軍とし家綱の子を懐妊している側室お満流(まる)が男子を産んだらその子とし、有栖川宮には京都へ帰ってもううという、変則的なものだったが、甲府綱豊は綱吉と並ぶ将軍候補だったのである。
 
 いくら生類を憐れんでも男子の誕生がないと、桂昌院とお伝は鶴姫の夫である紀伊綱教(つなのり)を将軍世子にしようと画策する。が、長幼の順に厳しい水戸光圀に反対されてしまう。光圀は家綱の継嗣候補として綱吉を推した恩人であった。しかし、将軍世子として綱豊を迎えようとはしなかった。
 亡くなった綱豊の父綱重の生母はお夏といってお玉時代の桂昌院とは、同じ京都の町人の出身だったがソリが合わなかった。お夏の子を世子に迎えるくらいなら、鶴姫の夫の綱教のほうがずっといい、そう桂昌院は考えたのであろう。あるいは鶴姫が男子を出産してくれれば最高だとも願ったであろう。だが、その鶴姫が病没する。ここに至って、将軍世子としてやっと綱豊が迎えられることになる。綱豊42歳である。

 一時将軍位が目の前にあった紀伊綱教が41歳で亡くなる。続いて前藩主の父光貞が80歳で亡くなる。この二人の死因は自然死、つまり天命だったのであろう。しかし、次の頼職(よりもと)は自然死ではないだろう。光貞には3人の男子がいた。母はそれぞれ異なり側室である。長男綱教、三男頼職、四男頼方(よりかた、後の吉宗)。次男は早世、長男綱教と三男頼職の年齢差は15歳あるが、三男頼職と四男頼方の年齢差は4歳だった。大差ないから二人は元禄9年()に同時に従四位下左近衛権少将に叙任され、翌年には同時に3万石を封与され別家を立てているのである。
 頼職と頼方は意識しなくとも、二人の家臣たちは相当なライバル意識があったと思われる。いまや頼職は尾張55万5000石の藩主、一方我らのご主人は3万石の藩主。ほんのちょっと前まで待遇は同じだったのに、なんという大差!と焦ったとしても不思議ではない。
 紀伊藩の藩祖頼宣(よりのぶ)は大将の心得として、「兄弟の家へ行ってお茶を飲むな」といったそうである。さすが由井正雪事件で幕府から黒幕と疑われた頼宣だけのことはある。兄弟が最も危ない。作り話か本当なのかこんな逸話がある。
 頼方がまだ幼い頃、父の光貞が兄弟を呼び集めて、刀の鍔などが入った箱を出した。「この中に気に入ったものがあれば、遠慮せずに申してみよ」
 頼方は後ろに控え、他の兄弟らは選んだものを手にした。
 光貞が不審に思い、頼方に問うた。
「わたしは兄君たちが選ばれた後、その箱ごと賜りたく存じ、ここに控えておりました」
 頼方がそう答えると、光貞は大いに感心し、満足げに箱ごと頼方に与えた。
 頼方は有り難く箱を頂くと、持ち帰って家臣たちに与えたという。

 兄たちが選んだ後に欲しいものは頼方にはなかったが、家臣たちのことを思って貰い受けてきたのである。頼方の家臣と他の兄弟の家臣のどちらが、後々主人に尽くしてくれるだろうか。紀伊藩譜代の家臣はいるが、四男になると信頼できる家来による組織固めは自分でつくり上げていかねばならなかったであろう。そして、頼方は確固とした家臣団を築いていったはずである。そして、家臣たちが政権をとるに相応しい主人と考えた時、先走る家臣も出てくる。それは主人に尽くそうという思いもあるが、主人が政権をとることによって自分の勢力・地位の上昇がもたらされるからでもある。

 兄たちの連続死によって、頼方は22歳で紀伊藩主となり、名を吉宗と改める。藩財政は赤字だった。寛文8年(1668)に領内大旱魃、寛文8年から元禄16年(1703)の間に江戸藩邸が4回大火、貞享2年(1685)に綱教と綱吉の娘鶴姫の婚礼があり出費、元禄10年(1697)と同14年の2回綱吉が紀伊藩邸を訪問し合計11万両余りの出費、宝永2年(1705)兄たちと父の葬儀費用と吉宗の藩主就任の儀式費用など。
 さっそく吉宗は改革に取り組み、倹約令を布くと共に町廻横目(まちまわりよこめ)や芸目付(げいめつけ)といった隠密役を設置する。町廻横目は衣服や調度などの贅沢や風俗の乱れを監察、芸目付は藩士の武芸修練の様子を監察するものだった。
 隠密の監察によるものと思うが、下役人や奥女中など130人余りの人員整理を行い、藩士の禄高の5lを藩に上納させ、年貢を増徴させるため治水と新田開発を行い、吉宗が将軍位に就く頃には、金14万両と米12万石近くが翌年に繰り越されるほどになったという。
 改革の成功を支えたのは隠密の監察政治にあっただろう。隠密は人の監察だけではなく、新田開発にあたり用水整備が可能な土地を探索・調査し、農耕地の拡大に寄与しているのである。隠密は官僚組織の役人であり、いわゆる忍者ではない。隠密は藩や幕府の家譜や分限帳に名前が載るが、忍者は隠密に使役される闇の者たちである。
 吉宗が組織した直属の隠密衆は薬込役(くすりごめやく)といった。将軍位に就くと彼らの内から17人を選び、幕臣に編入した。当初は「御庭番家筋」(おにわばんけすじ)と称したが、享保11年(1726)になって「御庭番」と称するようになる。御庭番の17人(家)は世襲であった。身分は初め御家人だったが、元文5年(1740)から旗本に取り立てられる者(家)が出始め、9代家重の時世になるとほとんどの家が旗本に昇格している。
 御庭番に隠密御用を命令できるのは将軍と、吉宗が新設した御側御用取次だけであった。御側御用取次には紀伊藩年寄小笠原胤次・御用役兼番頭有馬氏倫・同加納久通を任命しており、側近の小姓・小納戸も紀伊藩士で固めた。つまり、老中・若年寄は監察対象であり、吉宗が彼らを、いや身内以外の者すべてを警戒していたことが判る。
 幕府に隠密役がなかったわけではない。目付配下の徒目付(かちめつけ)、小人目付(こびとめつけ)があった。旗本・御家人の監察が主務で、老中・目付の命令で探索にあたることもあった。伊賀者・甲賀者もいたが彼らは警備を主務とする役職に就いており、隠密機能はすでに消失していた。
 暗闘の結果、将軍となった吉宗には、どうしても自分の意のままに動く隠密役が必要だった。自分を暗殺しようとする者を、水際で防がねばならなかったのである。

 6代家宣の子女は7人いた。産まれた順に記す。1番早かったのは御台所。男女1人ずつ産んでおり、女子豊姫は1ヵ月余りで死没、男子は死産だった。斎宮(いつきのみや)は母子ともに死没、お古牟は男子家千代を産むが2ヵ月余りで死没、お須免は男子大五郎を産み1年8ヵ月ほど生きていた、大五郎に7ヵ月ほど遅れて鍋松(後の家継)が生まれる。お須免が大五郎が死んで1年後に虎吉を産むが、2ヵ月余りで死没。
 整理しよう。
 家継が産まれた時に7ヵ月上の兄大五郎がいたが、家継が2歳の時に亡くなる。生母はお須免。家継が3歳の時に虎吉が生まれる。が、2ヵ月ほどで死没。生母は同じくお須免。
 
ほとんどが産まれて数ヵ月しか生きていない。その中で大五郎と家継は1年以上生きている。大五郎はもう少し長く生きられたような気がするが、いかがなものであろうか。
 御台所とその父近衛基熙も、大五郎は長く生きられそうだと喜んでいたようだ。大五郎の生母お須免は公卿園池季豊の娘。お須免は、柳沢吉保が家宣の歓心を買い、自分の保身のために献じたといわれる。公卿の娘ということから御台所も目を掛けていた。その娘の産んだ大五郎が長く生きられそうとなると、御台所の権勢は一層大きなものとなる。
 大五郎が3歳になると、近衛基熙は京から下向してくる。63歳だった。この歳でわざわざ下向しなければならぬような重要事項は傍目にはなかった。下向の名目としては、家宣の将軍宣下の儀式やその祝賀に訪れる朝鮮通信使・琉球慶賀使の接応における「典礼指南」であった。いずれにしても前例があることであり、幕府には儀式典礼担当の高家があり、あえて高齢の基熙に下向を願う必要はなかった。
 それでも基熙は嬉々として江戸に着くと、辰ノ口の伝奏屋敷に腰を据えた。初めは大奥で有職故実の講義をした。基熙は座敷での杖の使用を許され、2日〜3日おきに登城した。その内に、有職故実は政刑の典章だからと政務に口を出すようになった。
 将軍の岳父であり最高のもてなしを受けている基熙は、俄然周囲から注目を浴び、俗に「辰ノ口の大御所」といわれるようになり、幕府の役人や大名からどっと付け届けが贈られるようになった。近衛家の家紋は杏葉牡丹(ぎょうようぼたん)、この家紋を付けることが武士や町人に流行り、基熙とちょっと関係があると匂わせるだけで、大いに恐れられ羨ましがられた。

 江戸考証家の稲垣史生氏によると、輿入れ当初の家宣の正室熙子は関東の武家風をバカにして近衛家から連れてきた侍女の斎局(いつきのつぼね、側室の斎宮とは別人)や錦小路を相手に、歌書や物語ものを読むことに熱中し、家宣は眼中外だったという。
 家宣は武芸に励んで京風の学問にはまったく疎かった。家宣が学問好きとなるのは碩学の新井君美(きみよし、白石)を召し抱えてからで、さらに公卿家の娘お須免が側室にあがると、このお須免が和歌・管弦に優れていたそうで、徐々に公家風に引かれていったという。
 ある種の近衛基熙フィーバーが現出する中、家宣は「百年に礼楽(れいがく)起る」という古語を思い出し、基熙に諮問する。幕府は創府100年になった、いまこそ典礼を改定すべきではないか?基熙答えて曰く、こういったそうである。「武家といえども朝廷より官位の任叙があり、官位相当の服制によって上下の品等が判然とし、自ずから秩序礼節が生まれよう、天下泰平のもとはまず服制にはじまる」
 幕府が公家社会の乱れを正すために発布した公家諸法度の服制の条項の趣旨に似ている。家宣の頃の武家社会は、基熙から逆にいわれるほど弛緩していたわけである。
 家宣はさっそく羽織を道服に改め、裃に替えて直衣(なおし)を作った。すべて吉宗の代で覆るが、大奥の服制は覆すことができず、幕末まで生き残ったといわれる。

 基熙によって、すべてに公家風が幅をきかす中で、内心苦々しく思っていたのが間部詮房であったろう。家宣の手前、基熙には面従腹背で接したろうが、自分が押すお喜世(月光院)の産んだ鍋松(家継)の影が薄くなり、公卿の娘お須免が産んだ大五郎が前面に迫り出してきたことに大いに焦ったと思われる。ここで間部詮房の経歴を紹介しておこう。

 間部詮房の経歴
 寛文6年(1666)甲府藩士西田喜兵衛清定の長男として、武蔵忍で生まれる。母は忍藩阿部家の家臣小川次郎右衛門の娘。
 貞享元年(1684)甲府藩主徳川綱豊(後の家宣) の小姓として召し出され、切米150俵10人扶持、翌年250俵、間部右京(後に宮内)と称した。その後、綱豊の寵愛を受け、同4年両番頭格。
 元禄元年(1688)奏者役格、同2年用人並、同12年用人へと昇進。俸禄は度重なる加増で、同16年には1500俵。
 宝永元年(1704)家宣の
将軍綱吉養嗣子になるにともない、西の丸に供奉して幕臣となる。従五位下越前守に叙任され、書院番頭格西の丸奥番頭となる。翌2年西の丸側衆、1500石加増される。同3年正月に若年寄格、7000石加増されて1万石の大名となる。同年12月、従四位下に叙せられ老中次席に昇格。同4年7月1万石加増。
 宝永6年正月、家宣が将軍家を相続。同年4月侍従に叙せられ再度1万石加増され、老中格に昇進。翌年5月さらに2万石を加増され、上野国高崎城主として5万石を領す。
6代将軍家宣・7代家継の側用人として幕政を主導する。
 政策案件は侍講の新井白石が補佐したが、老中・若年寄などに関する人事案件は将軍に代わって伝達し、幼将軍家継の時代には老中・若年寄の任命についても、間部詮房が直接申し渡したという。

 甲府時代の家宣に召し出されてから、5万石の高崎藩主となるまでに要した年数は26年。歴史のある巨大多国籍企業に高卒で入社し、44歳で代表取締役に就いたようなものか。異常な出世である。異常を可能としたのは、父の前歴が猿楽の能役者だったからではないかと思われる。
 甲斐国の能役者から出世した者に、大久保長安(ながやす)がいる。
 長安は武田信玄によって武士に取り立てられ、年貢徴収や鉱山採掘の仕事で手腕を発揮する。武田氏が滅びると家康に仕え、特に治水・土木の面で優れた力量を認められ、伊奈忠次や彦坂元正らと共に代官頭となり、関東18代官と八王子千人同心を統轄する。
 関ヶ原の役後に石見の大森銀山奉行に任じられ、「大久保鋪(しき)」という大坑道を開き、従前の倍近い銀の産出高を達成する。次に佐渡金山奉行に任ぜられ、新技術「水銀流し」という洗滌法(せんじょうほう)を用いて産出量を驚異的に高めた。
 幕府の財政は大いに潤ったが、長安も蓄財したという。生活が贅沢になり、長安の屋敷は江戸の他に主要な鉱山の要所地にあったといわれる。財務官僚として抜きん出ていたため、姻戚関係を結ぼうとする諸士が多く、徐々に長安背後の勢力が大きくなり、家康が警戒するほどになった。
 長安が病没すると、家康は長安の葬式を中止させ、生前に陰謀があったとして諸国に散在する長安の屋敷を探索させた。すると、ポルトガルと組んで幕府転覆を計る連判状が出てきたという。これによって長安の子供と一族は処罰され、その遺産は没収された。
 家康に填(は)められるほどの財産を遺したのであろう。

 能役者と鉱山開発者の関わりがポイントとなろう。歴史学者網野善彦氏は「日本論の視座」(小学館)において、「室町時代初期ごろの[庭訓往来](ていきんおうらい)が、市町(いちまち)の興行に当って招き居(す)えるべき輩として、鍛冶(かじ)、鋳物師(いもじ)、などの手工業者に加えて、猿楽、田楽、獅子舞、琵琶法師、傀儡師(くぐつし)、県御子(あがたみこ)、傾城(けいせい)、白拍子、遊女夜発(やはつ)などをあげている」と記している。
 「庭訓往来」とは名のごとく往来物(寺子屋で用いる教科書)の一種で、庭訓の意は家庭教育だが、この書は南北朝末期から室町前期に成ったとされる。往復書簡の形式で編集されており、各書簡に衣食住、職業、産物、政治、仏教、病気などに関する単語を列記し、日常生活に必要な語句が学べるようになっている。江戸期には注釈本、絵入り本など数多く版行され、武士の子弟や庶民の寺子屋教育に利用されたようだ。

 鍛冶や鋳物師が市場や町の興行(祭も含む)に招くべき輩とされたのは、鍛冶は包丁や鎌などの販売修理、鋳物師は鋤や鍋、釜などの販売修理を行なったからだろう。また、勧進興行になると梵鐘や九輪塔など大掛かりな製作にあたる鋳物師が招かれたであろう。彼らは熟鉄(じゅくてつ)・打鉄と呼ばれる原料鉄も持ち運びしていたから、鉱山開発者である山師とも接触したであろう。鉄・水銀・銅・銀・金などの山を見立てるのは山師であり、山師には金子(かなこ)や間歩大工(まぶだいく)などの専門職が付随する。
 長安が能役者の出身でありながら、鉱山採掘で際立った手腕を最初から発揮できたのは、数々の興行で鋳物師と接し、彼らを通して山師との知己を得ていたからであろうし、長安の資質として諸国の山々を渡り歩く山師のネットワークを使いこなすだけの器量があったからだと思われる。また、ポルトガルとの陰謀を云々されたところから、西洋の鉱山技術を日本の山師たちに仲介したとも思われる。

 間部詮房である。詮房の姓の間部だが、当初は父の姓の西田を名乗っていたらしい。父の元の姓は真鍋といったらしい。家宣の小姓として召し出された際に旧姓に戻すことが許されたが、家宣が真鍋ではなく間部の漢字にせよといったことから、それ以降は間部になったそうだ。読みは「まなべ」だが、「まぶ」とも読める。「まぶ」は「間歩」でもあり、間歩は坑道の意である。
 山師は諸国の山々を見立て歩く、同じように諸国の山を渡り歩く者に修験や木地師(きじし)、採薬師、石工(いしく)などがいる。求めるものは互いに異なるが、求めるものがあるからこそ情報交換をしたであろうし、その気になれば諸国の情報がかなり収集できたであろう。故に採薬師は紀伊藩の隠密役を務め、石工は幕府の黒鍬者として隠密探索を務めている。
 間部詮房は父親を通して山師などの廻国者を隠密として使い、幕府・将軍綱吉や御三家、有力譜代の動向を探り、家宣に報告していたものと思われる。家宣が江戸城へ入った後も隠密工作は続き、当然大奥へは女の隠密を紛れ込ませていただろう。
 従って近衛基熙によって大奥が公家風に色濃く染まる中、正室熙子や他の公家出身の側室、上臈、年寄たちの間に、これで大丈夫とする安堵感が生じたであろう、その間隙を衝いて大五郎は死に至らしめられた、と推測する。

 正徳2年(1712)10月、家宣が風邪をこじらせて薨去する。新井白石の叙伝である「折りたく柴の記」に、家宣の遺言めいた記事が載っている。
 家宣が薨去する3ヵ月ほど前、病床に間部詮房と新井白石が呼ばれた。世子の家継がまだ4歳なので、自分が死んだ後は尾張藩主の徳川吉通(よしみち)に将軍位を一旦譲るか、あるいは吉通に将軍に就いた家継の後見役になってもらおうかと考えているのだが、これについて詮房と白石はどう思うか、そう諮問されたそうである。
 吉通に一旦譲るというのは、家継が成人するまで中継ぎとして将軍になってもらう意である。詮房と白石は、家継は現在健康なのだから将軍となるのは当然家継であり、万一のことがあれば御三家から選べばいい、と進言した。
 家宣の子はすべて短命で亡くなっていたから、詮房も白石も家継が成人するとは思っていなかったであろう。家宣が将軍位についてまだ3年、緒についたばかりの政策案件が多かったから、中継ぎ将軍や後見役をつけられては、これまでの政策を継続できない恐れもあった。殊に白石は、元禄以降金銀貨の質を落とす改鋳を行い収賄の噂のあった勘定奉行荻原重秀を追い詰めている頃だった。荻原重秀を罷免に持ち込むのはこの年の9月であるから、家宣の次期将軍案には強く反対したと思われる。
 家宣の死から家継が将軍位に就く間が7ヵ月空いている。これは少々もめたからであろう。家宣が考えた次期将軍案が当時の常識だったと思われる。当時(家宣薨去から家継将軍就職の間)の大老、老中に就いていた者を挙げてみよう。
 
大老・井伊直該(なおもり) 30万石彦根藩主58歳 娘が阿部正喬の正室
老中・土屋政直 8万5000石土浦藩主73歳 正徳元年に1万石加増 47歳で老中
老中・秋元喬知(たかとも) 6万石川越藩主65歳 正徳元年に1万石加増 51歳で老中
老中・大久保忠増 11万3000石小田原藩主58歳 50歳で老中
老中・井上正岑(まさみね) 5万石笠間藩主61歳 53歳で老中
老中・阿部正喬(まさたか) 10万石忍藩主42歳 40歳で老中 養女が間部詮房の
                                      弟詮言(あきとき)の正室

 幕閣の実権は老中格側用人の間部詮房が握っていた。大老の井伊直該は正徳元年に大老に就いている。大老を辞職するのは正徳4年。譜代の名門中の名門を大老に就けたのは、譜代層の不満を抑える効果を狙ったものだろう。正徳元年には阿部正喬が老中に就いている。阿部も譜代の名門である。間部詮房は阿部と姻戚関係を結び、阿部と姻戚関係にある井伊も取り込んでいる。阿部正喬は吉宗が将軍になると老中を罷免されていることから、間部詮房の同調者と見られる。井伊直該は同調者かどうか判らぬが反対に回ることはなかったと思われる。
 土屋政直と秋元喬知は古参だが1万石を加増してあるから、反対派に回ることはなかったであろう。秋元喬知は絵島事件ではハッスルして取り調べた者だが、単に正義感が強かっただけであろう。大久保忠増は正徳元年に勝手掛(財政面)担当となり、現職のまま正徳3年7月に死没するが、正徳元年は家宣の代だから反対派ではなかったであろう。井上正岑は吉宗の代になると1万石加増されている。反対に回ったか、家継の幼さを問題にした可能性が高い。
 こう見てくると、反対や危惧する者はいたが、万一のことがあれば御三家からとなり、家継の将軍就任が決まったものであろう。

 ところで正室熙子はどうであったろう。家継の将軍位就任に賛成したか。形としては家継の母親である。が、家継の父の家宣が次期将軍案としてあのようなことを考えていたことから、反対はしないが危惧するところがあるとは述べたであろう。だが、本当のところは尾張を積極的に押したかったと思う。
 というのは、家継が将軍位就任して2ヵ月後に尾張藩主徳川吉通が薨去するのである。吉通は夕食時に血を吐き悶え苦しんで絶命したという。明らかな毒殺だった。あまりに明白すぎる毒殺からして、プロの手によるものとは思われない。藩主吉通の3歳違いの弟継友の側近の者か奥向き女中の仕業であろう。その者は家宣正室熙子の影響下にあったと推測する。
 近衛家は五摂家筆頭の家である。近衛家の娘が将軍の正室となったのは熙子が初めてだった。御三家や有力大名の正室は宮家や公卿の娘がほとんどで、彼女らは実家の侍女を連れて遠く江戸へ下ってきている。従って江戸では公家出身の女中たちのネットワークが自然発生的に出来上がっていたことであろう。このネットワークの頂点にいたのは当代では熙子であったろうから、熙子付きの奥女中の気配りが過ぎて先走ったことをすれば、その奥女中の指示は熙子からの命令と早とちりする輩もおり、さらなる先走りを生む。こうした連鎖の中で毒殺は行なわれたものと思う。
 吉通の死から3ヵ月して子の五郎太が死ぬ。新たに尾張藩主となるのが、毒殺された吉通と3歳違う継友である。継友は近衛基熙の子家熙の娘と婚約中であった。後に輿入れするから、尾張継友は近衛基熙にとって孫となり、正室熙子には甥にあたる。すでに朝廷では近衛家は第一の実力を持ち、尾張継友が将軍となれば将軍家と2代続きの外戚となり、公家のみならず武家社会においても隠然たる力を発揮できることになる。近衛家の野望、これにて成就す、という次第である。

 しかし、そう巧くはいかなかった。紀伊吉宗の隠密が尾張藩邸に潜入していた。断定してしまったが、おそらく間違いないと思う。後のことであるが、紀伊吉宗が将軍に就任する正徳6年5月に、尾張藩邸や水戸藩邸に薬売りに変装した町人姿の紀伊藩の隠密が出没していたとの記事が、尾張藩士朝日重章(しげあき)が書いた、「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)に載っている。なぜ紀伊藩の隠密と判ったかといえば、尾張藩側にその隠密の顔見知りがいて、声を掛けると逃げたというからである。わざとらしいから陽動作戦で、尾張藩邸を内偵している潜入する内通者を隠すための演技だったと思われる。
 内偵者は忍びの者であろう。数年前に潜入している公算が強い。こちらはプロである。このプロは素人が吉通を毒殺する仕掛けを見ていた、そしてこの素人が正室熙子につながることも判っていた、と推測する。
 なぜそう推測するか。家継が死に次の将軍を誰にするか、候補者4人が選ばれるのだが、その候補者を挙げると尾張継友、水戸綱條(つなえだ)、家宣の弟で館林藩主松平清武、そして紀伊吉宗。この中で血が濃い者、つまり家康から代数を経ていない者は家康3代の水戸綱條(61歳)と、同じく家康3代の紀伊吉宗(33歳)、次に血が濃いのは家康4代の松平清武(54歳)、次が同じく家康4代の尾張継友(25歳)。
 年齢と家格から尾張継友と紀伊吉宗の二人に絞られる。血の濃さと政策手腕では紀伊吉宗だが、若さと家格では尾張継友である。また、血の濃さといっても尾張は2代光友の正室が家光の娘千代姫で、千代姫が産んだ綱誠(つななり)が3代藩主となっており、血の濃さでは吉宗、継友に大差はないといえる。
 こうして次期将軍が吉宗、継友の二人に絞られた時、なんと家宣正室熙子が家宣の遺言があるといったのである。紀伊吉宗を後継にという遺言があったというのである。吉宗と熙子の間に何らかの取引があったとしか思えないのだ。熙子に弱みがあり、吉宗がそれを衝きながらも、10年後に将軍位を継友へ譲位するというような脅しと甘言を巧く使った取引が存在したのでは、と怪しむのである。

 ここで振り出しの絵島事件に戻ろう。
 吉宗が生まれたのは貞享元年(1684)である。絵島事件は正徳4年(1714)に起きている。吉宗の年齢は数えで31歳、満で30歳である。30歳を迎える女性の気持ちは判らぬが、男の気持ちは判る。これまで積み重ねてきたことを想い廻らし、30代をどのような実のあるものにするか。吉宗も想い廻らしたであろう。紀伊藩の藩政改革は軌道に乗り、黒字になりつつある。一方幕府の財政を見ると、赤字である。原因は4代家綱の時世から金山・銀山からの産出量が減少してきたことにある。荻原重秀が金銀貨の質を落として出目(差額利益)を出して凌いできた。いまは金銀貨の質を元へ戻した結果、デフレになっている。自分が将軍になれば違った方策で・・・と考えても不思議ではない。

 家継が邪魔だが、大奥には手出しができなかった。大奥には家継を守るために間部詮房が配備した女中たちがいたるところにいた。詮房は1年に数回しか自分の屋敷へ帰らず、江戸城で寝泊りしたといわれる。それほど仕事熱心でもあったが、後ろ盾の家宣を亡くしたいま、家継は詮房にとって死守すべき最後の玉である。とても屋敷などへ帰る心持ではなかったはずだ。
 吉宗は大奥のことは大奥に任せた。間部詮房が配備した女中は家継付きが最も多かったであろうが、家継の生母月光院付きの女中たちとは仲が良かったはずである。そこで熙子は、絵島の行動を問題視すれば、家継付きの女中たちも芋づる式に大奥から一挙に追放できると考えた。熙子は我ながら妙案だと思ったのではないか。
 しかし、現実は熙子の思い通りに進まず、家継付きの女中で絵島事件に連座して追放される者の数は少なかった。
 ここから間部詮房と月光院の反撃は始まる。気位の高い熙子を貶めるにはどうすればいいか。熙子の後ろ盾になっているのは近衛家である。近衛家を貶め、さらに間部詮房・月光院陣営の地位を高める一石二鳥の策は、家継に天皇の姫を迎えることである。
 
熙子と近衛家に反対されぬよう大義名分を立てねばならない。幼いことからくる将軍の権威の低下を高めるものとして皇女降稼を賜う。これなら形としては将軍の母、祖父になる熙子、基熙に反対はできない。
 当時の天皇、中御門天皇は15歳で家継に降稼さすべき子女や皇妹はいなかった。対象となりそうなのは中御門天皇の祖父、霊元法皇(仏門に入った上皇)の皇女だけだった。八十宮(やそのみや)といい、2歳であった。
 霊元法皇は幕府が嫌いだった。が、それ以上にソリが合わなかったのが近衛基熙であった(詳細はこちらを参照)。かってない皇女降稼の婚約が整うのは、霊元法皇の基熙嫌いだったわけだ。
 正徳5年9月、正式に八十宮の降稼が決まり、翌正徳6年2月に結納の儀が終わる。そして、2ヵ月後に当の家継が亡くなってしまう。間部詮房の落胆は言葉にできないものだったろう。守り切れなかった自責の念のみが強烈に自分自身を突き上げたはずだ。
 
 吉宗が二の丸から本丸に入る前に間部詮房は側用人を解職され、雁之間詰となり、翌享保2年高崎から雪深い越後村上へ移封。享保5年(1720)逝去、55歳。
 新井白石は解職されなかった。寄合だから最初から無役。しかし実質は側用人補佐役のような形で幕政に参与していたから、間部詮房が解職されたら無力な存在、自ら致仕した。享保10年(1725)逝去、69歳。
 熙子(天英院)、元文6年(1741)薨去、80歳。
 月光院、宝暦2年(1752)薨去、68歳。
 絵島、許されないまま流罪地信濃高遠で寛保元年(1741)逝去、61歳。
  吉宗、宝暦元年(1751)薨去、68歳。
 近衛基熙、享保7年(1722)薨去、75歳。
 尾張継友、享保15年(1730)薨去、39歳。