大奥の制度と力                                    江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

 

御客応答(おきゃくあしらい、御客会釈の表記もある)
 将軍が大奥に入った時の接待や、御三家・御三卿・諸大名などからの女使いの接待役。毎月1回の大奥の部屋部屋を見て廻る御留守居廻りの際は立ち会った(御留守居とは表御殿の5000石高の役職で、大奥や広敷役人などを統轄していた)。地位は姫君付きの御年寄と同格。年寄・中臈・表使・錠口などが隠居した後の役といわれるが、その老獪さは来客を利用して、外部の人間を動かすことがしばしばあったようだ。

中年寄(ちゅうどしより)
 御台所、御簾中(ごれんちゅう、将軍世子の夫人)、姫君に限り付く役。将軍や将軍世子には付かなかった。年寄の指図をうけて働き、年寄が病気などの際は代理を務めた。毎朝仲居から魚、青物などの書き出しを取り寄せ、御台所の献立を指図し、毒味役も務めた。

御中臈(おちゅうろう)
 将軍や御台所の身の回りの世話役。元来は御台所付きの役で、大身旗本の娘が小姓を経て中臈になるのが建前だった。将軍付きの中臈は御年寄が合議の上で決めた。ただし、将軍の目にとまって寵愛をうけた場合は、どんな地位の女中でも直ちに中臈となった。これを「御手付御中臈」と称し、その他の中臈を「清(きよ)の御中臈」と称した。部屋を賜るのは中臈の筆頭の者だけで、その他は御客応答か御錠口から選ばれた世話親の部屋で二、三人ずつ合宿していた。御手付御中臈も将軍の子女を産まない限り部屋は賜らなかった。
 御台所付きの中臈の勤務は、出番・お袖・非番と三分担し、出番は朝四ツ(午前10時頃)に出て、八ツ(午後2時頃)に一旦部屋に戻り、夜再び務めて翌朝交替した。お袖は九ツ(正午)か八ツ(午後2時頃)から翌朝四ツ(午前10時頃)まで務めた。
 将軍付きの中臈は、1日に3回だけ大奥にわたる将軍の身の回りの世話をするので、御台所付き中臈のような定めはなかった。
 御台所付きの中臈が将軍の目にとまり希望された場合は、将軍付きの年寄から御台所付きの年寄にその旨を伝達し、御台所の許しを得て、さらに本人を承諾させて後に初めて将軍付きとなった。これを「御付け替え」と称し、御台所から将軍へ差し上げる形をとった。
 しかし、本人が嫌なら断ることもできた。こうした際は世話親が説き聞かせ、父の扶持を取り上げるなどと脅したりしたという。それでも嫌ならば無理強いはせず、暇を出されて親元へ帰された。

御小姓(おこしょう)
 大身旗本の娘が7歳頃から務め、13歳になると元服して「元服小姓」と称した。御台所、御簾中、姫君の御側に仕え、煙草や手水(ちょうず)などの世話をした。将軍の大奥入りした際は、錠口で男の小姓から将軍の佩刀(はいとう)を受け取り捧持もした。16歳位になると中臈になった。

御錠口(おじょうぐち)
表御殿の中奥(将軍の官邸)と大奥とを連絡する御鈴廊下の端の杉戸が、中奥と大奥の境だった。この境の御錠口(上ノ錠口)を管理した。本役と助(すけ)があり、錠口近くに設けられた詰所に勤番した。中奥の錠口を管理する「奥之番」と掛け合い、中奥との取次ぎ役を務めた。
 なお、御鈴廊下は9代将軍家重の時世の初めころまでは一本だったが、以降になると二本になったという。二本目の廊下は将軍が中奥から大奥にある将軍生母の住居「御新座敷」へ出向く時や、将軍が大奥で食す料理の品を中奥から「奥御膳所」(献立調進所)へ運ぶ時に使用した。

表使(おもてづかい)
 大奥の外交係。大奥は三つの区画に分かれている。御殿向(正室・側室の居室や奥女中の詰所)・長局向(奥女中の住居)・広敷向(大奥の事務・警備を担当する男の役人の詰所)があり、御殿向と広敷向との境にある錠口(下ノ錠口)を管理。年寄の指図をうけて大奥一切の買物を担当し、留守居や広敷役人と応接した。買物があると広敷用人に通知し、また表御殿から広敷用人へ伝達してきた用向を御台所に取次ぎ、その返事を広敷へ通知した。
 将軍の奥泊まりは、宵の内に将軍から沙汰があった。沙汰された小姓ないし小納戸は御錠口で鈴を鳴らし、表使を呼び出す。その旨を伝えられた表使は、年寄に報告するのだが、この時には相手をする中臈は将軍から指名されていたそうだ。すなわち、大奥で勝手に中臈を決めて将軍へ勧めることはできなかったのである。
 この役は年寄に次いで権力があり、才智に優れた者が務めた。

御右筆(ごゆうひつ)
 日記や諸向への達書、諸家への書状などを担当。御三家、御三公卿、諸大名からの献上物などは、右筆が検査した上で年寄に差し出した。職務は多義にわたり表御殿の奥右筆と同様な仕事だったという。すなわち年寄の政務補佐官兼秘書官であった。

御次(おつぐ)
 道具や献上物の持ち運び、親戚との対面所などの掃除を担当。各種の催しがある時は演ずる役でもあり、遊芸一般に通じた者が選ばれた。
 
 下の表は3代家光から11代家斉までの子女を産んだ側室と公卿出身の側室の昇進過程を示したものである。12代家慶の側室は一部のみとなっている。なお、3代家光から9代家重と12代家慶の一部は、わたしが「幕府祚胤伝」(ばくふそいんでん)から作成したもの、10代家治から12代家慶の一部までは「大奥の制度と力1」で紹介した松尾美恵子氏が「歴史読本」(694号 新人物往来社)に発表されたものである。
 昇進過程を眺めると、概ね御次からスタートしていることが判る。御次からいきなり中臈へ進んでいることを考えると、将軍が何かの催しで当の御次女中の遊芸を観覧して、目を付けたものと思われる。御次は目を付けられる機会が多い役だから、これぞと思う娘を御次に付ければ、将軍の子女を産むという確率が高まることになる。表御殿の役人で野心のある者は、大奥の幹部クラスと組んで、これぞと思う娘を探し出し大奥へ送り込み、その娘を懇ろとなった大奥幹部が御次に就ければ、翌年には将軍の男子を産んで、自分は一躍権勢家などという夢想をしたかもしれない。たが、表の親元を見ると、まんざら夢想ともいえないことが判る。
 ところで、将軍の子女を産んでも将軍家の家族にはなれなかった。上臈年寄上座というのは特別待遇ではあるが、依然として将軍家の使用人であろう。将軍の男子を産み、その子が将軍世子となって御内証之御方と称される。6代家宣以前は判然としないが、御内証之御方とは家族同然ということだろう。実に狭き門である。


将軍

側室 

 親元

昇進過程 

3代家光 お振  蒲生飛騨守氏郷の家臣
        岡某の娘
奥務め→千代姫出産 
 上同  お楽  下野国都賀郡高島村の
百姓某の娘、後に古河
城主永井信濃守の家臣
七沢作左衛門清宗の養
女となる、が異説あり
春日局に見出され奥務め→家綱出産 
 上同  お夏  岡部八左衛重家の娘
(実は京都町人弥市郎
という者の娘だという) 
奥務め(初めは御末)→後に綱重出産 
 上同  お玉  二条家家司(家臣)
本荘太郎兵衛宗利の娘
(実は京都堀川通り西
藪町八百屋仁左衛門
の娘、母の再婚相手が
本荘氏という) 
奥務め→後に綱吉などを出産
家光薨去後は法号桂昌院と称す 
 上同  お万  参議六条有純の娘  称・大上臈
伊勢内宮慶光院の17代院主となった跡目
相続御礼に下向して江戸城に登城、この
折りに還俗させられる。老中からの内意に
より懐妊を禁じられていたという
 上同  お里佐 諸説あるが公卿家に仕
えた侍だったようだ 
奥務め→鶴松出産
 上同  お琴  牛込榎町徳円寺の娘  奥務め(後に御寝席に召される) 
4代家綱 お振  従二位侍従
吉田兼敬の養女(実父
は神祇少副吉田兼起) 
上臈→懐胎するも病没
一説に「生きた吉祥天」という京美人
  お満流 佐脇十郎左衛門安清
           の娘 
流産 
5代綱吉 お伝  黒鍬者
小谷権兵衛正元の娘 
鶴姫・徳松出産→称・御袋→称・五之丸 
 上同  大典侍  前大納言
清閑寺熙房の娘
竹橋御殿上臈
お伝の対抗馬として京から迎えられたとも
御台所鷹司信子の下向に供奉してたとも 
 上同  新典侍  大納言
日野弘資の養女(実父
は大蔵権大輔豊岡
有尚) 
神田橋御殿上臈→本丸御中臈
落飾後に男女関係が露見し、飯田町新屋
敷に蟄居の身となる 
6代家宣 お喜世
(左京) 
林昌軒住持玄哲の娘
加賀前田家の槍術指
南佐藤治郎左衛門とい
ったが、浅草唯念寺で
剃髪し、僧玄哲となる
桜田御殿奥務め→家継出産 
 上同  お古牟  町医者太田宗順の娘
(実は一向宗の僧道哲
といい、還俗して宗庵
から宗順と改名、お古
牟は浪人村上伊左衛
門の養女となって奉公
に出されたとも) 
桜田御殿御湯殿掛→御次→御中臈→家
千代出産→称・一之御部屋 
 上同  お須免 内大臣櫛笥隆賀の養女
(実父は左中将園池
季豊) 
上臈→大典侍と改む→大五郎などを出産
 上同  斎宮  駿河大納言忠長付き
小尾十郎左衛門直易の
娘(後に甲州住居)
流産 
8代吉宗 お須磨  紀州藩士大久保八郎
五郎忠直(家禄800石)
家重出産後、再度懐妊の際難産のため
紀州藩赤坂屋敷にて母子ともに死没 
 上同  お古牟  紀州藩大番組頭竹本
茂兵衛正長の娘 
紀州藩赤坂屋敷にて田安家家祖宗武
出産→称・御内証之方→称・御部屋 
 上同  お梅 

京都処士(浪人)谷口
長右衛門正次の娘

紀州藩奥務め→一橋家家祖宗などを
出産→称・御内証之方 
 上同  お久免  紀州藩士稲葉彦五郎定
清の娘(江戸において
高橋与右衛門の養女) 
紀州藩奥務め→芳姫出産 
9代家重 お幸  前権中納言梅渓通条
           の娘 
上臈→家治出産→称・御部屋 
 上同  お逸  松平又十郎親春の養女
(実父は浪人三浦五郎
左衛門義周) 
西丸御次→御中臈→清水家家祖重好出
産→称・御内証 
10代家治 お知保 津田宇右衛門信成の娘

9代家重御次→御中臈→家治御中臈→
家基出産→
御年寄上座→御内証之御方
格式→称・御部屋

 上同    お品 従二位藤井兼矩の娘 上臈→上臈御年寄松島の養女→貞次郎
出産
11代家斉    お満武 御小納戸頭取
平塚伊賀守為喜の娘
本丸御次→御中臈→淑姫などを出産→
御年寄上座→称・御内証之御方
 上同 お羅久 御小姓組
押田藤次郎敏勝の娘
種姫御中臈→本丸御中臈→家慶出産→
御中臈上座→御年寄上座→御内証之御
方同格
 上同    お梅 御小姓組
水野権十郎忠芳の娘
淑姫御抱守→御中臈→女子出産
 上同    お宇多 小普請組
水野内蔵丞忠直の娘
本丸御次→御中臈→敬之助などを出産
→上臈御年寄上座
 上同    お志賀 大御番組頭
能勢市兵衛頼能の娘
本丸呉服之間→御次→御中臈→総姫出
産→御客応答格
 上同 お利尾 御書院番
朝比奈舎人矩春の娘
本丸御次→御中臈→格姫出産
 上同    お登勢 小普請組
梶久三郎勝俊の娘
家慶御次→本丸御中臈→峰姫などを出
産→御客応答格上座
 上同   お蝶 西丸新御番
曽根弥三郎重辰の娘
本丸御次→御中臈→御客応答→亭姫な
どを出産→上臈御年寄上座
 上同       お美尾 西丸御小姓組
木村七右衛門重勇の娘
本丸御次→御中臈→浅姫などを出産→
御客応答上座
 上同       お屋知 御書院番
諸星千之助信邦の養女
(実父は新御番大岩
庄兵衛盛英)
本丸呉服之間→御次→御中臈→高姫
などを出産
 上同  お袖  御船手頭
吉江左門政福の娘 
本丸御三之間→御次→御中臈→岸姫
などを出産→御客応答格 
 上同  お八重  小普請組
土屋忠兵衛知光の養女
(実父は清水殿家来
牧野多門忠克という) 
御次→御中臈→斉明などを出産→上臈
御年寄上座 
 上同  お美代  御小納戸頭取
中野播磨守清重の養女
(実父は下総国中山法
華寺地内の智泉院住職
日敬) 
本丸御次→御中臈→溶姫などを出産→
上臈御年寄上座 
 上同  お八百  御先手御弓頭
阿部勘左衛門正盈
の養女(実父は西丸御
納戸阿部九右衛門
正芳)
御次御増人→御中臈→与五郎を出産 
 上同  お以登  奥御右筆組頭
高木新三郎広充の娘 
本丸御次→御中臈→琴姫などを出産→
上臈御年寄上座 
 上同  お瑠璃  御小姓組
戸田四郎左衛門政方
            の娘
御小姓→御中臈→直七郎などを出産→
上臈御年寄上座 
12代家慶  お定  御小姓組
押田丹波守勝長の娘 
西丸御次→御中臈→達姫などを出産→
御年寄之上 
 上同  お加久  小普請組支配
太田内蔵頭資寧の娘 
西丸御次→御中臈→姫などを出産
 上同  お美津  御書院番
跡部惣左衛門正寧の娘 
西丸御次→御中臈→家定などを出産→
御年寄上座→称・御内証之御方 
 上同  お波奈 御小納戸菅谷平八郎
政徳の娘 
西丸御次→米姫などを出産 
 上同  お筆  小普請組
稲生左門正方の娘 
奥務め→直丸などを出産 
 上同  お金  御小納戸
竹本沢右衛門の妹 
黒姫を出産 

切手書(きってがき、御切手の表記もある)
 長局向と広敷向との境にある七ツ口から出入りする女中の親・親類、女中の使用人などを検め、切手(通行許可証)をわたして本人の部屋へ通した。七ツ口は、七ツ(午後4時頃)になると閉めたので、この名称がある。
 なお、切手はこの役が発行し、それを使番の手を経て広敷番之頭へ回し、留守居の黒印を捺してもらった後、使番から部屋方へわたした。
 また、七ツ口は部屋方の買物口でもあったから、毎日出入りの八百屋、肴屋などの商人が詰め、奥女中の使用人はここに出向いて食料品や必要な物を買い求めたという。

御伽坊主(おとぎぼうず)
 50歳前後の剃髪姿で将軍のみに付く雑用担当で、御台所でもめったに使えなかった。羽織袴を着用し、この役のみ将軍の命をうけて中奥、さらには表向(幕府の中央政庁)への出入りが許された。将軍の奥泊まりの際は、御台所や側室へ伽(同衾)の連絡役を務めた。名前は「長寿」「円喜」「栄佐」などといった。

呉服之間(ごふくのま)
 将軍や御台所の服装の裁縫を担当。

御広座敷(おひろざしき)
 
表使の下働きを務めた。御三家、御三卿、諸大名の女使いが登城した際は、膳部などの世話をした。

御三之間(おさんのま)
 大奥の上女中(かみじょちゅう)で、三之間以上の居間の掃除から毎朝の湯水の補給、火鉢、煙草盆などを揃えて小姓にわたしたり、年寄・中年寄・御客応答・中臈詰所の雑用を担当した。大奥には猫足の火鉢が多かったらしい。女中の俗称「おさんどん」は、この「御三」が語源だとされる。

御仲居(おなかい)
 御膳所に詰めて献立一切の煮炊きを担当。「お鯛」「お蛸」など魚にちなんだ名前で呼ばれる習慣だったそうだ。

火之番(ひのばん)
 昼夜を通して各局・女中の部屋を巡回して火の元の注意をする担当。

使番(つかいばん)
 番部屋に詰めて、御殿向と広敷向との境にある錠口(下ノ錠口)の開閉を担当し、大奥から外部への使い、文書・進物を受け取って広敷役人へわたすなどした。また、七ツ口に詰める商人になるには鑑札を必要とした。その鑑札は広敷役人へ願い出て、使番の許可を得て鑑札をもらったので、商人から賄賂を受け取ることが多く、御目見以下の役だったが裕福だった。

御半下(おはした、御端下とも表記、御末とも称した)
 掃除、風呂・膳所用の水汲みなど一切の雑用を担当。御三家・御三卿の御簾中が登城した時は、乗り物駕籠を広敷から三之間まで担ぎ入れた。そのため長身の者が選ばれた。御湯殿では将軍の手の付くことが多かったようだ。

部屋方
 
奥女中の使用人は、「部屋方」「又者」などと呼ばれた。長局向にある奥女中の部屋で一緒に暮らしていた。町人や百姓の娘たちが、行儀見習いを目的に務めていたようだ。局(つぼね)、相の間(あいのま)、小僧、多門(たもん)、五菜(ごさい)の別があった。

局(つぼね)
 部屋の一切を引き受け、賄いを取り仕切った。

相の間(あいのま)
 
主人の髪を結ったり、衣装の世話をした。

小僧(こぞう)
小間使いの少女(12歳以前)。

多門(たもん)
 炊事・掃除などの下働きをした。

五菜(ごさい)
 主人の宿元への使いや買物など外の用事を引き受けた下男。男なので長局向の部屋には入って来ない。長局向と広敷向の境にある七ツ口の詰所に入って用向きを請けた。給金は1年1両2歩(「歩」は「ぶ」と読み金貨の意。「分」は銀貨の意で「ふん」と読む。江戸中後期になると銀貨なのに金貨の単位の「分」を使うものが出現したことから、このように表記するようになった)。
 五菜は売買できる株になっており、高値で売買されたといわれる。

 年寄の場合は使用人を14人〜16人ほど雇っていた。局1人、相の間5人〜6人、小僧2人、多門4人、五菜2人〜3人。中臈は年寄の半数ほどで局1人、相の間2人、小僧1人、多門2人、五菜1人。
 幹部クラスの奥女中は親類縁者の娘で7歳〜15歳の者を預かって養育していた。「部屋子」と称していたが、成長して奥女中となり三之間や中臈に昇る者もいたらしい。
 年寄の部屋は総畳数62畳(間数10)に炊事場、湯殿、便所、物置から構成された総二階だった。