■御客応答(おきゃくあしらい、御客会釈の表記もある) 将軍 側室 親元 昇進過程 京都処士(浪人)谷口 9代家重御次→御中臈→家治御中臈→ 長局向と広敷向との境にある七ツ口から出入りする女中の親・親類、女中の使用人などを検め、切手(通行許可証)をわたして本人の部屋へ通した。七ツ口は、七ツ(午後4時頃)になると閉めたので、この名称がある。 なお、切手はこの役が発行し、それを使番の手を経て広敷番之頭へ回し、留守居の黒印を捺してもらった後、使番から部屋方へわたした。 また、七ツ口は部屋方の買物口でもあったから、毎日出入りの八百屋、肴屋などの商人が詰め、奥女中の使用人はここに出向いて食料品や必要な物を買い求めたという。 ■御伽坊主(おとぎぼうず) 50歳前後の剃髪姿で将軍のみに付く雑用担当で、御台所でもめったに使えなかった。羽織袴を着用し、この役のみ将軍の命をうけて中奥、さらには表向(幕府の中央政庁)への出入りが許された。将軍の奥泊まりの際は、御台所や側室へ伽(同衾)の連絡役を務めた。名前は「長寿」「円喜」「栄佐」などといった。 ■呉服之間(ごふくのま) 将軍や御台所の服装の裁縫を担当。 ■御広座敷(おひろざしき) 表使の下働きを務めた。御三家、御三卿、諸大名の女使いが登城した際は、膳部などの世話をした。 ■御三之間(おさんのま) 大奥の上女中(かみじょちゅう)で、三之間以上の居間の掃除から毎朝の湯水の補給、火鉢、煙草盆などを揃えて小姓にわたしたり、年寄・中年寄・御客応答・中臈詰所の雑用を担当した。大奥には猫足の火鉢が多かったらしい。女中の俗称「おさんどん」は、この「御三」が語源だとされる。 ■御仲居(おなかい) 御膳所に詰めて献立一切の煮炊きを担当。「お鯛」「お蛸」など魚にちなんだ名前で呼ばれる習慣だったそうだ。 ■火之番(ひのばん) 昼夜を通して各局・女中の部屋を巡回して火の元の注意をする担当。 ■使番(つかいばん) 番部屋に詰めて、御殿向と広敷向との境にある錠口(下ノ錠口)の開閉を担当し、大奥から外部への使い、文書・進物を受け取って広敷役人へわたすなどした。また、七ツ口に詰める商人になるには鑑札を必要とした。その鑑札は広敷役人へ願い出て、使番の許可を得て鑑札をもらったので、商人から賄賂を受け取ることが多く、御目見以下の役だったが裕福だった。 ■御半下(おはした、御端下とも表記、御末とも称した) 掃除、風呂・膳所用の水汲みなど一切の雑用を担当。御三家・御三卿の御簾中が登城した時は、乗り物駕籠を広敷から三之間まで担ぎ入れた。そのため長身の者が選ばれた。御湯殿では将軍の手の付くことが多かったようだ。 ■部屋方 奥女中の使用人は、「部屋方」「又者」などと呼ばれた。長局向にある奥女中の部屋で一緒に暮らしていた。町人や百姓の娘たちが、行儀見習いを目的に務めていたようだ。局(つぼね)、相の間(あいのま)、小僧、多門(たもん)、五菜(ごさい)の別があった。 局(つぼね) 部屋の一切を引き受け、賄いを取り仕切った。 相の間(あいのま) 主人の髪を結ったり、衣装の世話をした。 小僧(こぞう) 小間使いの少女(12歳以前)。 多門(たもん) 炊事・掃除などの下働きをした。 五菜(ごさい) 主人の宿元への使いや買物など外の用事を引き受けた下男。男なので長局向の部屋には入って来ない。長局向と広敷向の境にある七ツ口の詰所に入って用向きを請けた。給金は1年1両2歩(「歩」は「ぶ」と読み金貨の意。「分」は銀貨の意で「ふん」と読む。江戸中後期になると銀貨なのに金貨の単位の「分」を使うものが出現したことから、このように表記するようになった)。 五菜は売買できる株になっており、高値で売買されたといわれる。 年寄の場合は使用人を14人〜16人ほど雇っていた。局1人、相の間5人〜6人、小僧2人、多門4人、五菜2人〜3人。中臈は年寄の半数ほどで局1人、相の間2人、小僧1人、多門2人、五菜1人。 幹部クラスの奥女中は親類縁者の娘で7歳〜15歳の者を預かって養育していた。「部屋子」と称していたが、成長して奥女中となり三之間や中臈に昇る者もいたらしい。 年寄の部屋は総畳数62畳(間数10)に炊事場、湯殿、便所、物置から構成された総二階だった。 |