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藩政改革・東北諸藩                                                                                                                  江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

 
  会津藩
 寛永20年(1643)、加藤家が会津40万石を幕府へ返還したことにより、保科正之が23万石で入封する。幕府は当初、南会津一帯5万石余りも加えて28万石を保科正之の領地とする考えだったが、これだと御三家の水戸藩と肩を並べることになるので会津藩への預地にしたと言う。
 保科正之は慶長16年(1611)に2代将軍秀忠の第9子として生まれている。母はお静の方、秀忠の正室に遠慮して大奥を下がり江戸白銀町
しろがねちょう
の姉の家で正之を産んだと言う。7歳まて武田信玄の娘・見性院に育てられ、元和元年(1615)に信州高遠城主・保科正光の養子となっている。寛永8年(1631)、保科家を相続し3万石の大名となる。以後、加増転封を繰り返し会津に入封に至っている。3代将軍家光の異母弟にあたり、慶安4年(1651)の家光臨終の際に4代将軍家綱の補佐を命ぜられいる。正之は隠居する寛文9年(1669)まで幕政に参画し、保科家は御三家に次ぐ家門となっている。
 
 正之入封前の会津は百姓が耕作していない土地へも課税していた。正之は総検地を行ない、村々の実態を調べた。その結果、年貢を課す土地が2万石も減少したと言う。年貢は半石半永で米と金銭の半々納入だった。平百姓は収穫直後の米が出回る時に米を売って年貢納入の金銭を得、手元に米がなくなった時に飯米用の米を買う、その一方で上層百姓や富商はこの逆に米を売買して利益を得ていた。そこで正之は、「常平法
じょうへいほう
」を定め、米価が下がったら藩が買い支え、高い時に売り払って米価の変動を抑えることにした。
 また、凶作や病気で年貢を納められず、高利な借金をして年貢をやっと納め苦しい生活にある平百姓のために、明暦元年(1655)、「社倉制」を施行する。これは幕府より先に正之が手掛けたもので、米や金銭を低利で平百姓に貸し付ける制度だった。
 
 専売制については寛文5年(1665)、漆木の伐採禁止、漆液定役、漆移出禁止に続いて一切の余蝋売買禁止とし漆蝋の専売体制を確立している。享保末から延享にかけて(1733-1744)、漆木は180万本に達し、藩の漆蝋収益金は年貢米の金納分を軽く超えるほどになったと言う。
 しかし、享保16年(1731)の江戸藩邸類焼と会津若松の大火によって財政は悪化する。同年8歳で藩主となった容貞
かたさだ
の政治は幕府国目付の監督下、重臣たちの合議制で運営されたが、派閥対立によって施政が定まらず、農村の荒廃が進んだ。
 寛延2年(1749)は大旱魃だった。10月〜12月にかけて現在の福島県域各地で百姓一揆が頻発する。発端は幕領の信夫・伊達地方
(しのぶ・だて、略して信達=しんたつ、と呼ばれる有数の養蚕地帯)
の一揆であった。この信達大一揆は幕政の転換のきっかけとなった。よって、若干説明する。
 
 信達大一揆
 当時の幕府勘定奉行は神尾春央(かんおはるひで)、彼は「胡麻の油と百姓は搾れば搾るほど出るものなり」と放言したと言われる。信達地方へ代官として赴任したのが、神尾に目を掛けられていた神山三郎左衛門。寛延2年6月着任早々、神山は検見を行なう。その検見は神尾が発案したと言われる有毛検見法だった。これは従来の石盛=田畑を上・中・下・下々の4等級に位付けし、そこから得られる収穫高を無視して、開墾された無税地
(隠田)
や農業技術の向上で収穫高が上昇した土地すべてを洗い出す課税法であった。
 寛延2年は凶作となったので当然反対の声が圧倒的となる。加えて、信達地方は全国有数の養蚕地帯であり、年貢納入期限は養蚕収入がある翌年の6〜7月までに3回に分けて納入すれば皆済とみなす従来の納入法を、年内にすべて皆済せよと改めたのであった。
 憤激した百姓たちは廻状をまわし、神山のいる桑折
こおり
代官所へ押し寄せた。仙台藩白石から片倉家の手勢700人ほどが駆け付けるほどの騒動であった。一揆の指導者たちは獄門、斬り捨て、追放となったが、当年の年貢減免と金納分の4回分納が認められて落着する。
 この一揆は宝暦4年(1754)の美濃国郡上一揆などのさきがけとなり、幕府に年貢増徴策の限界を知らしめ、いわば直接税から商品流通への課税という間接税への移行を促がすことになった。つまり、田沼意次の登場となるわけだ。

 会津藩の一揆も年貢増徴策への反対であった。幕府のみならず諸藩もまた直接税の限界を知ることになる。そして天明の大飢饉に襲われ第5代藩主容頌
かたのぶは天明5年(1785)、田中玄宰はるなか
を家老に起用する。玄宰の再建策は2年後の天明7年から始まる。
 まずは年貢率を5分引き下げて定免制とした。5万石に及ぶ手余り地
(逃散や離農から耕作者がいない土地)
の解消をはかるため、農村に土地を均等に分け与える「土地分給制」を布いた他、薬用人参を藩直営で生産・販売したり、伝統のある漆器に改良を加えたり、紅花栽培や養蚕業の奨励を行なった。古くから酒造の盛んだった会津だが、摂津から杜氏を招き醸造法の向上をはかり、酒造蔵を建てて藩直営の酒造を試みている。寛政5年(1793)には江戸の中橋に会津藩産物会所を開設し、領内の特産品の販売を始めた。
 この改革により文政12年には年間5000両の黒字となる。が、江戸での特産品販売の試みは失敗した。江戸の問屋仲間の壁が厚く、会所は国元から来た商人の宿泊所のようなものとなった。以後の会津藩は天保の大飢饉を乗り切るも、蝦夷地・江戸湾警備で財政難となりつつ幕末騒乱へ突入していく。


 
白河藩
 松平定信の仕法のみ述べる。
 8代将軍吉宗の次男田安宗武の7男として生まれた定信は安永3年(1774)、17歳の時に白河11万石の藩主松平
(久松)
定邦の養子となる。家督を継いだ天明3年(1783)は大飢饉の年だった。
 定信の対応は素早かったと言う。苦しい藩財政の中で、会津藩の江戸への廻米6000俵を白河で買い取り、飛地であった越後柏崎の登せ米1万俵を白河へ廻送するなど、他藩が凶作に気づいて穀留
(こくどめ、米穀を領外へ移出するのを禁止する)
する前に相当量の米が白河藩に蓄えられていた。白河藩は米沢藩とともに病死はともかくとして、一人の餓死者も出さなかったと言う。

 定信60歳。顔は自らの下絵と言う。
           福島県立博物館蔵

 寛政5年(1793)、老中首座・将軍補佐を罷免に近い形で辞任した後、白河藩の殖産興業に打ち込む。桑・楮・柿・栗・梨などの栽培奨励は珍しくもないが、工芸品製作の奨励は意外である。ガラス・刀剣・武具の修復・象眼細工・陶器・キセルなどを製造させたり、藩士の副業として毛織物を導入したり、資金を出して各種問屋の育成し流通の円滑化をはかっている。また、従来秋のみ開催されていた馬市を春4月にも開催させ、領内外から馬と買人を集め町の繁昌化をはかった。
 これらの政策は幕府老中時代に採った倹約と農村振興策とは大いに異なり、定信にどのような心境の変化があったのか訊きたくなるくらいである。定信の松平家は文政6(1823)に伊勢桑名へ転封となり幕末を迎える。


 
相馬藩(中村藩)
 
「二宮仕法」についてのみ述べる。
 相馬藩6万石の家老草野正辰まさときは二宮尊徳(天明7年-安政3年、1787-1856)に心酔していたと言う。また相馬藩士に二宮四大門人の筆頭と呼ばれる富田高慶たかよしがいた。富田の妻は尊徳の娘であったから、尊徳から信頼されていたものと思われる。
 弘化2年(1845)、家老草野は国家老池田胤直たねなおとともに富田を励まし、二宮仕法を領内で実施させたのである。尊徳は一度も相馬藩を訪れなかったが、藩の依頼により「分度ぶんど」は尊徳が立てた。分度とは天から与えられた分限を測度すると言う意味で、自分の実力を知りそれ相応の生活の枠組を定めることだと言う。尊徳は藩から寛文5年(1665)〜弘化元年(1844)までの年貢を調べたものを提出させ分度を立てた。
 仕法役所が設立され、富田を中心に仕法作業は進められた。まず実験として2村(坪田村、成田村)が選ばれ、各戸ごとに家族数・男女老幼別・耕地面積・自作小作別・収穫量・家畜の有無・負債金額の程度などが厳密に調査され、「入るをはかって出ずるを制する」の方針で仕法が開始された。
 
 両村の村人に至誠・勤労・推譲(すいじょう、他人を推し、自らは控える意)・分度の4カ条が説かれ、荒地開墾・米穀増収・家計整理などの方法が指導された。努力している者を村民の記名投票で選び、選ばれた者に無利息金を貸与して表彰するなど、「十目の見る所、十指の指す所」(十目=じゅうもく=多くの目、十指=じゅっし=多くの指)を方針にすべて公平に投票で選ぶ方法を採った。また、暇をみて無理なくできる「縄ない」(草鞋作り)を奨励し、完成した草鞋を仕法役所で預かり、これを金銭に替えて蓄え後日倍額にして返した。
 二宮仕法は順調に進み、困窮状態を脱した村は「仕上げ村」と呼び無利息金を貸与し、村民の借金を返済させ、さらに凶作に備えて新たに倉庫をつくり、各戸1人につき籾6俵の計算で給与し蓄えさせた。仕法は廃藩置県の明治4年(1871)まで続き、相馬藩領内3郡226村の内、101村で仕法が行なわれ55村で完了したと言う。