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藩政改革・東北諸藩                                                                                                                  江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

 

  ■米沢藩
 慶長3年(1598)、上杉景勝が越後から会津120万石に転封させられた時、重臣の直江兼続(なおえかねつぐ)は豊臣秀吉によって米沢30万石を給与されている。慶長6年、関ヶ原の戦による処分で景勝は兼続の所領のみを給与される。寛文4年(1664)、第3代藩主綱勝(正室は保科正之の娘)は嗣子がないまま亡くなる。定めにより上杉家断絶の処分となるはずだったが、将軍家補佐として幕閣の中心にあった会津藩主保科正之の斡旋で危機を回避する。が、15万石に減封。上杉家の不幸は約5000人の家臣団のまま120万石から15万石、およそ10分の1となったことにある。15万石の内、13万5000石が藩士への俸禄だったと言う。

 藩政改革と言えば上杉治憲(はるのり、号は鷹山)と第一に名が挙がるほど有名である。よってweb上にもあるだろうから、この藩は簡単に通り過ぎたい。
 慶安4年(1651)、置賜(おきたま)地方の田畑と青苧(あおそ、イラクサ科の多年草で麻の原料)の検地を行ない、この地へ青苧の皮530駄(1駄=37貫=139`)を割当て、これを藩が買い上げ御用商人を通して奈良市場へ売った。奈良は奈良晒(ならさらし)の産地として有名であった。割当てた530駄は役苧、蔵苧、長苧などと呼ばれていたが、元禄以降になると商人苧が登場してくる。
 商人苧は選苧(えりそ)とも呼ばれ質が良かった。その生産地は役苧畑が少なかった北条郷(現、高畠町・南陽市)へ広がっていた。藩の郡代頭取・森平右衛門は蔵苧同様の統制品にする旨を北条郷に伝えた。これに北条郷の百姓が反対したことから宝暦10年(1760)、青苧騒動が起きる。商人苧は北条郷などの上層百姓が地方商人(じがたあきんど)として周辺百姓から青苧を買い集め、これを越後の小千谷・十日町などの青苧商人へ売っていた。越後縮(えちごちぢみ)の原料になっていたのである。
 森平右衛門は第8代藩主重定の寵臣だったが3年後、後に第9代藩主治憲によって国家老に登用される竹俣当綱(たけのまたまさつな)らに暗殺される。財政窮乏は藩政分裂を招くと言えよう。
 置賜地方をもう少し眺めておこう。この地は特産物の宝庫だったようだ。
 明暦元年(1655)、藩は漆木の数を26万木と確定し年貢蝋を徴収する。漆木の実から燈火用の蝋が製造できるのである。当時、上層百姓が「木実きのみしぼり」を行なって蝋を造っていた。元禄期(1688-1703)には藩は漆蝋を藩直営とし「筒屋」(どうや、会所のようなもの)を設置し、すべての漆の実を買い上げるようになる。役木は26万木で変わらずだが、無役木が増え合計49万木に増えていた。よって専売制に移行したわけだが、藩が買値を安く叩いたのであろう、治憲の改革前には合計19万木へ激減する。

 治憲が藩主に就くのは明和4年(1767)。改革は竹俣による明和・安永年間の前期と、中老として莅戸善政(のぞきよしまさ)の寛政期の後期に分けられるが、前後期を通した要点を以下に挙げてみた。
 
 A倹約令を布く。藩主生活費1500両→209両、奥女中50余人→9人。
 B樹芸役場や縮役場、蚕桑役局を設置して、漆・桑・楮を各100万木の植え立てと、漆器・絹織物・手漉き和紙
   の生産。
 C金主と交渉して新旧すべての借財を無利息50年賦とする。
 
 治憲が亡くなった翌文政6年(1823)、借財を
ほぼ返済し軍用金5000両の蓄えがあったと言う。治憲の信条は孔子の「欲速則不達」(速きを欲すれば、すなわち達せず)にあったと伝わる。


 庄内藩(鶴岡藩)
 元和8年(1622)、最上家が改易となり酒井家が13万8000石で入府する。領内に湊町酒田がある。酒田は明治期に日本一の大地主となる本間家の本拠地であり、本間家は俗謡に「本間さんには及びもしないが、せめて酒田の殿様に」と唄われる大豪商だった。当然、藩政に強い影響力を及ぼした。従って、庄内藩の藩政改革は本田家がどのように関わったかを記せば足りると思う。

 本間家の初代原光(もとみつ)の祖先光重は越後の出身で永禄年間(1558-1569)に酒田へ居住した。その曾孫光定は酒田36人衆の一人に数えられたと言う(諸説あり)。36人衆とは、戦国期に酒田の自治を守り抜いた廻船問屋を営む地侍的な豪商たちを指す。酒井家の庄内入府にともない仕官の誘いがあったが、36人衆は武士登用を断わった経緯がある。酒田湊は庄内藩の町奉行支配となり、藩政機構に組み込まれる。が、36人衆は仲間を組織して町運営にあたっており、仲間を代表する町年寄の下で自治的な面も残されたと言われる。
 天和2年(1682)の酒田の家数は2251軒、人口1万2604人。これより100年ほど後の明和7年(1770)の鶴岡城下の人口は家臣数9206人、町人8499人、合計1万7705人。酒田の町が繁盛するのは宝永年間(1704-1710)以後なので、鶴岡城下よりも住民数は多くなったと思われる。
 本間家から話が外れているが、もう少し酒田のことを書く。天和期頃の船の出入りは2500〜3000艘、移入品は播磨塩、大坂・堺などの木綿類、美濃茶など、移出品は南部・津軽・秋田の木材、内陸最上方面からの大豆・雑穀など。船の出入りは春〜秋であったが、諸国から集まった商人、船頭・水主かこ、幕領・諸藩の廻米担当の役人などで賑わった。享和期(1801-1803)の遊女屋の数は30余軒、文化10年(1813)に遊女が公許されると80軒近い花街が出現した。沖縄訛の言葉が流行ったり、幕末には大坂弁でないと通用しなかったとも言われ、酒田湊の全国性が知られる。

 
本間家
 
初代原光は古手(古着)、染物、金物、小間物などを扱い大いに商いが繁昌した。2代光寿(みつとし)米札などの売買と上方商品の遠隔地取引で成功する。庄内藩との関係は初代原光が宝永7年(1710)に300両を御用金として献上したことに始まる。御用金献上額では元文2年(1737)に2番目と倍差となる最上納者になっている。
 庄内藩と関係が深まるのは3代光丘みつおかが家業を継いだ宝暦4年(1754)からで、宝暦10年3140両、明和元年(1764)に1000両を献上。この功により30人扶持御手廻格御小姓支配(おてまわりかくおこしょうしはい)に任ぜられている。光丘が藩政に直接関与するのは明和4年以降となる。財政整理の担当役人「御家中勝手向取計」(ごかちゅうかってむきとりはからい)に任ぜられ、高利の借財がある困窮藩士を救済するため低利の4000両を融資する。翌明和5年、大津商人からの借財「大津借」を整理して領内の富裕者からの借金に切り替えた。
 この他に鶴岡城や米置場などの修復普請を私財で行なったり、籾2万俵を献上し備荒制度を確立したりして、明和7年に500石30人扶持に加増され上級家臣待遇となる。
 安永4年(1775)、光丘は第8代藩主忠徳ただありに「庄内江戸御勝手御用掛ごようがかり」となって財政再建するよう懇請される。断わり切れず翌年「安永御地盤組立おじばんくみたて」を提出。これは、今後3ヵ年その方策を励行すれば財政を再建できる収支予算案であった。この年、備荒籾4000俵献上。
 安永6年、「元締上席」に任ぜられ、大坂に上がり神戸の俵屋から月割9000両の融資を受け、高利で借りていた「御暫借」「御買物」などを整理する。安永元年から7年間続いていた賄をやめ、幕府からの借金2万両を返済。ところが翌年凶作で再び財政悪化、光丘は退任。

 天明元年(1781)、藩主忠徳は倹約令を布き、光丘に復任を懇請。先の退任は讒言によるものであったようで、藩主忠徳は光丘に藩主への随時謁見の特権を与え、郡代(農村行政の最高職)同等の権限を付加した勝手御用掛に任じた。
 光丘は安永期同様に「天明御地盤組立」を提出。これは過去数年間の米価の平均などから藩収入を推計し、支出の多い江戸勝手方の一ヵ年の支出を2万5000両、及び一ヵ年の用度を1800両に緊縮した上で借金の年賦返済を計画したものだった。また米金を扱う役所を3年間廃止して、すべての出納事務を元締役所へ集約した。
 困窮藩士は元締役所からの保障を得て藩士自身が商人から借金していたが、それだと高利になるため元締役所が低利な融資を行なうようにし、藩士に高利な借金の整理をさせている。農村においては、役人が村々を検分する際に村の経費で役人を接待饗応していたものを藩の費用に改め、その基金として光丘が100両献上し自身が会計事務を担当。
 こうした結果、天明元年の末には1480両の余剰金、1900両の蓄えができ、翌年には軍用金1500両の他に大坂からの借金1万両を返済するに至った。しかし、天明3年の大凶作で財政は再び行き詰まるのであった。

 家臣・米札・賄
 庄内藩の家臣は「家中」と「給人」に大別される。通常だと「給人」は侍身分なのだが、この藩は徒かち、足軽、中間ちゅうげん、荒子あらしこ、などを指している。「家中」は侍身分であり俸禄として知行を与えられている者を指す。延宝3年(1675)の分限帳では家中517人、100石〜200石の層が最も多い。給人の数は正保4年(1647)で徒60人、持筒25人、足軽1000人、諸役人321人、旗差110人、中間511人、の合計2027人。時代が30年ほど違うが庄内藩の家臣は家中+給人で2500人ほどとなる。よって家臣数9206人は家族を含んだ数字であろう。

 家中は知行、給人は扶持米や切米を支給された。江戸期の知行には地方知行と蔵米知行がある。地方知行は給付された土地を直接支配するが、蔵米知行は給付された土地を藩の担当役人が支配し、その土地の年貢米を藩の蔵米から支給する形である。地方知行は同じ100石でも給付された土地の質によって差異が生じることや、年貢率が恣意的に高下することから、地方知行から蔵米知行への移行が一般的であった。宝暦8年(1758)の庄内藩の地方知行は6人しかおらず、その合わせた石高は224石にすぎない。
 従って家中への物成渡し(年貢米支給)は藩の平均免(四ツ=40l)で行なわれた。ただし寛永元年(1624)からは米そのものではなく米札で渡されている。給人の扶持米・切米も同様である。家臣たちは米札を米と貨幣に交換する必要がある。藩は明暦2年(1656)に4人の米宿(米穀問屋)に米相場所を開設させ、毎夜相場を立てて米札の売買に支障が生じないようにしている。延享2年(1745)には25人の両替屋も米相場立てに参加させているから、米札は貨幣同様のものになったと言える。
 
 賄(まかない)とは切米(期限をきって渡される扶持米)のようなもので、知行から給付される年貢米を藩が家中から全部借り上げて、と言っても後で返すことはなかったが、一日何合という生きていける分量の米を支給することを指す。藩財政が逼迫すると手軽な仕法なのでどこの藩でも行なわれたのが「借り上げ」だが、全部借り上げるのは珍しく、せいぜいが知行の半分=半知借り上げ、までである。庄内藩の窮乏度が伝わってくる「賄」である。

 
本間家の家訓
 光丘の仕法は特産品を根気強く育て上げるものではなく、銀行の融資担当者のごとく利息を強く意識したものだった。手っ取り早く効率よく高利を低利に借り替える。カネがもとからない者にとっては低利でも返せないもの。藩の出納内容を熟知し、藩士百姓の困窮ぶりを知悉した光丘が、家中には米札を担保に、百姓には耕作地を担保に融資するとどうなるか。耕作地は集積され年貢米(米札)も余剰米も集まり膨大な利益を上げたものと推測される。
 そんな光丘が明和7年(1770)に七ヵ条の家訓を遺している。
 
 A朝寝すべからざること
 B万事勤方(ばんじつとめかた)忘れるべからざること
 C米金などの請合(うけあい)に加判すべからざること
  
[藩の米をいくらで買い上げるという証文の保証人に名を連ねてはならない。米には相場があり大坂に廻米するには船事故の危険があった]
 D酒盛の二重盃(はしご酒のこと)は致すまじきこと
 E穀物の買入は到すべからず
  但し、売払いを請負った米がある場合は速やかに売払うべきこと
 F無用の者、出入りすべからざること
  
[家が繁昌すると色んな人間がカネ目当てに寄ってくるから注意しなさい]
 G無用の者、夜行(夜遊び)すべからざること

 三方領地替え
 天保11年(1840)11月1日、第9代庄内藩主忠器(ただかた)は幕府から越後長岡7万4000石へ転封を命じられる。半分の減封である。長岡藩は武蔵国川越7万石へ、川越藩松平家15万石(分領に前橋7万5000石)は庄内へと言う三方領地替えであった。この命令は大御所として権勢をふるう前将軍家斉によるもので、老中の評議を経たものではなかった。
 川越藩松平家は越前松平の一家で親藩大名。藩に信用がなく貸し手がいないほどの財政難にあった。第8代藩主斉典なりつねは将軍家斉の24番目の子紀五郎を養子にもらい娘と縁組させたのを機会に、播磨国姫路15万石への転封を画策する。しかし、失敗する。次いで酒田湊を抱える肥沃な地・庄内への転封を願う。これが許されたと言う経緯であった。
 長岡藩牧野家は譜代大名、第10代藩主忠精ただきよから3代にわたり幕府老中を務めている。が、天保6年に領内の新潟湊において、薩摩船と新潟商人との唐物抜荷が発覚し、罪人54名の事件となっている。
 庄内藩酒井家は譜代大名、第5代藩主忠真ただざねは幕府側用人、6代藩主忠寄ただよりは幕府老中となっている。代々の藩主の官位は従四位下で越前松平家と石高ともに同等である。が、事実かどうかは別として芳しくない噂が藩主忠器にあった。天保の大飢饉の際、酒田湊へ大勢の女中を連れて繰り出し、本間家から盛大に歓待されたことが、女中の口から洩れて江戸で噂になった。また領内で贋金が流通しているとの噂もあった。しかし、長岡藩のように領内から罪人を出したわけではなく、所替を命じられるほどのものではなかった。
 なぜ転封なのか。藩も領民も転封に反対した。その理由は以下のようなものだった。

 藩→2分の1の減封。移転費用9万3000両が調達不能。本間家は割当てられた7万3000両に対して4万2500両
    が限度と回答。
 百姓→藩が貸し付けていた米を転封前に徴収される。移転のための人足を徴発される。飢饉用の備荒籾を長岡
     へ移送するのは反対。上層百姓は検地帳の記載面積より広い「縄延び地」を保有していたため、新領主
     による再検地を恐れた。
 商人→移転費用の徴収と藩へ貸し付けた融資金=債権のこげつきを恐れた。

 転封から利益を得るものはどの層にもいなかった。反対が幕閣への駕籠訴かごそ、越訴おつそという行動になって現われるのは転封を命じられてから1ヵ月半後の12月13日。この日に出国した百姓21人の内11人が江戸に辿り着き翌天保12年正月20日、大老井伊直亮なおあき、老中水野忠邦、同太田資始すけもと、同脇坂安董やすただに駕籠訴する。
 法度を犯したわけだが、極めて寛大に取り扱われ調べにあたった役人の中には彼ら庄内百姓の言行に感涙した者もあったらしい。庄内藩邸に引き渡された後も、藩士らから絶賛され若殿も酒肴で彼らをもてなしたと言う。
 反対運動は当初、百姓の多くに支持されたものではなく、上層百姓が路銀を出して越訴志願者を募っても集まらなかった。しかし、上記のように幕閣の寛大な措置と江戸藩邸の歓迎の話が国元へ伝わると、続々と越訴者が江戸へ向かった。
 そして上記駕籠訴から1ヵ月余り後の閏正月晦日に、大御所家斉が亡くなる。勢いを得た庄内百姓は武士階級が反対しがたい大義の旗を掲げる。「雖為百姓不事二君(百姓たりといえども二君につかえず)。近隣諸藩へ嘆願し各藩士たちを感服させたり、実際に仙台藩主などは庄内百姓に同情し幕府を批判する伺書を幕府へ提出している。幕閣内部には対立が生じた。転封推進派の水野忠邦と同情派の太田資始が対立し、太田は老中職を辞任する。
 一方、川越藩に内通して利権を獲得しようとする商人や、下調査に川越藩士30余人が庄内に訪れたりした。百姓らは領内に川越藩主の悪評を流布し、所替後の再検地の不安を煽り、反対層の結束をはかった。
 同年6月7日、将軍家慶いえよしが水野忠邦へ三方領地替えの中止を指示する。が、水野はタテマエにこだわった。大御所家斉のごり押しとは言え、形式的に老中の評議を経て将軍の名で公布している、これを覆すことは将軍であろうとできるものではない、そう水野は主張し、御庭番に庄内藩が百姓を煽動していなかったか内偵させた。また、庄内藩から幕閣への賄賂はなかったか江戸町奉行に探らせた。だが、そうした痕跡はつかめなかった。
 同年7月12日、将軍家慶は三方領地替えの中止を公布する。幕府の威信は失墜したが、9月庄内藩主は江戸城登城時の控部屋を溜間詰たまりのまつめから帝鑑間詰ていかんのまつめに格下げされ、翌年幕府からの預地あずかりち2万7000石が引き上げられた。

 預地
 用語解説を兼ねて庄内藩の「大山騒動」について記しておこう。上記の2万7000石の領地は大山・丸岡・余目・由利であった。天保13年に幕府領に戻され尾花沢代官所の支配とし、大山に陣屋を置き手附1名、手代2名を常駐させた。ところが翌14年天保の改革が失敗し水野忠邦が罷免されると、再びこの地域は庄内藩の預地となったのである。
 きわめて短期間だったがゆえに、幕府領民を経験した百姓らは再び庄内藩の預地に戻されるのを嫌い、支配替え反対運動をする。中心になったのが大山で酒造業を兼ねる百姓たちだったことから「大山騒動」と呼ばれる。庄内藩は長岡転封一件とは逆の立場を味わうことになったわけだ。この騒動の結果は百姓側に3000余人の処罰者を出して決着している。庄内藩への再度預地の決定は覆らなかった。
 百姓たちの主な反対理由を挙げると、幕府領と大名預地の支配内容が判るので以下。

 A庄内藩は金納分年貢の石代を高く百姓から取り立て、幕府には安い石代で勘定して中間差益を不当に得て
   いる。 
 B幕府は年貢未納の場合、その分を無利息10ヵ年賦にしてくれた。

 C庄内藩は大山酒役銭やくせん850貫文(120両)を課したが、幕府支配となってから100石3歩の役銭(23両)で
   済むようになった。
 D庄内藩は大工・桶師・左官・鍛冶・葺師など各種職人に役銭を課したが、幕府支配になってそれらは廃止され
   た。
 E庄内藩の施政は殺伐で以前口論から御家中が足軽を殺害した。理由もなく逮捕・殺害することがあり、百姓の
   我々は恐怖している。

 幕府より大名へ預けられた地は、幕府領規定の年貢現物米を幕府の蔵へ納めれば、大名藩内の統治と変わるところはなかったと言える。