■左図は「国産考」(岩瀬文庫蔵) 産物会所へ産物を収める百姓の図。 財政の逼迫から諸藩が本格的に取り組んだのが藩政改革。それに伴なって登場してくるのが専売制度であった。領内で生産された特定の産物品や、領外から移入された産物品の販売を独占する制度だ。独占する一般的な方法は→A藩自体が直接に買い占める。B有力商人(高利貸資本)を通して藩が間接的に独占する。 Aは専売機関として国産会所・産物会所および役人を設置したり、生産地に出張所を設けて産物品を独占する。「会所」とは取引所のこと。
Bは有力商人が会所の頭取に任命され、藩に代わって買占めにあたる。この際、会所が藩札つまり領内のみの流通紙幣を発行し、これで産物品を買占め、江戸や大坂市場などへ回送して幕府発行の、つまり全国流通金銀を得ていたのである。
■総論
藩政改革とは、藩の財政改革のことである。なぜ、改革せざるを得ない状態になったのか。順をおって説明したい。
武家の財産は土地である。土地は1反(300坪)当たりの米の標準生産高を基本とし、単位は石(こく)であり生産高を石高と呼び(石高制)、またこれを知行高(ちぎょうだか)と称した。幕府は将軍の代替わりごとに判物(はんもつ)ないしは朱印状を与え所領を安堵した。朱印は将軍の専用で大名、旗本は黒印を用いている。大名の所領は「領分」、旗本の所領は「知行所」という。
土地の標準生産高は幕府が算定したもので、大名が幕府より宛がわれた土地に入部すると、所領内の検地を行なう。幕府の検地は全国的なものなので、計数漏れの縄外れ地や隠し田畑などが出てしまう。大名はこうした幕府の検地帳から漏れた土地を把握すめために検地したのである。ゆえに表高(おもてだか)と実高の差が生じたわけだ。 年貢高の決め方には、検見取法(けみとりほう)と定免法(じょうめんほう)がある。検見取法は秋の収穫期に村内の1坪ごとの稲穂を3、4ヵ所で刈り取り脱穀して(これを坪刈りという)
、その平均値を出した後、これを300倍して1反当たりの石高を出して村の年貢高
=村高とした。定免法は村内の過去5年から10年の年貢高の平均値を出してこれを、それ以降の5年-10年の年貢高とする方法である。幕府は享保6年(1721)から定免法を採用する。以後、諸藩でも行われた。二つの方法の短所を挙げると以下になる。長所はその逆。
■ 検見法 短所→毎年のことなので豊凶によって年々差が生じる。検見する役人たちが賄賂や接待を強要して 課税に甲乙をつける。検見が終わるまで稲の刈取りを禁止される(鎌止めという) ため、米を収穫
した後に裏作物の作付けができない。
■定免法 短所→役人が過去の平均値より年貢高や課税率を高く設定することが多々あった。 |
課税率は荘園制以降の武家支配になってから、地頭4分百姓6分の比率であった。これを4公6民と称するが、秀吉統治下では地頭3分の1、百姓3分の2と緩和された。江戸初期は4公6民に戻り(これには他説がある)
、中期の享保期から5公5民となった。5公5民の「根拠とされる説」は、4公6民の時は籾納であり、これを米(玄米)納にすると5分取りになるというものだった。米納で4公6民が筋の通る話と思うが、この辺は歴史学の世界でもよく判らないらしい。ともあれ、課税率が高くなった感はあるが、生産力の伸長があるので初期に比べて厳しくなったわけではなかった。全国の総石高は、慶長3年(1598)は1851万石、天保元年(1830)には3055万石と約1.65倍になっている。
大名の経済状態である。大名は江戸初期から苦しかった。原因は以下。 A家臣団は戦闘集団であった。平和時には不要な人員が多かった。ために大名自身の収入分としての蔵入地 を割いて、家臣の知行地として与えねばならなかった。 B幕府への手伝い普請。自身の城下町の建設もあるが、江戸城、彦根城、静岡城、名古屋城の土木建築を手 伝わされた。初期のみならず江戸時代を通じて、上野・日光など寺社の造営・修復、街道・河川の改修などに 駆り出された。薩摩藩は宝暦3年(1753)末、木曽川の治水工事を命じられ翌年着工、宝暦5年に完成するが10 数万両との当初の見当が40万両となり、富裕町人たちから急遽大借金。総奉行の平田正輔は幕府による検 分の後、翌朝自刃している。 C参勤交代制による、江戸と国許の二重生活の費用と往復の旅費。大名経済の5割以上が江戸での生活費用 に消費された。庄内藩(鶴岡藩)では元禄15年(1702)から5年間の総支出が19万8400両、その内江戸での費用 が16万2500両、8割2分を占めている。 D武家の米経済は収入が固定しているため、貨幣経済の発展による経済規模の拡大に対応できなかった。ま た、武家の権威の象徴として、あるいは格式や威信を保つために高級衣料や調度品などの調達や、大名間の 婚礼・贈答品などに膨大な費用が掛かった。
上記に関連して、幕府は定免法を採用する享保6年の翌7年(1722)の5月に旗本・御家人への俸禄を減額 し、それを充当するために、同年7月上米(あげまい)上納を大名に強制する。1万石に付き米100石の割で献米。 大名への代償は、参勤交代の在府1年を半年とし在府費を軽減した。供出米を強制された大名は、藩士の俸 禄を削減して上納したが、藩士への代償はなかった。将軍吉宗は上米強制の折に、「御恥辱も顧みず」と自認
したとか、諸大名の前で頭を下げたとか言われている。
なお、武士の俸禄には3種類ある。知行取り=所領地の給与、単位は石。蔵米取り=米の給与、単位は俵、1 俵は4斗が平均。扶持取り=米の日給与、1人扶持は1日玄米5合の支給、白米に搗くと2割減くらいになろうか。
■財政が悪化した大名は、家臣からの借米(借上)
=実際は俸禄の削減、年貢の増徴、藩内だけ通用する藩札 の発行=全国(幕府)貨幣との交換比率は5割以下、藩札の嚆矢は福井藩の寛文元年(1661)、発行するには幕府 の許可を要した。節倹の奨励、商人への課税(運上金、冥加金)などの策で収入増をはかるが、これらは抜本的 な対策ではなく、一時しのぎに終わってしまう。新田開発や殖産興業とその専売制など本格的な対策が登場し てくるのは宝暦以降(1751〜)。これが藩政改革と呼ばれるものであった。
江戸時代は水田が畑と決定的に異なり、農業生産のすべてを水田生産力に置き換えて米納年貢に統一する 石高制で、畑地にも石高制が適用されて米生産量に換算された年貢が課された。
農業経営の観点からみると、田圃の畦に植えた大豆や小豆、あるいは縄ない、莚あみ、木綿織りなどは当 初、百姓が生活していく上での自給自足的なもので年貢の対象外で゙あった。しかし、城下町や宿場町、河岸場
など都市部の発達および加工業の発達から、百姓の自給自足品が換品・換金を伴なうようになり余業化してく
る。売れるものを栽培し、売れるものを加工する。年貢を皆済する自作農=本百姓の地位を守ることから始まった
自給自足品であったが、逼迫する藩財政下の領主側としては無年貢として放置できるわけもなく、取れるものは 取ろうと徴収に掛かる。さらに領主側は徳用作物の奨励、特産物の導入を促し、金銀増収をはかるようになる。 これが上記の宝暦期であり、稲作を百姓の第一の仕事とし「国の礎」とする石高制は、事実上崩壊し単なる「建 前」となっていくのである。
■蝦夷地・東北
■松前藩(福山藩)
この藩は特殊である。 蛎崎慶広(かきざきよしひろ)
は慶長4年(1599)、徳川家康に家譜と蝦夷島図を献上し姓を「松前」と改め、翌年福山 (現・北海道松前郡松前町)
に陣屋を築く。慶長9年、家康から蝦夷地の支配権を認められ藩を形成する。寒冷地により米作に適さないため石高を有せず、家臣に宛がう知行地もなかった。この藩の俸禄制は特異なもので、商場知行制(あきないばちぎょうせい)と称される。上級家臣には「商場」と呼ぶ沿岸の漁場を知行として支給、下級家臣には蔵米を支給した。知行主は漁期には船を商場へ派遣してその地のアイヌに酒、煙草、衣料品、米などを贈り、返礼に鯡(にしん)、鮭、鱒、昆布などをアイヌから得て帰り、それを本州から渡航してくる近江商人などに渡し、米、味噌、衣料品、など日用品と交換して生計の糧としていた。 元和年間(1615-1623)からは砂金が採集され藩財政は潤ったが、正保年間(1644-1647)には砂金は減少し藩財政が逼迫。寛文9年(1669)、和人(シャモ、本州人)の不正交易から蜂起したアイヌの総族長シャクシャインの乱があり、これ以降、商場を支給されていた家臣たちは、アイヌとの交易を主に近江商人に運上金を取って請け負わせるようになる。これを場所請負制と呼ぶ。 享保4年(1719)、松前氏は当初幕府から蝦夷島主として賓客待遇を受けていたが、この年1万石格とされ、交代寄合のまま大名同然に処遇される。交代寄合とは1万石未満の石高でありながら参勤交代(松前家は3年に 1回)を行う格式の家を指す。翌々年7代藩主となった邦広(享保6年〜寛保3年、1720-1743) は税制改革として昆布役、穀物役、鱈役、鮫取役、出油役、入酒役などの新しい課税制を布いた。元文5年(1740)、蝦夷地の海産物が長崎俵物(たわらもの)に指定され幕府が買い上げるようになる。松前、江差、箱館の三湊の問屋で結成された株仲間が俵物の集荷に携わった。幕府が買い上げるようになってから延享5年(1748)、入津する船の積載荷物への課税として以前より領民の反対が強かった新税、入津する船の積載荷物への「沖ノ口入品役」が布かれた。 長崎俵物とは煎海鼠(いりこ) 、干鮑(ほしあわび) 、鱶鰭(ふかひれ)
の三品を指し「俵物三品」と呼ばれた。他の海産物として昆布、鯣(するめ) 、鶏冠草(とさかぐさ)
、所天草(ところてんぐさ) 、鰹節、干魚、寒天、干蝦(ほしえび)
、干貝などがあるが、これらは俵物諸色(しょしょく)と呼ばれた。元禄10年(1697)、煎海鼠、干鮑、昆布、鯣、鶏冠草は1俵に120斤、鱶鰭は1俵に60斤と定められ、翌年銅代替物の貿易品となっている。なお鱶鰭が俵物三品となるのは明和元年(1764)とも言われる。
藩主邦広の税制改革は効果をあげた。享保元年の藩庫は1050両、没年の寛保3年には10650両と20年間で10倍ほどの蓄財を生んだ。しかし、次の藩主資広(すけひろ)以降再び財政は悪化するが、この藩については明治2年まで簡単に記す。
寛政11年(1799) ロシア船に対する沿岸警備を理由に7カ年を限り、浦
河から知床岬までの地を幕府に召し上げ られる。 文化4年(1807)
幕府から蝦夷地全島の上知を命ぜられる。代替地として陸奥伊達郡梁川(やながわ)、上野甘 楽(かんら)郡・群馬郡、常陸信太郡・鹿島郡に都合9000石を支給される。政務は梁川におい
た。蝦夷地には幕府により松前奉行が派遣された。 文政4年(1821)
福山に帰封が許される。 天保2年(1831)
1万石格に復帰。 嘉永2年(1849)
幕府から防備のため福山陣屋を改めて築城するよう命じられる。 安政元年(1854)
福山城が日本最後の旧式城郭として竣工。 安政2年(1855)
箱館開港。幕府は東は木古内(きこない)以北、西は乙部以北の蝦夷地を箱館奉行支配の直轄
地とする。松前藩領は福山地方だけとなったが、梁川、出羽村山郡東根で都合3万石を支給
され、他に幕府から預かり地として村山郡尾花沢1万4000石余りを任され、3万石格に昇進す る。
元治元年(1864)
幕府より乙部から熊石に至る地が返還される。 明治元年(1868) 3月、箱館奉行に代わって新政府の箱館府が設置される。藩内の勤王派・正義隊がクーデタ ー。8月、職制を改め軍謀・合議・正議の3局を設置し役人を公選とする。10月、福山城が海か らの艦船攻撃に弱いため新城を、檜山郡厚沢部村(ひやまぐんあっさぶむら)の館(たて)に築き移る。 同月、榎本武揚の幕府脱走軍が上陸。11月、福山城、館城ともに落城。 明治2年(1869)
4月、新政府軍が攻撃開始。福山城を奪還する。5月、五稜郭を拠点にしていた脱走軍降伏。 6月、藩主脩広(ながひろ)は版籍を奉還し、知藩事となり藩名が館藩となる。 |
■津軽藩(弘前藩)
陸奥大浦城主・大浦為信は津軽地方を統一し姓を津軽と改め文禄3年(1594)、居城を大浦から堀越(現・弘前市)に移した。慶長5年(1601)、幕府から上野大館領2000石を加増され、為信は4万7000石の大名となる。2代藩主信枚(のぶひら)
は慶長16年(1611)、高岡に城を築き家臣と商工業者を集住させ城下町を建設する。この城下町は寛永5年(1628)に弘前と改称される。 前後するが、元和6年(1620)に新田開発令が布かれる。この藩では新田開発や新町の建設を「派立」(はだち)と呼んだ。開発方法により「小知行派(立)」(こちぎょうはだち)と「御蔵派(立)」(おくらはだち)がある。小知行派とは下級藩士や地主層が開発主体となったもので、藩は自ら開発費を投下せずに彼らが開発した新田の一部を彼らに与え、地主層へは他に士籍を与え、残りの新田を藩のものとした。御蔵派は藩営の派立のことである。貞享元年(1684)から4年掛かりで行った領内総検地で内高26万1800石となった。
元禄8年(1695)大凶作、餓死者3万人。幕府から救済資金の8000両借用、家臣1000余人へ暇を出すなどして凌ぐが、以降も凶作・飢饉にしばしば見舞われる。江戸や上方の有力商人、領内の富商・富農から借財し、家臣からも知行借上げする。借財が35万両に達した宝暦3年(1753)、7代藩主信寧(のぶやす)は乳井市郎左衛門を登用して藩政改革を断行する。 150石の軽輩から抜擢された乳井(にゅうい)は、御調方役所(おととのえかたやくしょ)を開設し大坂から送っていた江戸藩邸の諸経費を国許からの仕送りに切り替え、借財していた富商らに返済を延期して整理をはかった。また農村における商業を弘前、青森、鯵ケ沢の他は禁止し、領内商人から士分取立てを条件に御用達金を徴収し、運送方の役人および手伝いに任命して、藩が商業流通路を一手に掌握。領内産馬の移出禁止を解除し、特産の丹土・硫黄・兼平石を採掘して移出税の増徴をはかる。 宝暦5年(1755)、大凶作に見舞われて改革は一頓挫するが、1人の餓死者も出さなかったという。翌年、乳井は大胆な政策を断行する。内容は以下。
A標符(ひょうふ、米切手)を発行し、領内取引を標符で行わせ正貨を藩に取り込む。 B商人に兼業を禁止し一商家一家業を守らせ、また一切の物資をはじめ蓄えている金銀銭米を残らず書き上げ
させ、それを一旦藩に上納させた上で家業別に再配分し、これを標符でもって売買させ、その利益の1割を保
証し他は藩に上納させる。 C領民が生活必需品を購入する際は弘前、青森、鯵ヶ沢に設置した員数役所の監督のもとで買わせる。員数役
所の産業方役員・両替方役員・米穀方役員には、運送方の子弟や有力商人を任命する。
D領内の貸借関係は帳消しにして、他領からの借財は藩が弁償する。 E藩士は禄高に応じて生活を保証するが、知行は蔵入とし標符で支給する。
これらの政策によって領内の経済は大混乱し、乳井は2年後の宝暦8年罷免。改革は失敗した。 明和3年(1766)大地震、天明3年(1783)大飢饉で藩財政は破綻の危機に陥る。8代藩主信明(のぶはる)は凶作で荒廃した田畑の復旧を、藩士の帰農土着策で切り抜けようと試みた。9代藩主寧親(やすちか)は前代の政策を継承。知行200石以下の藩士の土着を勧め、土着藩士と農民の縁組も許可し、土着のまま藩士は勤番する兵農一致策を布告。だが荒地の開墾を行わず年貢の先納を申し付ける土着藩士や、農村に奢侈な風俗をもたらすなど弊害が目立ち、寛政10年(1798)、藩は土着藩士に城下・弘前へ引き揚げることを命じた。武士の帰農土着という、江戸時代の兵農分離の原則
=武士の城下集住策に反する奇策は失敗に終わった。
付記 藩政改革によって宝暦6年(1756)に廃止された組織がある。「早道之者」(はやみちのもの)がそれで、いわゆる忍びの隠密組である。延宝2年(1674)の創設。4代藩主信政が江戸において近江国甲賀郡出身の中川小隼人を200石で召抱えたのがきっかけとなっている。 延宝2年、中川小隼人に足軽10人を預け陰術の指南・支配を命じた。当初は「小隼人組」「小隼人目付」などと呼ばれていたが、藩主信政が「早道之者」と命名され、20名に増員される。元禄9年(1696)に小隼人が亡くなると大目付支配となった。主な役務は藩士らの監視だったと言う。身分は御目見以上、世襲であった。 廃止されたが、5年後の宝暦11年(1761)に復活し明治3年(1870)まで続いた。想うに藩士の監視だけに20名は贅沢であり、さらに他藩が忍者組織を廃止した江戸初期から半世紀以上後に創設は奇妙である。おそらく蝦夷地松前藩の監視や因縁ある南部藩の動向を探っていたのではなかろうか。
■南部藩(盛岡藩)
戦国時代から支配してきた津軽地方を大浦(津軽)為信に領有されたが、天正18年(1590)、南部信直は南部内七郡なんぶうちしちぐん→糠部ぬかのぶ、鹿角かづの、閉伊へい、岩手、志和、久慈、遠野から成る本領を豊臣秀吉から安堵される。 寛永10年(1633)、北上川と中津川を外堀的に利用した花崗岩台地に盛岡を築く。城下の町割は交通量の少ない盛岡が繁栄するよう「五ノ字」型とし、城を中心に第一圏を500石以上の上級武士の住居、第二圏に商人・職人などの町人を、第三圏に500石以下の中・下級武士を、城下から周辺の村々に通じる街道はずれに足軽を配置し、城下北東の山麓に防衛上から神社仏閣の移転・建立を行っている。 寛永11年(1634)、2代藩主重直の時に将軍家光より、陸奥国10郡(北、三戸、二戸、九戸、鹿角、閉伊、岩手、志和、稗貫、和賀)10万石の所領が安堵される。その内高は20万5554石で表高の2倍であった。 貞享元年(1684)、南部藩の総人口は30万4368人。この内、城下には11lが住居し、その内訳は武士人口(足軽、奉公人も含む)は2万2025人、町人人口は1万2272人。
「田舎なれども南部の国は西も東も金の山」と南部牛追歌にあるように、江戸初期は鹿角の白根しらね、尾去沢おさりざわ、紫波郡しわぐんの佐比内さひないの金山が栄えたが、寛文期(1661-1672)の初め頃から銅山へ転換していく。幕府は正徳5年(1715)に長崎から流出する金銀の代物(だいもつ、代替物のこと)として銅を定め、各地の主要銅山に生産割当てを行う(貞享2年=1685から銅は輸出されていた)。 南部藩の鹿角の銅山(白根、尾去沢、立石)も指定され年間65万斤きんを大坂吹屋(ふきや、精錬所のこと)へ渡すよう命を受ける。幕府の買値は安く請負業者は変動した。そのため、藩は明和期(1764-1771)から直山(じきやま、藩直轄鉱山)として経営するようになる。 また長崎貿易は元禄11年(1698)から、銅による決済銀8000貫目の内、2000貫目が俵物・諸色しょしきによる決済となる。三陸沿岸は海産物の宝庫で長崎俵物の原料である海鼠なまこ、鮑あわび、鱶ふかや昆布、鯣するめ、天草などの諸色が獲れた。延享元年(1744)、幕府は俵物を集荷するため各地に長崎俵物一手請方問屋の下請問屋を指定する。南部藩でも有畑(青森県上北郡横浜町)や野辺地などの商人が下請問屋となっているが、特に吉里吉里きりきりの前川善兵衛は積極的に買い集めた商人として有名である。 以上のように幕府長崎貿易に貢献した南部藩であるが、藩政改革に見るべきものはない。享保8年(1723)に沖弥市右衛門が藩財政を再建しようとするが、数年後に反対派重臣層から罷免されている。専売品として慶安4年(1651)から紫根(しこん、染料の原料)、寛政4年(1792)に塩、天保3年(1832)に三陸沿岸の海産物、弘化4年(1847)に産物会所を設置して大豆、海産物を預り切手発行による独占などあるが、いずれも途中で中止している。理由のほとんどは領民の反対である。
南部藩は諸藩の中で最も百姓一揆が多かったところである。 「サムサノナツハオロオロアルキ」と岩手県の作家宮沢賢治は書いているように、初夏に太平洋側に吹く冷たい北東風「ヤマセ」は霧や長雨による冷害をもたらし、南部藩の凶作の発生回数は大小合わせて92回、その多くは寛文7年(1667)〜天保9年(1838)の171年間に集中していると言う。 しかし、まったくの天災でもなかった。当時の農業技術から考えると、盛岡以北の所領は水稲栽培の限界地域にあった。にもかかわらず、南部藩は畑作よりも水田耕作を強制した。江戸時代は米を中心とした石高制社会ではあったが、南部藩は殖産興業を怠り、採掘や漁猟など不安定な自然資源に寄り掛かり過ぎたと言えよう。
凶作の他に大井川や日光本坊など幕府への御手伝普請、蝦夷地警衛(文化5年=1808、藩士1200人派遣の功労か田名部地方を防衛地として所有できなかった幕府の意趣返しか、諸説あるが
20万石に格上げされる。ただし所領は以前と同じ)などから藩財政は逼迫した。天保7年(1836)の凶作と前年に発行した銭札(ぜにさつ、七福神札と呼ばれた藩札)による物価騰貴から大規模な百姓一揆が起こる。
◆銭札相場(当時の相場は金1両=銭6800文。米1駄とは牛馬1頭につける荷重を1駄と呼び、標準は36貫=135`) |
年月日 |
金1両に対する両替価格 |
銭札による米1駄の価格 |
天保6.10 |
正銭6800 |
銭札6800 |
5500 |
天保7.04.05 |
上同 |
13000 |
12500 |
天保7.07.15 |
上同 |
14000 |
25000 |
天保7.08.13 |
上同 |
22000 |
60000 |
天保7.10.21 |
上同 |
62000 |
110000 |
天保8.01.20 |
上同 |
180000 |
1000000 |
天保8.01.27 |
上同 |
450000 |
銭札通用禁止 | 銭札が発行1年余りで紙くず同然に大暴落していく。兌換準備金の目処が立たないまま見切り発車した、無節操な藩の有り様を数字がよく表わしている。通用禁止は藩自らが決めたのではなく、天保7年末に幕府の命令があったからである。 百姓一揆は、盛岡以南の稲作地帯である北上川流域にある和賀・稗貫ひえぬき両郡の百姓数千人が、年貢減免、銭札停止、買米反対の要求を掲げ二度にわたって城下へ強訴したものであるが、要求が受け入れられないと見るや、翌天保8年(1837)正月、隣藩の仙台領へ逃散し仙台藩へ強訴に至る。さらに弘化4年(1847)、閉伊郡の野田、宮古、大槌の百姓1万2000余りが決起する。いわゆる二度にわたる三閉伊さんへい一揆である。
三閉伊一揆の背景はこうである。天保7、8年に一揆があったにもかかわらず藩政の中枢となった加判役の横沢兵庫は、北上川流域地域への遣り直し検地による年貢増徴と、新しく蔵元(藩の蔵屋敷に保管してある年貢米や特産物の出納を担当、ほとんどが「掛屋
かけや」を兼任する。掛屋は蔵屋敷の保管物資を売り捌き、物資の出納・代金授受から国元・江戸藩邸への物資・資金の送達を担当、蔵元も掛屋も大坂の豪商が多い)になった大坂商人・鴻池こうのいけ伊助、肥前屋篤兵衛と、御用達となった近江商人を含めた5人を資金源に、産物会所と藩札会所を設置し預り切手による大豆、海産物など国産品の独占と、その領外移出する専売仕法を実施する。 しかし、藩はこの専売仕法が軌道に乗るまで待てなかった。弘化4年、目先の窮乏を凌ぐため領内各地を棟別に分けて御用金を課したのだった。これをきっかけに、専売制によって藩と結んだ商人に生産物を買い叩かれる領民が立ち上がったのである。この時は、藩が軒並みに役銭を課すことを止め、横沢兵庫の中枢からの退任で事態が収拾する。 が、財政再建の代替案もない藩は約束を破り役銭を復活。これに三閉伊地方の領民が再び決起する。嘉永6年(1853)5月、1万6000人余りが釜石から仙台領へ逃散しようとし、8000人ほどが実際に越境し仙台藩へ以下の三項目を訴願する。 A南部藩主の更迭 B三閉伊地方の百姓を仙台領民にしてほしい C三閉伊地方を幕府領地に、できなければ仙台領にしてほしい 仙台藩は政治的なことは返答を避け、具体的な要求を提示するように命じた。一揆衆は49カ条の要求を提示。その内の20数ヵ条は専売制に反対するもので、生産税の類いや藩による安値買い上げ一手販売の廃止であった。他に年貢前納、御用金、臨時課税の徴収中止など。 一揆代表45名と南部藩役人の対決が仙台で行われた結果、一揆衆の要求がほぼ通り一揆首謀者の処刑もなしと決定した。一揆衆は「小○」(困る)の旗を振り上げて闘ったと言う。
以下に南部藩の4大飢饉を挙げる。 元禄の飢饉 元禄8年(1695)と15年(1702)。8年は3万7000石の減作。幕府に参勤の免除を願い出、その費用を飢饉対策に充てる。飢民の救済5万人余り。15年は3万石の減作、餓死2万6000人余り、救済5万4128人。藩が誠意を尽くしたのは、この元禄飢饉のみと言われる。 宝暦の飢饉 宝暦5年(1755)は全国的な大飢饉年。南部藩はその程度が酷く損耗約20万石、餓死4万9594人、飢民への施し粥は1升の水(約1.8g)に米8勺(約14
4c)しかなかったと言う。 天明の飢饉 天明3年(1783)〜7年(1787)に全国的な大飢饉。天明3年の南部藩は18万9220石の減収、餓死4万858人、病死2万3840人、火付け・強盗・米騒動が各地で発生、牛馬の他に人間の肉を食べる者もいたと言われる。 天保の飢饉 天保3年(1832)〜9年(1838)にかけて南部藩では連年減作が続き年平均16万7700石余りの減収。中でも4年22万3250石、7年23万2500石、9年23万8000石の大減収は、藩の重税政策に拍車をかけた。
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