■仙台藩 48館やかたというものがある。幕府に城として認められた白石城の他に、藩内20カ所に城館があった。この城館を「要害」と呼び、次の要地として主だった町場を「所」、農村を「在所」とした。この城・要害・所・在所を「48館」と定め上級藩士を配置している。藩士には家格があった。上から順に一門、一家、準一家、一族、宿老しゅくろう、着座ちゃくざ、太刀上たちあげ。ここまでが上級藩士、この下に召出めしだし、平士へいしがあった。 一門、一家、一族は門閥藩士で藩の役職に就くことはなく、次の家格の宿老、着座が最高役職の奉行などに就き藩政を担当していた。また軍事力の主力は召出、平士で構成され、彼らは大番組に所属した。総数にして3600人の彼ら番士は仙台城や領内の警衛にあたり藩の諸役に任ぜられた。 仙台藩の表高62万石の村数は970カ村、一村平均の村高は619石、人口は最高だった延享4年(1747)で一村あたり574人。仙台藩では本百姓(自前の土地を耕作して生計を立てている百姓)を「人頭にんとう」と呼ぶが、一村の平均人頭数は84人(延享4年)。 仙台城下町以外は農村部として扱い、郡奉行こおりぶぎょうが管轄支配。領内を19の区域に分け代官を配置、その下に大肝煎(身分は百姓)を一名置いた。大肝煎は苗字帯刀と絹紬着用御免の特権が与えられた。また各村に肝煎一名を置き、その下に大組頭と五人組ごとの組頭がいた。百姓の代表とされる百姓代は置かれず、他藩に比べて農村の自治的結合は強いものではなかったと言われる。 仙台藩では藩士の城下集住が進まなかった割に、仙台城下の町人屋敷の比率は4割と少ない(北陸福井城下や庄内鶴岡城下などは7割5分)。藩士のある屋敷の町を「丁ちょう」、足軽や町人の住む町を「町まち」と呼んで区別したことにも武士優位が見てとれる。藩士は地方知行(じかたちぎょう)で城下屋敷と在郷(知行地)屋敷をまるで参勤交代のように往復して居住していた。仙台城下の滞在を「定仙じょうせん」、仙台城下へ滞在するために向かうことを「参府さんぷ」「上府じょうふ」と呼んでいる。知行地内の百姓・町人を直接支配し、年貢・諸役を徴収したのだから、小さな殿様が領内に散在したことになる。 内高が約100万石だった仙台藩は、その内の61万石余りを藩士の地方知行、残りの39万石余りを蔵入地くらいりち=藩直轄地としていた。蔵入地からの年貢や専売品収益が、知行地を持たない下級藩士の俸禄や藩の行政諸経費、藩主の生活経費に宛てられ、その残りは江戸へ回されたが、江戸の諸経費を賄うには甚だしく足りなかった。そこで考え出されたのが買米かいまい専売制だった。 買米専売制とは百姓に資金を貸付け、年貢米以外の余剰米を強制的に集荷した後、江戸へ廻漕して利益を得る仕法のこと。開始時期は寛永総検地以降の寛文期(1661-1672)とされる。江戸市場の整備・発展や新田開発による領内生産力の増大、石巻から銚子、江戸に廻漕する輸送手段の整備などの諸条件がその頃に整ったと言われる。 寛文期と言うと寛文事件(伊達騒動)がある。有名な事件なのでweb上に詳細を記したものがあると思うので、ここでは言及しない。わたしの感想を少々述べると、藩主への集権化をはかろうとする改革派(奉行・原田甲斐など)と、それに反対する一門の守旧派(48館の一つ涌谷館主・伊達安芸など)の争いだったように思われる。 買米制と改革 「中興の英主」と呼ばれる5代藩主吉村(治世は元禄16年〜寛保3年、1703〜1743 )がいる。治世の前期・中期は一門衆の反対などで改革は失敗するが、享保11年(1726)から始まる後期改革は成功する。 買米資金をつくるため享保14年(1729)から5年間、全藩士の知行高ないしは俸禄から5分の1の役金を徴収して金10万両を備えた。藩士の知行米・百姓の余剰米を前渡金で独占し、他領へ移出することを一切禁じた。この結果、江戸廻漕高が飛躍的に増え、多い年は30万石に達した。加えて享保17年の西国の蝗害・飢饉で江戸の米価が暴騰したため50万両の利益をあげた。 4代藩主の折に財政難から銭貨の鋳造を願い出たことがある。この時は、幕府から鋳銭は江戸・京都・大坂・長崎の4カ所に限ると断られた経緯がある。5代藩主になって幕府へ出願すると、領内産の銅での鋳造なら許すとの旨であった。享保13年から鋳銭開始。鋳造高の半分を領内で通用させ、残りは江戸へ廻漕して金銀に両替、幕府へは江戸払高の10分の1を上納と言う方式だった。享保17年の例を挙げると、鋳銭高2万4400貫文(約4600両)、その5lの1220貫文(約234両)を幕府へ上納している。 こうした仕法で財政再建が成ったのであった。 安倍清騒動 しかし次の藩主以降、次第に放漫となった。また、買米制は凶作に弱かった。宝暦5年(1755)の大凶作によって54万石の損害をこうむり財政難に陥る。買米資金に余裕はなく、上方商人や領内富裕者からの借金と献金を募り、代わりに彼らに知行や扶持を与えて藩士とするその場凌ぎの方策をとった。 カネで武士となった町人・百姓を「金上侍かねあげざむらい」と呼んだ。その一人に安倍清右衛門がいた。彼は仙台城下の米穀・木綿商人で献金によって番外士から大番士へ昇進し、出入司しゅつにゅうつかさという藩財政の責任職に抜擢される。彼は買米資金を納め買米を請け負う。が、下値で買い叩き代金の支払いを滞納する酷薄さだった。 天明3年(1783)、大飢饉に襲われる。56万5000石の減収、餓死・疫病者合計30万人。米価は高騰、藩が他村他郡への米移動を禁じたため城下の餓死者は著しかった。この時、安倍清右衛門が藩による米の払い下げを行ない城下民衆を救おうと提案する。が、提案とは裏腹に清右衛門は払米所の入口に一人ずつしか入れないようにした上、払米の時刻を短時間に定めたので、餓死する者を防ぐことができなかった。城下では米穀商人が買占めて米価は高止まりのまま。清右衛門の謀り事と見た民衆は怒りを爆発させ、清右衛門とその配下の商人の屋敷を打ち壊した。 升屋ますや 大坂の豪商・升屋平右衛門が仙台藩の買米本金(資金)に出資するのは大飢饉の年の天明3年(1783)からであり、寛政11年(1799)には遂に蔵元(南部藩で用語説明)となる。蔵元として京都や江戸の富商がいたが貸倒れとなって継続不可能になっていた。升屋も警戒して断っていた。引き受けるにあたって当然条件があった。 升屋は刺米さしまい取得を藩に認めさせたのである。刺米とは、先を鋭く切った竹筒を米俵に刺し、米の一部を取り出して品質を調べること。升屋はこれで千両以上の利益を得たと言われる。 買米制は豊凶と江戸米価、両替相場に左右されやすい。寛政年間(1789-1800)には好調だったが江戸米価が下落するにつれ、また蝦夷地警備の出費や仙台城二の丸焼失などもあり文化9年(1812)までに40万両の借金ができた。 こうした中、文化6年に「升屋平右衛門預り手形」が発行される。升屋の大番頭・升屋小右衛門の提案だった。小右衛門は町人学者・山片蟠桃(やまがたばんとう)のことである。播磨国(兵庫県西南部)の百姓だった小右衛門は升屋二代目に仕え、経営が悪化していた升屋を建て直し、升屋の本姓の山片の名乗りを許される。山片家の番頭の意味だと言われる。 「升屋平右衛門預り手形」は藩札のようなもので、一切ひときれ札(金一分=一両の4分の1)と二朱札(金二朱=一朱は一両の16分の1、よって二朱は8分の1)の二種類があった。升屋小右衛門は正金による出資を避け手形で買米し、江戸での売り払いで正金を手に入れ、これを大坂の両替屋に貸付けて利子を得るという妙案を考えたのである。当初は半信半疑だった領民だが、升屋が引き替えにすぐさま応じ兌換準備金が十分なことを知ると、領内に手形が通用するようになり、慌てて引き換える領民もいなくなり升屋は準備した正金に余裕ができ、両替屋に貸付ける金額も増えたと言う。 しかし、仙台藩と升屋の共存共栄策も天保の大飢饉によって崩壊する。升屋は仙台藩を見限り蔵元を辞めるのであった。以降、仙台藩は城下の富商に頼ることになるが、安政3年(1856)に近江商人・中井新三郎が蔵元になる。だが、経営不振に陥り中井家は仙台店を閉鎖。 その他の専売制度 塩の専売が寛永期(1624-1643)から幕末まで(寛政期に三年間中止)、漆の専売が貞享〜正徳頃(1684-1715)に開始。 安永10年(1781)に安倍清右衛門を中心に国産御仕法替を実施。内容は五十集物(いさばもの、塩魚・干魚)・魚油・〆粕・海草・煙草の国産品を10人の買方問屋を通して独占買いし、銚子・江戸へ送って利益を得る仕法で、藩4分問屋6分の利益配分だった。が、安倍清騒動の影響により寛政2年(1790)中止となった。 林子平はやししへい テーマ外になるが書きたいので書く。仙台藩にかかわる人物は有名なところで大槻玄沢や高野長英がいるが、わたしは林子平を挙げたい。元文3年(1738)に生まれ寛政5年(1793)に亡くなっている、享年55歳。「三国通覧図説」と「海国兵談」を著している。二著とも蝦夷地や江戸湾の海防を説いた最初のもので、先見性が評価される。寛政3年に「海国兵談」が原因で幕府に召喚され、在所蟄居・版木没収の判決を受ける。その2年後に仙台城下の兄の屋敷で亡くなってしまう。
子平は幕府直参・岡村良通の倅たが、父が罪(讒言だったと言う)により罰せられたため叔父の町医者・林従五に育てられた。仙台藩に縁ができるのは姉の「なほ」が6代藩主宗村の側室となり、子平の兄・嘉膳が宝暦6年(1756)に藩士に取り立てられ、子平も仙台に移り兄の厄介になったのだった。
幽冥について著わした、「仙境異聞」「勝五郎再生紀聞」は幽界に行って帰ってきた少年を取材したもので、幽冥界を観念ではなく事実として受け止める篤胤は、「古事記」に描写された世界を註釈していくのではなく、その世界を実在するものとして追究するのであった。天保12年(1841)、幕府によって著述差止め・帰藩が命ぜられる。篤胤の思想が尊皇攘夷を後押しするものとみなしたことによる。天照大神の国は万国に優越し、その直系である天皇は万民の崇拝を受けるべきだ、篤胤はそう説いたのだった。 |