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栖原屋6 

■飛騨屋久兵衛の出身地である飛騨国は、天正13年(1585)に金森長近が平定し、仕えていた豊臣秀吉から3万8700石の所領として与えられ、それ以後、金森氏が高山城主となって治めていた。
 文禄4年(1595)に白川郷の金鉱山が開発され、秀吉に運上金を納入しており、3代藩主重頼の時に川上・小島・白川郷に10数箇所の新鉱山を開くなど、鉱山開発が活発な土地であった。
 また、飛騨の柾(まさ、正目の材木)は古来から良材として知られ、明暦3年(1657)の江戸大火の時に4代藩主頼直は幕府へ檜の角材1000本を献上している。
 金銀鉱山と山林資源で金森氏の高山藩は、財政が豊かだったと言う。元禄5年(1692)、幕府は飛騨国を収公し、金森氏を出羽国上山(かみのやま)へ転封させる。金森氏は領民に慕われており、百姓たちは転封反対運動を行なったそうである。

■転封させられた元禄5年(1692)は、幕府が質を落とした金銀貨の改鋳を始める3年前にあたり、転封の狙いは飛騨国の鉱山にあったと思われる。幕府は江戸の町人らに出資させて金銀山の再興をはかるが、金森氏時代に掘り尽くした模様で芳しい結果は得られなかった。
 材木については、尾張藩に木曽山林を与えたことから、これに替わる山林を幕府が飛騨に求めたもので、元禄8年(1695)には江戸町人に飛騨材の江戸への廻漕を請け負わせている。
 幕府は収公後に総検地を行なった。飛騨の総石高は4万4000石に増加。厳しい検地だったようで幕府直轄となってから、百姓一揆が度々起こるようになる。さらに、年貢は現物納から金納に、資金と市場は江戸材木問屋に牛耳られるようになった。
 甲斐武田家の家臣を祖先とする若者、飛騨屋久兵衛にとって飛騨の土地は抑圧的なものに映っていたはずである。

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