栖原屋7
■栖原屋角兵衛が飛騨屋久兵衛を南部下北の大畑へ進出させたのは、南部檜(ひのき、あすなろ、とどまつを総称)の良材の集散地として大畑が江戸において当時注目されていたからだった。 山林から伐り出して江戸、京都、大坂へ廻漕するわけだが、常に材木流失の危険が付きまとっていた。まずは伐った材木を地形の傾斜の緩急によって桟手(さで)ないしは修羅(しゅら)などの滑材装置を使って谷へ下ろし、谷川へ一本ずつ管流し(くだながし)をする。流れてきた材木を藤で編んだ太網で貯木し、筏に組んで下流の木場へ流し送る。流れてきた筏を解体し、船で各市場へ廻漕する。この間、出水によって流失することが多かったのである。 材木流失は熟練によって軽減できる場合もあろうが、この時代は自然災害に等しいものと言え、伐採から市場への廻漕事業は投機的なものとして見られ、材木業者でも躊躇する者の多い事業だった。
■一旗揚げようと江戸へ出てきた飛騨屋久兵衛には、ちょうどよい事業だったのであろう。久兵衛は出身地の飛騨国から伐採・運材・製材の技術に優れた杣人(そまびと)を大畑に呼び寄せ、大畑で雇った杣人たちにその技術を学ばせた。栖原屋が指示したのであろう、山師的な浮付きのない腰の据わった新規出店準備である。 材木は市場の需要と船積みの便宜から、寸甫材(すんぽざい)=木目が通り節の少ない丸太を一定の長さに切った上、いくつかに挽き割り、家具・建具用に応じたものとした。 杣人の道具として伐木には鉞(まさかり)・斧・手曲鋸(てまがりのこ)・手長鋸を、運材には鳶口・引綱を、製材には手斧(ちょうな)・台切鋸(だいぎりのこ)、前挽大鋸(まえびきおが)を用意し、現場には道具を修理する鍛冶屋をおいていた。さすが飛騨国の出身者である。鉱山町には道具類と鍛冶屋が欠かせないのだ。 ※参考文献 山口啓二著「鎖国と開国」 |