江戸の豪商11                                          江戸の豪商TOP  |  江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

栖原屋8

■南部下北の大畑へ出店した翌々年、元禄15年(1702)に飛騨屋久兵衛は海峡を渡り松前城下へ海産物と材木を扱う問屋を出店する。商売が大きく発展するのは17年後の享保4年(1719)以降。なぜ17年を要したのか。松前藩の特殊事情による。
 皆さん、蝦夷地というと僻地に思われるだろう。確かに蝦夷地は僻地辺境だが、松前藩の領地=蝦夷地ではなく、当時の松前藩領地は京都ふうに垢抜け、松前城下は東北の諸藩より家並みは立派だったのである。現在の地図で説明すると、松前町を起点に北は熊石町関内、東は函館市石崎までが松前藩領地、当時はアイヌ人以外の日本人が住む地なので「和人地」と呼ばれていた。その他の地が「蝦夷地」であり、知床岬を境に北側を西蝦夷地、南側を東蝦夷地と称したり、和人地から神威(かむい)岬と襟裳岬までを口蝦夷地、その他を奥蝦夷地と言ったりした。

■話は広がってしまうが、和人地には2万6000人ほどが住み(江戸中期)、松前藩成立以前から住んでいるアイヌ以外は、アイヌの居住は禁止されていた。その一方、蝦夷地での和人の居住も禁止されていた。蝦夷地におけるアイヌの定住数は判然としない。定かでないのは松前藩が交易に関する以外は干渉しなかったためだが、幾人かの大酋長の下に3万人ほどが住んでいたらしい。
 松前家に発給された家康の黒印状には、和人地と蝦夷地におけるアイヌとの交易統制権の認可、アイヌの往来自由権を保証する義務が列記してあり、領地目録はなく通常の本領安堵の黒印状とは異なっていた。本領安堵されなかったのは、幕府が米作不能地を所領地と見なさなかったことによる。蝦夷地への支配権や年貢徴収権を持たない松前家は、たとえて言えば、名字帯刀を許されたアイヌ交易の特権商人のごときものであろうか。要17年の謎は次回へ先送り。

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