江戸の豪商12                                          江戸の豪商TOP  |  江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

栖原屋9

■気力が萎えてくるクソ暑い最中、涼しい土地の昔話は、まだまだ続きます。前回積み残した要17年の謎は、江戸indexの松前藩の項を読んでいただければ、答えは自ずと出てくるはず。江戸indexといえば中途半端な形となっている。瑣末な用件が重なり、さらに暑さによる気力減退が加わり、2カ月ほど手を付けてないんですよね。いかんなァ、こんなことでは、と自身も反省している次第ですので、大目に見てやってください。
 さて、松前藩領(渡島半島)がなぜ京都ふうであったか。平安朝の末から江戸開府前まで、蝦夷地(渡島半島)は罪人の配流地だった。藩が成立した後の松前藩主の婚姻相手は幕末を除くと、公卿か松前一門のどちらかである。辺境の格付大名が公卿と縁戚を結べたのは、藩祖慶広が配流された花山院忠長の世話をしたことが起因となっている。
 2代藩主公広が大炊御門家の娘、5代矩広が唐橋家、6代邦広が高野家、7代資広が八条家、8代道広が花山院家といった具合だ。

■松前藩の場所請負制は、藩主が家臣へ給与した知行所を、商人がその藩士へ運上金を納めてアイヌと交易する、変則知行形態である。交易品は請負商人が米、酒、煙草、糀、塩、鍋、出刃など、アイヌが干鮭、昆布、串鮑、鹿皮、鮫油などであった。
 この交易は近江商人の独壇場だった。両浜組と呼ばれた彼らは京都に近い琵琶湖畔の柳川村と薩摩村の出身で、戦国期から蝦夷地(渡島半島)に米、味噌などの生活物資や木綿、蔬菜種子などを移入し、京都・大坂へ蝦夷産物を移出していた。
 松前領内が垢抜けた京都ふうであった理由は以上の2点。また、松前藩の成立期に柳川・薩摩の商人たちは組合を結び、畿内における蝦夷産物の市場拡大によって資力を太らせ、藩の御用達を勤めたり藩士へ金品を貸し付けるなどして、松前藩に深く喰い込んでいた。これでは他国の商人は排除される。続きは次回。また今回も書けなかった。

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