江戸の豪商13                                          江戸の豪商TOP  |  江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

栖原屋10

■両浜組と呼ばれた近江商人は松前藩の定住者ではなく、「旅人(たびと)であった。松前藩では人別帳付(にんべつちょうづけ)されずに滞在する者を旅人として扱った。滞在を許されるには定住している領民の身許引請と、領民の養子名義を必要とした。
  両浜商人は当初、藩の上級藩士(以下、上士と略)の家に寄寓して松前に出店を構えた。その後は期限が切れると越年(おつねん)許可を得て継続寄留し、利益のほとんどを郷里の本店へ持ち去っていた。
  両浜商人の身許引請人となった松前藩の上士は、戦国期に「渡党(わたりとう)十二館主」と呼ばれた和人地の12豪族と関わりを持つ者たちだった。12豪族を統一するのが上ノ国花沢館主の蛎崎(かきざき)氏に寄寓していた武田信広(若狭国守護職・武田国信の子息というが怪しい)で、他の11館主は信広に臣従する。信広は茂別(もべつ)館主の下国(しものくに)氏の娘を娶り、蛎崎氏を継いで松前家の家祖となる。

■5代慶広の時に姓を蛎崎から松前に改め、家康から黒印状を受け従五位下若狭守に任じられ、ここに松前藩が成立して5代慶広は藩祖となるわけである。
  さて、元禄15年(1702)に飛騨屋久兵衛は海峡を渡り松前城下へ海産物と材木を扱う問屋を出店。商売が大きく発展するのは17年後の享保4年(1719)以降。17年を要したのは、ここまで述べたように両浜商人と藩との密接な関係であり、新興商人の入り込む隙間などなかった。それが享保初期に崩れるのは、藩財政の逼迫が原因である。
  元禄以前まで藩庫を潤おした砂金と鷹は枯渇し、元禄年間に2回幕府の許しを得て参勤を止めている。元禄期に続く宝永期には重臣より借金をして参勤費用を捻出する有り様。奢侈の他に公卿の娘との婚姻が高くついた。大名の娘なら化粧料と称して持参金付きだが、公卿の娘は格式ばかり高いカネ食い虫。藩は両浜商人へ御用金の無心を続けた。ここに隙間が生じたのである。

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