江戸の豪商14                                          江戸の豪商TOP  |  江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

栖原屋11

■藩の財政難によって新興商人に機会が生じた。元禄15年(1702)から藩へ蝦夷檜(えぞまつ)伐採の出願を繰り返してきた飛騨屋久兵衛だったが、17年後の享保4年(1719)に東蝦夷地の臼(有珠)山での蝦夷檜伐採が許可された。伐採期間は8年、藩への運上金は1年につき825両での請け負いだった。
  蝦夷檜と表記して「えぞまつ」と呼称するのは、松ではあるが木目細やかにして筋が通り檜に劣らない良木ということからで、江戸・大坂へ廻送された後、障子や献上台、曲げ物などの用材として使用された。
  飛騨屋が伐採に投入した人数は、杣人(そまびと)150人、改め人6人、手代と米運搬人15人、鍛冶3人。伐木の運搬や雑用はアイヌを使役し、彼らに米・酒・タバコなどを給与した。伐木は翌年春に川下しを行ない、角・平・榑(くれ=皮つきの丸太の意ではなく薄板)・帆柱などに製材してから船へ積み込んだ。

■伐採の運上金は莫大であり、諸経費などを加えるとそれほど儲かる事業とも思えないが、どうしてどうしてかなりの利益を上げたようなのである。
  初代の飛騨屋久兵衛は8年間の伐採事業が終了した翌年に死亡する。その享保13年(1728)に、遺産分割について記された「飛騨屋久兵衛跡式定証文覚」がある。この証文覚から金額のみを抜き出すと、以下のようになる。
  妻の「さわ」の養子として久兵衛を襲名させる甥の久蔵に800両、同じく養子の甥の伊兵衛と小三郎の両名に800両ずつ、故久兵衛の母・兄弟・親類14名に合計260両を割り振りするというもの。
  他に不動産として、蝦夷松前、南部下北大畑、飛騨下呂郷湯之島、京都に店舗・家屋などがあり、船舶・売掛金などを加えると結構な資産になると思われる。

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