栖原屋12
■30歳で2代目を継いだ飛騨屋久兵衛は、蝦夷檜伐採の請負を次々に更新し事業を拡大していく。東蝦夷地の有珠山以後、沙流(さる)、久寿里(くすり、現・釧路)、厚岸(あつけし)、西蝦夷地の石狩、夕張、天塩(てしお)と、蝦夷檜を独占的に伐採していき、大坂にも出店するようになる。
飛騨屋の出店ヵ所は江戸、下北大畑、松前、京都、飛騨湯之島、大坂で合計6店になったわけだが、本店は下北大畑であった。2代目は事業家としての才能に恵まれていたが、初代から事業を引き継いだ14年後の寛保2年(1742)に亡くなってしまう。また同年、初代久兵衛の妻さわも亡くなる。
3代目を継ぐ2代目の息子は7歳と幼かったため、今井所左衛門を後見役とした。いきなり今井所左衛門の登場だが、資料には3代目と同郷の飛騨湯之島出身としか載っていない。おそらく親類縁者の中で信頼のおける者だったのであろう。
■後見役・所左衛門は商才とは無縁のただの好人物であったようだ。本店を下北大畑から山奥の飛騨湯之島へ移し、大畑店・京都店・大坂店を統轄するようにした。江戸店は飛騨屋への融資元であり蝦夷檜材の販売元である栖原屋がいるのですべて委任し、松前店は大畑店の管轄下においたようだ。
栖原屋角兵衛(この頃5代目)は飛騨屋の代替わりによる体制変更に不安感を抱いたらしく、宝暦年間前期(1751-1756)に自ら下北大畑へ出店する。これは材木拡販の他に、地場問屋を傘下に囲い込むのが目的だったようだ。例えば、下北佐井湊で仕込問屋を営む金丸三左衛門は杣人や漁民、諸職人に仕込み(前貸金)をし、彼らから材木や漁獲物、日用雑貨品を対価として受け取り、松前・箱館(現・函館)の商人と手広く商いをしたり、船大工を編成して船を造ったりしていた。この時期は、栖原屋が飛騨屋を通さずに蝦夷地の動向を知りたくなった頃と言えようか。 |