栖原屋13
■飛騨屋の代替わりによる体制変更に栖原屋は不安を抱いたが、不安ではなく野心から機会を窺う者がいた。南部下北大畑店の嘉右衛門という使用人である。
嘉右衛門の年齢や出身地は資料からは判らない。2代目飛騨屋久兵衛が亡くなった以降の嘉右衛門の行動から推測するに、彼は飛騨屋の事業を濡れ手で粟、ボロ儲けが容易にできるものと考え、スキあらばいつかきっと、虎視眈々狙っていたようである。
嘉右衛門は大畑店の支配人を最後に店から追放されることになるのだが、支配人を任されたのが2代目の死後(寛保2年、1742年以後)なのか以前なのか分明ではないが、彼が飛騨屋の蝦夷檜伐採事業を奪おうと、松前藩へ伐採事業の出願をするのが明和4年(1767)。2代目の死から25年後であり、年齢から推測して2代目の死後に支配人になったと思われる。
■嘉右衛門は大畑店の帳簿から延べ3千両近い使途不明金を出す。1両20万円換算で6億円となる。新たに本店とした飛騨国益田郡下呂郷湯之島と下北大畑は現在でも遠く感じる。大畑店が管轄した松前店は松前藩との交渉と物資の調達にあたるのが主な仕事であった。3千両のほとんどは嘉右衛門の手から松前藩の家老蛎崎佐士、目付湊源左衛門、檜山奉行明石半蔵らに渡っていたようだ。
嘉右衛門が演技上手な曲者だったこともあるが、飛騨屋の幼い当主の後見役今井所左衛門は自身の不明を恥じたであろう。
嘉右衛門は松前藩上層部の後押しもあって、飛騨屋から蝦夷檜伐採事業を奪い取るのである。明和6年(1769)、飛騨屋は先納の運上金と藩への用立金の合計4795両の返金を条件に伐採事業から手を引く。
その4年前の明和2年、嘉右衛門の動きをつかんだのだろう、栖原屋角兵衛は初めて松前城下へ渡ることになる。 |