江戸の豪商17                                          江戸の豪商TOP  |  江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

栖原屋14

■明和2年(1765)に松前城下へ渡った栖原屋角兵衛は、松前に出店するにあたっての事前調査を行なったが、海峡を越えた北辺の地へはやはり相当な決断を要したようで、出店は21年も後の天明5年(1785)となる。
  さて、話を戻そう。飛騨屋は嘉右衛門の謀略によって蝦夷檜伐採事業から撤退させられたが、嘉右衛門がこれによって首尾よく伐採事業を経営できたわけではなかった。
  蝦夷檜伐採の入札を飛騨屋と競っているうちに1ヵ年の運上金が600両から1250両へ、なんと2倍も吊り上がってしまったのである。さらに、毎年米1万俵の上納を条件に加えていたため、嘉右衛門の当初の目算は大幅に狂ってしまったのである。
  賄賂で馴れ合う藩上層部は運上金を減額してくれるのでは、との期待が嘉右衛門にあったかもしれない。が、それはなかった。

■藩上層部がしたのは金主(融資先)の斡旋であった。後に目付職から勘定奉行職へ就く上級藩士湊源左衛門が、江戸で材木商を営む新宮屋久右衛門に嘉右衛門の金主となることを打診し、栖原屋が売りさばく蝦夷檜に以前から食指を動かしていた新宮屋が一つ返事で承諾したものであろう。
  ところでこの頃、松前藩は極度の財政難に陥っていた。明和3年(1766)1月に松前に大地震があり、同年3月には江戸下谷で火災があり下谷新寺町の藩上屋敷が類焼する。
  藩は新宮屋に無心し、江戸上屋敷の普請の他、幕府払下米の調達を命じる。しかし、新宮屋はこれを不服とし、上屋敷の普請費用は負担するが、幕府払下米代金と蝦夷檜伐採運上金は上屋敷普請費用をもって充ててほしいと要求する。これに対し藩は運上金不納とみなし、新宮屋から蝦夷檜伐採権を没収するのである。

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