栖原屋5
■前回述べたように元禄期は材木問屋にとって、笑いが止まらないウハウハな時代だった。しかし、これは紀文のごとき幕府勘定奉行・荻原重秀(勘定吟味役から元禄9年=1696に勘定奉行になるも正徳2年=1712に罷免)と賄賂関係にあった特権商人に言えることであり、栖原屋角兵衛はそのオコボレに与かったかもしれないが、飛騨屋久兵衛を北へ向かわせるだけの余裕はなかったであろう。 飛騨屋久兵衛(初代)が飛騨国益田郡湯之島村(現在の下呂町)から江戸へ出て来るのは元禄9年(1696)、23歳の時。3町歩(30石ほど)の田畑を持つ上層百姓で、そのほとんどを売ったとは言え、山間の地であり大したカネにはならなかったと思われる。4年後の元禄13年に奥州南部大畑(現青森県下北郡大畑町)へ木材伐出の拠点を構え、2年後に対岸の蝦夷地へ渡ることになる。飛騨屋へ融資したのは栖原屋、借金の請人(保証人)にもなっている。
■飛騨屋を大畑に出店させた当時の栖原屋(2代目)の年齢は56歳。栖原屋にとって飛騨屋は信用がおける若者だったのであろう。しかし、当時は海上保険などのない時代。伐採した木材を江戸へ廻漕する事業は、海難事故のリスクをともなった。 栖原屋の経営の特徴は、江戸に薪炭・材木問屋を開設した当初から、同郷の者との共同経営や他人資本を積極的に導入する方式にあった。紀伊栖原村の唯一の醤油醸造業者で後に3代目角兵衛の妻の実家ともなる新川勘右衛門と、寛政3年(1791)まで共同経営の方式で薪炭・材木問屋を運営し、この年に店の資産を栖原家8分、新川家2分の割合で分けている。 湯浅の大庄屋の飯沼家や広浦の浜口儀兵衛などとは資金の貸借を行なっている。浜口儀兵衛は銚子に進出して醤油醸造業を経営、現在のヤマサ醤油の礎を築いた人物である。 |