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栖原屋4 

■今回は元禄時代に材木問屋がどれほど儲かったのか、これについて述べ、栖原屋がスポンサーとなって北へ向かわせる飛騨屋久兵衛への話の繋ぎとしたい。
 将軍綱吉は治世中に頻繁に大名屋敷へ赴いた(御成りと言う)。御側用人(大名が就く、平の御側は旗本)の牧野成貞邸へ32度、柳沢吉保邸へ58度、他に御三家、老中、外様大名の屋敷へも足を運んだ。
 将軍の御成りがあるとどうなるか、加賀前田家の例をみてみよう。元禄14年(1701)12月、明年4月26日に将軍の御成りがあると告げられた藩主前田綱紀は、翌15年正月早々から本郷上屋敷内に御成御殿の建造に取り掛かった。建築の差配は幕府小普請奉行が行なったので、前田家の勝手元(経費)を考慮せずに進めた。よって柱1本が30両、長押(なげし、鴨居の上の横木)1本20両と豪奢なものとなり、棟数48、建坪3000坪、総工費19万8000両(約400億円)の大御殿が竣工した。

■元禄3年(1690)、仙台伊達家に手伝いを命じた日光東照宮の大修復工事では、幕府の支出だけでも13万両+米8600石余り(約280億円)を要した。元禄期の寺社の造営・修復は多かった。伊勢神宮・熱田神宮・石清水八幡宮・春日神社・久能山・比叡山・高野山などの大修復、護国寺観音堂・護持院・寛永寺根本中堂などの大造営が続いた。
 俗説だから話は大きいが、根本中堂の普請(用材調達の説もある)を請け負った紀文は50万両の利益を得たと言う。話10分の1としても100億円になる。元禄期は町人(家屋敷を持っている者が町人)の営業所得に対する直接税はなく、江戸・大坂・京都・堺・奈良などは地子銭(じしせん、土地税)は免除された。負担するのは公役・町役(くやく・まちやく)の類だけであったので、商人の蓄財は太りまくった。
 根本中堂の普請大工たちは、冬は八丈絹の綿入れ、夏は越後縮の浴衣掛けに緋縮緬の褌という贅沢さだった。       

※公役とは町奉行所で必要とする人足の賃銭、町役は寺社への初穂料や町奉行以下諸役人への礼銭、橋梁修理費<掃除費など。これらを家屋敷の間口によって分担した。
 田沼意次の時代に運上金・冥加金が一般的になるが、これも所得に対して課せられたものではなく、運上はこれだけの額を上納するから請け負わせてほしい、冥加はこれだけの額を献金するから株仲間(排他的な組合)の結成などを認めてほしい、といった代償としての税であった。

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