栖原屋3
■江戸に薪炭問屋を元禄元年(1688)に出店した栖原屋は、同時期に材木問屋も出店している。同じ木材だが燃料材はその辺の雑木林で採取できるが、建築・建具材となると奥山から採取することになる。運搬伐採も大掛かりとなってくる。紀州の山林は中世には伊勢の製塩に薪を、江戸初期には大坂の材木市場に材木と薪炭を供給してきた。紀伊出身の栖原屋とは言え、鰯漁業からの転進でいきなり材木を扱えるか。栖原屋に手を貸す者がいたのではないか。 問屋仲間に元禄14年に設立した「木場材木問屋」がある。享保14年(1729)の仲間15名の中に栖原屋角兵衛が載っている。木場材木問屋仲間15名は、元禄14年に深川東部の海上9万坪を自己負担で築き立てた人々である。以後この土地は「木場」と呼ばれるようになる。将来の江戸材木需要を見越して埋め立てたわけだが、出店して10数年の栖原屋がこの大事業に参加しているのにはビックリである。
■なぜ、そんなことが新参者の栖原屋にできたのか、これである。 バックアップをしたのは、紀伊国屋文左衛門ではなかったか、と思われる。紀文については俗説が多く、生没年がはっきりしない。享保19年(1734)に享年66歳で亡くなったとされるが、2代目紀文だとする説もある。文化元年(1804)に山東京伝(戯作者・考証家)が「近世奇跡考」を刊行している。その中に紀文の話が出てくる。 「材木屋を家業として、世に聞こえし豪家也。性活気にして、常に花街雑劇に遊びて任侠をこととし、千金をなげうちて快しとする。(中略)宝永の頃までは本八丁堀三丁目すべて一町紀文が居宅となり、毎日定まりて畳さし来りて畳をさす。こは客をむかふる度に、あたらしき畳をしきかえへるゆえとぞ」 紀文の出身地には加太浦、湯浅町別所など諸説ある。が、いずれにしても栖原浦と近く、紀文の影が大きく迫ってくるのである。 |