栖原屋2
■紀伊国有田郡吉川村に在住していた初代栖原屋角兵衛は元和5年(1619)、19歳の時に同郡栖原浦の網元・角十郎の婿養子となった。 数年後、房総近海で操業していた須原屋などからの情報で、その漁場の将来性を見込んだ角兵衛は、栖原・湯浅・広の漁民を編成して房総を目指す。当然、発展目覚ましい江戸市場をしっかり目に捕らえていたことであろう。 房総では当初、安房国長狭郡浜荻の近海で鰯漁業を始める。その後、館山から江戸内湾へ進み、天羽郡萩生(千葉県富津市萩生)に至り、以後ここを根拠地として外房・内房の浦々へ漁場を広げていく。 根拠地とするからには萩生村へ漁網の運上金を払っての操業であり、萩生村は船引場や納屋の土地を提供している。また、余所者という印象を薄めるためか、角兵衛は萩生村の女性を側妻にして、3代目角兵衛をもうけている。
■房総漁業が最も盛況だった元禄元年(1688)、2代目角兵衛は江戸へ進出する。と言っても、萩生村と縁がなくなったわけではなく、栖原屋は正徳期(1711-1715)まで漁株=操業権を手放していない。ただし実際には操業していない。当時の漁法と関わることで、大規模な両手廻し地引網というものが登場しており、これは所要漁夫100人に及ぶものだった。漁夫の調達は地元の網元でないと難しく、栖原屋は地元に操業を委任する形を採ったのである。 江戸へ出た栖原屋は、鉄砲洲本湊町で薪炭問屋を営む。現在の東京都中央区湊1〜2丁目にあたり隅田川に面しているが、当時は海沿いであった。よって萩生村とは内湾50`ほど離れていたにすぎない。 薪炭問屋を選択した理由である。製造工程はよく知らないが、生鰯を加工して干鰯や〆粕にするには大量の薪炭を燃料としたらしい。目端が利いた転進だったと言えよう。 ※参考資料:「海と列島文化」第1巻 |