栖原屋1
■栖原すはらに行ったことはないが、写真を見ると白山が海に迫り平地などないように思われる。紀伊水道に向かって開けた湾内が狭い、この湯浅湾の奥に栖原浦があり、沖合4`ほどに苅藻かるも島、苅藻島と湾の間に毛無けなし島がある。 日常的に海が間近にある生活だと、「板子一枚下は地獄」という格言は恐怖心を煽らなかったのかもしれない。南北朝時代には湯浅水軍が活躍したとの伝承があり、星見、潮見を見きわめる航海術・操船術が受け継がれてきたのだろう。 次回から数回にわたって紹介しようと思っているのが、栖原浦を基盤に事業活動した北村家のこと。北村家の当主は、代々「栖原屋角兵衛」を名乗っている。江戸時代を代表する、北の海を目指した豪商である。 その前に前回積み残した、魚臭さを嫌った栖原屋一族の一部について述べておかねばならない。
■北村家と親戚関係になる家に栖原浦出身の北畠家がある。この家は「須原屋茂兵衛」と代々名乗った。須原屋は栖原屋よりも早く房総地方へ出漁し、万治年間(1658-1660)には江戸へ出て書物問屋を開業するのである。 なぜ漁民が書肆に転業したのか。判らないが、おそらく京都の書物業者と関係があったはずである。古くから仏典の印刷を行っていた京都は江戸時代に入ると活字開版が盛んになった。実際に須原屋は京都の出版物も店売りしている。 須原屋茂兵衛は享保期(1716-1735)には、江戸一番の書物問屋となる。茂兵衛は「江戸絵図」や「武鑑」の板元、一門の須原屋市兵衛は「解体新書」や「三国通覧図説」の板元である。 また、茂兵衛は婦人妙薬「家伝順気散」などの生薬を製造販売する薬種問屋も兼ねていた。薬臭さは好んだらしい。 |