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干鰯問屋

■紀州の沿岸の浦々で最も関東への進出が早かったのは加太浦で、それに続いて湯浅、栖原の人々だった。年代は元和年間(1615-1623)のことで、浦沿いに上総国(かずさのくに 千葉県)へ下り鰯漁を伝えたという。地引網と八手網(はちだあみ)がそれで、どちらも大規模な漁法だが、地引網は袋状の網を引き回す捕獲法で、海岸線が砂浜に恵まれたところに適し、八手網は海中に網を敷きその上に魚群を燈火や餌をまいたりして誘導するものである。
  当初は魚商人を伴なって出漁して、干鰯の集荷地である浦賀の干鰯問屋を基盤にした出漁形態だったが、元禄の末期(1700-1703)から江戸の干鰯問屋が勢力を伸ばし、江戸干鰯問屋が紀州漁民たちを囲い込むようになる。関東への出漁にはカネが掛かった。入漁料や干場料、旅宿代など地元の紀州沿岸漁業では必要ない出費で、前借りして関東へ向かう漁師が多かったのである。

■現存する江戸干鰯問屋に関する由緒書で、最も古いものは明和8年(1771)の「関東鰯網来由記」とされる。その中に、加田屋助市、栖原屋久治郎、栖原屋三九郎、栖原屋文治郎、湯浅屋与右衛門の名が見える。加田は加太であろうから、屋号だけから推察できる紀州出身者は五名、全体の一割強だが他に「伊勢屋」が四名いるから比率はもっと高まるかもしれない。
  江戸に干鰯問屋が初めて登場するのは、承応期(1652-1654)といわれる。紀州の漁民が関東へ進出して40年ほど後のことになるから、承応期当初から江戸で問屋を営んだ紀州人が結構いたであろう。
  生鰯を干すから干鰯、干鰯を絞ったのが〆粕、その際に取れるのが魚油。いずれにしても強烈に魚臭い仕事である。従って、干鰯問屋は漁師出身者が多かったと思うが、紀州・栖原の出身者の一部に魚臭を嫌った家系がある。

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