紀伊浦々
■百姓から徴収する年貢が江戸時代の藩の基本的な財源であり、領主は漁村を農村と区別しなかった。とは言え、漁村は零細な耕地ゆえに沿岸を漁場とせざるを得ないため、農村の延長線上に漁村を把握していたと言ったほうが正確であろう。 江戸時代の初期から各地の漁場へ出漁して、高度な漁法を伝えた紀州藩の漁民たちの村は、山が海岸線まで迫った斜面に集落があり、耕地が五石に満たない者がほとんどであった。 紀州藩において「村」と「浦」が行政的に区分されるのは浅野長晟(ながあきら)の後、元和5年(1619)に入国する家康の10男、徳川頼宣(よりのぶ)以降のことだとされる。それ以前は区分されず「村」であった。このことは農村にはない賦課としての「加子役」(かこえき)と深く関わり、紀伊農村が漁業を生業とする転換期をも意味している。加子役とは水夫(かこ )の数を米高に換算した石数のことで、加子米制度とも呼ばれる。
■「浦」と区分されるのは、加子役を負担できるだけの漁業専業の村であり、寛文6、7年(1666〜67)から登場してくる。前回書いた九州・四国から九十九里・房総へ鰯漁に進出して行くのは、加太(和歌山市)、広、湯浅、栖原(広は現・広川、以上、和歌山県有田郡)などの江戸時代以前から廻船業や漁業が盛んだった先進地域で、他の紀伊半島沿岸の村々(鯨漁の太地などは除く)は後続地である。 加子米制度と同じ頃、二代藩主光貞が家督相続する寛文7年頃から登場してくるのが二分口役所。この役所は海上警備や海難救助などを行なったが、主な役目は漁獲物や木材など流通商品からの徴税(二分→20l課税)と抜荷改めで、幕末期には130箇所に設置されていたようだ。 紀州藩は当初から農間漁業を奨励した。これが半漁半農の多い領内の農村を納税できる「浦」へと導いた大きな要因だが、畿内の綿実栽培が鰯網漁業を発展させたことも見逃せないだろう。 ※参考資料 笠原正夫著「近世漁村の史的研究」 |