干鰯
■ガーデニングが流行っているようだが、家庭菜園はいまどうなっているのだろう。地産地消の最たるものは自給自足である。ジャガイモ、サツマイモなど小さな庭でも結構出来る。「食」の不安な時代だから、みんなで作ろうサツマイモ!の声が聞こえてもよさそうだが、耳にしない。
江戸時代、農民は水田では年貢の米を作っていたが、飯米の不足は畑で自給用の大麦、小麦、黍(きび)、野菜類を作っていた。そんなこと当たり前じゃないか、と言わないでほしい。米や麦を他地域から買っていた百姓たちもいたのである。 自給の雑穀・野菜は、厩肥・刈敷・人糞・尿・灰などのこれまた自給肥料で作っていたが、大名やその家臣が参勤交代で集住した江戸や各地の城下町近郊の農村では、蔬菜・油科の作物・繊維作物を購入した肥料で作っていた。その肥料は干鰯(ほしか)だった。干鰯を多量に投入することで、集約的に栽培したのである。
■綿や桑は衣料、藍や紅花は染料、楮(こうぞ)は和紙、櫨(はぜ)は蝋(ろう)、煙草や茶は嗜好品の原料として作られていた。これらは元禄期(1688-1703)以前から各地で栽培されていたが、この時代を境に適地適作が各地で進み主産地が成立していく。 綿は摂津・河内・三河・瀬戸内沿岸、桑は上野・武蔵・甲斐・信濃、麻は下野、藍は阿波・安芸、紅花は出羽・陸奥、菜種は美濃・近江・山城・河内・筑後・大隈、楮は土佐、漆は会津、煙草は薩摩・筑前、茶は山城・駿河・近江、甘蔗(かんしゃ)は讃岐・大隈、葡萄は甲斐、そして蜜柑は紀伊が大主産地として登場してくる。 これら商品作物の肥料として欠かせなかったのが干鰯。干鰯の産地は初め九州・四国であったが、九十九里浜へと移る。重要な役目を果たしたのは紀州藩の政策。紀州藩の百姓(漁民)が九州から房総・九十九里へ漁場を移したのだった。 |