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栖原屋23 

■正規の日本語学校教師となった薩摩の二人について。宗蔵は教師となったその年(1736年、元文元年)に43歳で亡くなる。もう一人の権蔵は同じ年に40項目から成る「露日語彙集」と、619例から成る「日本語会話入門」を著している。二人は1729年(享保14)に漂流、宗蔵は35歳、権蔵は10歳の時だった。10代の言語適応力は凄いものである。
 権蔵は2年後に「簡略日本文法」と「露日新辞典」、その翌年の1739年に「友好会話手本集」とラテン語教科書の日本語訳「絵で見た世界」を著し、この年の12月に21歳の若さで亡くなる。宗蔵が亡くなってから3年弱、孤独に精神が耐えられず遂に肉体が病んでしまったのだろう。可哀そうに。でも権蔵さん、頑張ったよ。
 「露日新辞典」は1万2000語の世界初の露日辞典で、2年がかりで完成したものだった。内容は権蔵が薩摩方言しか知らなかったため、その実体は「露薩辞典」だったそうで、現代では18世紀初めの薩摩方言研究に欠かせない文献となっている。

■二人の死後も日本語学校は存続した。1748年(寛延元年)に南部多賀丸の漂流民5名が教師に任命され、1753年(宝暦3)になると日本語学校はぺテルブルグから、ロシア東方経略の基地とされたイルクーツクへ移転する。
 イルクーツクは先住民ブリャート人から毛皮税を徴集するためコサック冬営地を1652年(承応元年)に建設されている。東部シベリアの行政と交易の中心地で中国、蒙古、朝鮮などの情報が豊富だったらしい。日本語学校の移転は、地の利を得たといえようか。閉鎖されるのは1816年(文化13)、その間日本人教師が途切れることもあったが、日本人漂流民によって断続的に補充された。閉鎖の理由は生徒のなりてがいなくなったからで、漂流民が絶えたわけではない。
 この時代、日本人はロシアに限らずいたるところで漂流漂着したのではないかと思う。記録に残らないだけである。なぜそうなったのか。次回に回すことにしたい。

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