江戸の豪商25                                          江戸の豪商TOP  |  江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

栖原屋22 

■1735年(享保20年)に初めて設立した日本語学校の教師となった宗蔵と権蔵の二人は、7年前の1728年の11月に松平大隈守島津継豊の手舟・若潮丸の乗組員として薩摩の湊を出ている。宗蔵は当時35歳、権蔵は10歳。乗組員総勢17名で大坂へ向かった。積荷は薩摩屋敷への御用米、紙、絹織物、紫檀など。
 出帆数日後、嵐に遭遇、6ヵ月余り後にカムチャッカ半島ロパトカ岬付近の海岸に漂着。船の積荷と船体に使用されている鉄に目を付けたコサックの一隊と出会い、二人以外の乗組員は殺されてしまう。
 コサックというのは日本流にいうと戦国時代の野武士のようなものだろう。領主支配を嫌った逃亡農民で、主に略奪を生業とした戦士集団。彼らコサックはロシア帝国主義に利用され、先兵として辺境開発にあたった。

■宗蔵と権蔵はコサックに酷使されたが、新任のカムチャッカ長官がこれを知り、コサックに二人を解放させ、二人は官費で養われることになる。その後ヤクーツクへ送られ、さらにぺテルブルクへ。そして女帝アンナに謁見となり、洗礼をうけ日本語教師となったのだった。
 彼らの前にも記録にあらわれる日本人漂流民がいる。1695年(元禄8)11月に大坂から江戸へ向かう途中嵐に遭遇してカムチャッカに漂着する伝兵衛。彼はぺテルブルクへ送られ、ロシア人に日本語を教えたら日本へ返してやると約束されたというが、伝兵衛は送還されなかった。     
 もう一人は1710年(宝永7)にカムチャツカに漂着する三右衛門。彼の出身は東北地方南部とも、紀州ともいわれ定かでない。ぺテルブルクへ送られた三右衛門は、伝兵衛の助手として日本語を教えたらしいが、二人の仲は芳しくなかったともいわれる。

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