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栖原屋21 

■松前藩が幕府へ報告しなかった安永7年(1778)霧多布に渡来したロシア遠征隊について補足説明しておきたい。
 遠征隊は前年の安永6年9月にオホーツクを出帆し、得撫(うるっぷ)島で年を越した後、大型革船3隻に32名が分乗して安永7年6月に霧多布に来るのだが、この時に遠征隊の指揮をとっていたのがディミトリー・ヤコウレヴィッチ・シャバリンという商人。シャバリンは松前藩に交易を断られたが、厚岸の「日本町人」と私的取引として絹・漆器・小刀などを入手している。この「日本町人」とは飛騨屋久兵衛の手の者だったであろう。シャリバンは帰路、択捉島のアイヌを服属させたというが、彼はその後イルクーツク商業協同組合長になっていることから、推測するに択捉アイヌを手なずけて飛騨屋との取引を媒介させたのではないかと思われる。

■日露史上公式な遣日使節として寛政4年(1792)にアダム・キリロヴィチ・ラクスマン一行が、漂流民・大黒屋光太夫らの送還を兼ねて根室に渡来する。この船=エカテリーナ号の水先案内人を務めたのがシャリバンだった。どうもこのシャリバン、わたしには下工作を得意とする怪しげな人物に思えてくるのである。
 さて、安永7年のシャリバン一行にも寛政4年のラクスマン一行にも日本語を話せるロシア人がいた。ロシア史の記録に残る最初の日本語学校は1735年(享保20年)。女帝アンナによって漂流民・宗蔵と権蔵の二人がロシア科学アカデミーに付設された日本語学校教師に任ぜられたのを嚆矢とする。二人は教師になる前にロシア正教の洗礼をうけ、宗蔵はコジマ・シュルツ、権蔵はダミアン・ポモルツェフと名乗っていた。

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