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栖原屋19 

■安永7年霧多布に渡来して交易を申し込み、翌年厚岸で断られたロシア遠征隊は、この辺りの航路に詳しかったわけではなく、彼らロシア隊には案内人がいた。それは国後アイヌの酋長ツキノエ(ツキノイともいう)。国後アイヌがロシア人と交易していたのではないが、ロシア人と交易をしていた択捉(えとろふ)アイヌを通じてツキノエはロシア人と接触するようになったのであろう。
 択捉アイヌとロシア人の交易の品は、択捉アイヌが米や麦、大豆などを、ロシア人は猩々緋(しょうじょうひ)や羅紗(らしゃ)などの毛織物や猟虎(らっこ)、貂(てん)などの毛皮。択捉アイヌが交易品とした米穀は、場所請負人の日本商人と交易をしていた国後アイヌから渡ったものか、あるいは正規のルート以外(抜け荷=密貿易)から直接渡ったものと思われる。



 


■上の地図(クリック拡大)は千島列島(クリル諸島)。右上の見える端っこ部分はカムチャッカ半島の先端。南西に占守(しゅむしゅ)と幌筵(ぱらむしる)という二つの島がある。ロシア人は明和2年(1765)からこの二つの島に番所を設け島民(原住民はアイヌではない)一人につき狐の皮1枚を年貢として差し出させていた。
 その後ロシア人は占守、幌筵を足場にして千島列島を南下し、択捉の北東にある得撫(うるっぷ)でアイヌと交易を始める。得撫という島は別名、猟虎島と呼ばれるほど猟虎やその他の海獣がたくさん生息していた。ロシア人はこれに目を付け居座ってしまう。得撫は周辺の島に住むアイヌたちの共同狩猟場であったため、アイヌとロシア人が1年余りにわたって抗争したこともあった。
 アイヌもロシアも海獣を求めたが、米穀や煙草、酒などを供給してくれる最寄りの地域には日本しか位置していなかったのである。

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