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栖原屋18 

■飛騨屋は安永8年(1779)12月に公訴し、松前藩からの内済を強気に断る。結果は嘉右衛門の死罪という沙汰だけだったが、飛騨屋にとって充分とはいえないまでも納得できるものだったに違いない。松前藩を牛にたとえれば、角を矯めて牛を殺しては飛騨屋にとって元も子もないことになったはず。飛騨屋が握っていた勝訴への裏づけは、それほど強力なものだった。
 飛騨屋が公訴する前年の安永7年6月、飛騨屋の請負場所のひとつである霧多布にロシアの遠征隊が渡来したのである。ロシア隊は松前藩士らと面談し交易を申し入れ、対応した松前藩士新井田大八は翌年の春択捉(えとろふ)島での返答を約束する。
 ロシア隊は約束通り択捉島で松前藩士を待つが、到着しないので国後島を経て六月霧多布へ、さらに8月厚岸まで渡航する。国後も厚岸も飛騨屋の請負場所である。

■松前藩は約束を反古にしたのではなく、順風に恵まれず風待ちしている間に遅れてしまった。松前藩士浅利幸兵衛は4月29日に松前城下を出るが、なんとか厚岸に到着したのが8月7日だった。ここでロシア隊と面談する。
 この折、松前藩史料によると浅利は、「異国との交易は長崎以外では許されていないから、以後渡来しないよう」申し入れたとある。ところがロシア側の史料では、「日本人は交易のことは許されないが、穀物や酒の必要が生じた時はウルップのアイヌから届けさせたらよい」といわれたとある。
 どちらが正しいか。松前藩は幕府からアイヌとの独占的交易権を許されていたから、アイヌを介してロシアと交易しようと考えていたのではないかと思う。以上が日本の武士とロシア人が接触した史上初の出来事なのだが、松前藩はこれを幕府へ報告しなかったのである。
※参考資料「漂流民とロシア」(木崎良平 中公新書)

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