江戸の豪商19                                          江戸の豪商TOP  |  江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

栖原屋16

■飛騨屋が松前藩への貸付金を抵当に初めて場所請負を始めるのが安永3年(1774)。松前に出店したのが元禄15年(1703)だから、70年を要して近江商人の牙城である「場所」請負の一角を崩したわけである。裏を返せば飛騨屋の貸付金がそれだけ膨大だったといえよう。
 形式的(制度的)なことを述べると、場所請負人が場所請負を藩へ出願するには保証人として断宿(ことわりやど)をたてねばならなかった。断宿は請負人の運上金納入に連帯責任を負うとともに、請負人の請負場所からの産物(アイヌとの交易品、漁獲物)や場所へ送る仕込品の輸送及びそれらの売買を独占的に行った。
 飛騨屋は松前藩には数少ない近江商人の系譜を引かない蓬莱屋(ほうらいや)忠兵衛を断宿とした。以前栖原屋が松前に店を出すのが天明5年(1785)と述べた。その折に出店場所を蓬莱屋から購入している。蓬莱屋は奥羽諸藩に顔の利く豪商だったようだ。

■その後数年間、飛騨屋の経営は順風満帆だったが、処罰された蠣崎佐士、湊源左衛門らが復権してくるのである。安永8年(1779)には湊源左衛門が領外へ追放されていた嘉右衛門を呼び戻す。勘定奉行に就いた湊は嘉右衛門を徒士格(かちかく)勘定下役に任じて、浅間嘉右衛門と名乗らせた。士分に取り立てたわけで、その狙いは以前と相変わらず飛騨屋排除にあった。
 嘉右衛門は手始めに宗谷場所を手に入れようと、宗谷から帰った飛騨屋の手船にいちゃもんをつける。再改めと称して船頭の帆待(ほまち)荷物を過重荷物として没収した上、飛騨屋松前店の戸締り(閉鎖)を命じたのである。帆待荷物とは船頭自身が買い集めた荷物なのだが、慣例として船積みすることができ売りさばくことが許されていた。権力を笠に執拗に迫る嘉右衛門によって、船頭は責任を感じ遂に自殺してしまう。飛騨屋はこの不法卑劣に公訴で対抗するのである。

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