天皇公卿の制度と事件                                    江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

 

尊号事件
 
幕末にキー・ワードとなる言葉がある。「大政委任論」がそれだ。本居宣長の国学が最も雄弁に説明しているとされる、こんなふうに。万世一系の天皇の血統が絶対的であり、個々の天皇の政治をあれこれ批判してはならない、現在のように天皇が政治から離れていても構わない、政治は天皇から委任された徳川将軍がしかるべく行なえばよい、徳川将軍は絶対的な天皇から委任されていることにより権威づけられるのである。
 天明8年(1788)8月に将軍補佐となった老中首座松平定信が、16歳の将軍家斉を諭した、「御心得の箇条」がある。その中に以下のような文言が出てくる。

1、(中略)
古人も天下は天下の天下、一人の天下にあらずと申
  候、まして六十余州は禁廷
(きんてい)
より御預かり遊ばれ候御
  事に御座候えば、かりそめにも御自身の物に思し召すまじき御
  事に御座候、将軍と成らせられ天下を御治さめ遊ばれ候は、御
  職分に候
1、
(中略)御養生遊ばれ候て、無彊(むきょう 無限の意)
の寿を御保ち
  遊ばれ、永く天下を御治さめ遊ばれ候御事、皇天及び禁廷への
  御勤め、御先祖様方への御孝心に当たらせらるべし

 
土地と人民は朝廷からの預り物であり、これを支配する権限は朝廷から与えられた職分なのだから、政治的な責任を朝廷から負っている、と書いてある。これは大政委任論であり、定信が幕府の執政として大政委任論を表明したことを示すものである。
 
では、なぜこの時期に定信は委任論を表明したのか、これである。やはり考えられるのは、前年の天明7年に朝廷が初めて幕府の政治に「申し入れ」をしたことである。
 朝廷の「申し入れ」は遠慮がちなものではあったが、実質的には幕府の失政への責めであり、今後も朝廷が口を挟んでくる可能性があった。これに対して、幕府自身の反省と権威回復が定信の課題となったと思われる。幕府自身の反省は、田沼意次によって弛緩した幕府の政治と役人の綱紀粛正で乗り切り、権威回復のほうは、大政委任論を表明し、幕府が政治を担当する正当性を強調することで乗り切ろうとしたのであろう。
 大政委任論は幕府と朝廷、将軍と天皇の君臣関係を前提にしており、朝廷の地位を高めることになるが、朝廷から委任されている以上は幕府の権限は全面的なものとすることで、幕府の権威を上げ、朝廷の高まった地位を単に形式的なものとすることができる、そう松平定信は踏んだものと思う。

 尊号事件に移る。
 119代光格天皇は閑院宮家から天皇家へ養子に入り、安永9年(1780)に9歳で即位し、文化14年(1817)に譲位、その後は上皇として院政をしいた。院政期を含めると50年以上も朝廷を支配したことになる。よく似た経歴なのが11代将軍家斉。一橋家から将軍家へ養子に入り、天明7年(1787)に15歳で将軍に就く。天保8年(1837)に将軍職を退くが、その後も大御所として幕政の実権を握った。こちらも大御所期を含めると50年以上となる。二人は2歳違いで、同時代を生きている。
 松平定信はこの二人に嫌な因縁を感じたかもしれない。
 光格天皇の父君は閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王、親王であるため公家諸法度の規定により、その地位は摂政関白、太政左右大臣よりも低かった。天皇の実父なのに低い、このことに心を悩ませた天皇は、親への孝心として太上(だいじょう)天皇の称号を贈ろうとした。松平定信は反対した。天皇の位に就いたことのない者に太上天皇の尊号を贈るのは道理に反している、というのが定信の反対理由だった。
 過去に天皇の親であることを理由に、親王へ尊号を宣下した例が二例あった。しかし、二例とも承久の乱、応仁の乱という戦乱時で、定信は先例にならないと拒否した。
 膠着状態が急変するのは寛政3年(1791)8月。関白が鷹司輔平から一条輝良に代わると、朝廷は尊号宣下の実現へ動く。同年12月、参議以上の公家40名に尊号宣下の可否を諮問し、35名の賛成を得る。これを背景に翌年に幕府へ尊号の実現を迫るが、定信に拒否される。業を煮やした朝廷は、強行の動きを見せる。
 警戒した定信は首謀者として武家伝奏正親町公明(きんあき)、議奏中山愛親(なるちか)を江戸に召還し、審理した。結果、議奏・伝奏として天皇を諌めなかったこと、幕府の内諾を得ないで行なおうとしたことを咎め、中山愛親を閉門、正親町公明を逼塞(ひっそく)、伝奏万里小路政房を差控(さしひかえ)、議奏広橋伊光(これみつ)を差控、と公卿に対して天皇の承認なしに処罰を下した。これは前例のないことだった。
 定信の論拠は、賞罰を決定するのは委任された幕府の権限であり、これは公家を含むあらゆる人々に及ぶ、とするものだった。が、老中の中には定信の考えと異なる者もいた。松平信明や本多
忠籌(ただかず)は、処罰を申し渡す前に朝廷へ届けるべきだとした。大政委任論にも温度差があった。

 定信が頑なに拒否したのには理由がある。定信は尊王の志が薄かったのではなく、天明8年(1788)の京都大火で御所が焼失した際には、朝廷の考えを尊重し、古式に則った御所を規模も拡張して新築しているのである。
 上記したように将軍家斉と天皇の経歴は似ていた。家斉の実父である一橋治斉は、「我儘隠居」といわれたような人物で、家斉が将軍になると江戸城西の丸に入って大御所として処遇されたいと望んだ。家斉もそれを希望した。治斉は当初、将軍の後見役になりたいといっていたことから、大御所となったら定信の改革に口を挟んでくる恐れがあった。そこで定信は、養父が死んだ家に実父が入るのは家政を乱すと、反対してきた経緯があった。
 つまり、典仁親王に太上天皇の称号を承認すると、治斉に大御所の呼称を認めざるを得なくなる。そのため頑強に拒否したのであった。

ターニングポイント3
 
事件ではないが、後々大きくなっていく問題の始まりを紹介したい。
 文化4年(1807)6月29日と7月3日の武家伝奏広橋伊光の日記に、以下のことが記されている。

1、蝦夷騒動の聞こえこれあり候、格別の儀にこれ無く候えども、風
    聞もこれあるべし、心得のため申し達すべき哉の旨、播磨守
(所
      司代阿部正由)
申す旨、筑前守(禁裏付池田政貞)これ申す、申し聞け
    られ然るべく答え候ところ、一紙差し出す、
1、蝦夷露西亜
(ロシア)船一件心得のため申し越す、殿下(関白鷹司政
   熙)
へ内々申し入れ候

 蝦夷騒動とは、ロシア船が文化3年9月に樺太、文化4年4月に同じく樺太(からふと)と択捉(えとろふ)、5月に利尻(りしり)に日本の会所施設や船を攻撃し、幕府が東北諸大名を軍事動員してロシアとの間に緊張が高まった事件のことである。江戸では蝦夷騒動の噂話で持ち切り、京都では不吉な歌詞のの歌が流行り、箱館では日本開闢以来の敗北と幕府を批判する声が上がり、ロシアが東北地方へ侵入したという悲観的な噂が流れていた。
 広橋伊光の日記には、禁裏付の池田が所司代から蝦夷地で騒動が起こり大したことはなさそうだが、念のため朝廷へ報告したほうがよいか聞いて来いといわれたという、広橋が報告してくれるように答えると、池田は書付を差し出した。その後、内密に関白のところへ状況を報告しに来た、ということが記されている。なお、禁裏付とは2代将軍秀忠の時に設置された朝廷内の監察官で、朝幕交渉においては幕府側窓口となった。
 さて、幕府が対外関係についての状況を朝廷に報告するなどということは、これ以前にはなく、きわめて異例なことだった。寛永の鎖国令はもちろん、ロシアのラクスマンやレザノフが来航したことも、幕府は朝廷に報告していないのである。
 なぜ、今回は朝廷へ報告したのか。
 ロシアが南進して日本に攻撃を仕掛けてくるという、ロシア警戒論は明和期(1764-1771)から知識人の間にあった。それが現実のものとなりつつあった。幕府の危機感は相当なものだったろう。大名らを蝦夷地・江戸内湾に軍事配備させるにあたって、国家として結束すると共に幕府へ権力を集中させる必要があったはずである。時代は遡るが、二人の学者が危惧していたことがある。

 荻生徂徠が8代将軍吉宗の内命により提出した、「政談」の中でこんなことを記している。
「天下の諸大名皆々御家来なれども、官位は上方より綸旨(りんじ)・位記(いき)を下さる事なる故に、下心には禁裡を誠の君と存ずる輩もあるべし。[当分ただ御威勢に恐れて御家来分になりたるというまでの事]などと心得たる心根失せざれば、世の末になりたらん時に安心なりがたき筋もあるなり」。
 天皇から官位を授与されているから、大名たちは本当の主君は天皇だと思っている、だが現在のところは将軍の威勢が強いので従っているだけ、将軍の権力が衰えた際にはどうなるか不安だ、と書いている。
 徂徠と同時代の学者、新井白石はこんな思案をした。
 将軍と家臣(大名・旗本)は、君と臣の関係にあるが、名分上はともに朝廷の官位を受けているから、同じ朝臣という関係にある。そこで武家独自の官位を設けて、
実態に名目を一致させればよい。武家には勲1等から12等までの勲位を適用する。勲位は公家の官位と同様、律令制度の官位令に載っており、勲1等は正三位に相当し、官でいえば大納言相当となる。武位だから武功のない者には授与されない。よって、武家独自の位階といえる。
 白石の考えはよかったが、現実的ではなかった。勲位は文官本位の公家社会では使用されなかったし、鎌倉以降の武家政権でも前例がなかった。公家諸法度第7条の主旨にもかなうが、歴史がまったくないものを大名らが喜ぶはずもなく、泰平時の武功基準も定めがたいものだった。
 読者の中には、「神君」とか「権現様」、「東照宮」と神に祀り上げられた家康のもとに、武家の位階を作ればよかったと考える向きがあるかもしれない。しかし、東照大権現の神号を贈ったのは天皇なのである。

 幕府が対外状況を朝廷に報告したのは、朝廷が天明大飢饉の際に飢人救済の「申し入れ」をしたように、今回も「申し入れ」をされては、幕府の威力は内政、外交ともに衰えたことを曝け出してしまう。その前に報告しておけば、大名たちに対してこれまで通りの幕府の威力を示すことができる、と踏んだものと思う。ここにおいて天皇・朝廷の地位は、単に形式的なものから実質的なものへ移行しつつあったといえよう。

海防勅書事件
 
光格上皇が天保11年(1840)11月に崩御すると、翌年の閏正月に崩御後の称号として、「光格天皇」と贈られた。意味不明の文だが、これまで○○天皇と記してきたが、これは正しい表記ではない。現在の常識は天皇が崩御されると、「元号+天皇」と贈られるのが当然としているが、江戸期では当然のことではなかった。
 江戸期は、崩御されると「○○院」と贈られるのが当然だった。公家の職員録「雲上明覧」には天皇号が付いているのは第1代神武から62代村上まで、それ以降は○○院と記してあるという。光格天皇による天皇号の復活は約900年
ぶりということになる。
 天皇号は、諡号(しごう)
追号(ついごう)に分かれる。諡号は生前の業績を賛美する文字を選んで贈る称号で、「桓武」「光格」がそれである。追号は譲位後の在所名や御所名、以前の追号になんらかの縁故を考えて「後」の字を贈る称号で、「平城」「嵯峨」がそれである。
 「光格」は諡号であり、諡号天皇は桓武、仁明、文徳、光孝で、承平元年(931)に崩御した宇多院以降は原則として追号といわれている。
 つまり、「天皇」号を復活させ、「光格」という諡号を贈った朝廷は、余程の自信と将来への確信を持っていたことが窺えるのである。それは朝廷の地位が形式的にも実質的にも高まったと、自他ともに認識することがあったのではないかと思われる。
 以前は幕府が承認しないためできなかった、「朝覲行幸」(ちょうきんぎょうこう)が再興された。「朝覲行幸」とは、天皇が父君の上皇や母君の皇太后の御所への行幸をいう。120代仁孝(にんこう)天皇が父君の光格上皇の仙洞御所へ行幸する、この再興資金として幕府は1万両を支給することになったのだが、その前に光格上皇が崩御され実現は見なかった。しかし、朝覲行幸再興を幕府が承認したことに変わりはない。
 天保8年(1837)頃から、宝暦事件では禁書扱いされた日本書記の勉強会が、仁孝天皇の御前で近習の公家を交えて催されるようになった。問題視されることもなく公然と行なわれたのであり、このことは朝廷と幕府の関係の変化を示すものといえよう。

 こうした流れの中で江戸期最後の天皇、121代孝明(こうめい)天皇が弘化4年(1847)9月23日に17歳で即位する。
  天皇即位の5年前、天保13年(1842)に隣国清が植民地政策をとるイギリスの武力に屈伏した、いわゆるアヘン戦争が終結している。そしてこれ以降、日本の港に外国の軍船が度々入港するようになり、通商の要求や測量を行なっていくようになる。以下は文化4年の蝦夷騒動からペリー来航までの外国船状況である。
 文化10年までは毎年ロシア船と、それ以降は毎年ではないがイギリス船が来航してくる。アヘン戦争後の天保15年にフランス船が来航するようになってから、毎年複数の外国船が出現し、特に弘化2年、3年は目に見えて多くなっている。


文化 4年(1807) 4月、ロシア船択捉会所・番所掠奪
同   年       同月、アメリカ船長崎不法入港
 
同   年      5月、ロシア船択捉紗那会所放火、樺太大泊侵出、利尻幕府船放
                火
文化 5年(1808) 8月、イギリス船フェートン号長崎不法入港、薪水・食糧奪取
文化 7年(1810) 5月、イギリス船常陸大津浦上陸
文化 8年(1811) 5月、ロシア船国後島上陸
同   年      6月、国後島沖で測量中のロシア艦長ゴローニンら8人を逮捕投獄
同   年      8月、ロシア船利尻島来航
文化 9年(1812) 8月、ロシア船艦長リコルドゴローニンらの釈放を拒否され高田屋嘉
                兵衛を逮捕連行
文化10年(1813) 5月、ロシア船艦長リコルド国後島来航、高田屋嘉兵衛を介してゴロ
                ーニンらの釈放要求 
同   年      6月、イギリスジャワ総督ラッフルズが長崎出島オランダ商館奪取を
                企図、失敗に終わる
同   年      9月、上記5月のゴローニン釈放
文化11年(1814) 6月、イギリス船シャーロック号長崎来航
文化13年(1816)10月、イギリス船那覇来航、通商要求
同   年     12月、イギリス船下田漂着
文化15年(1818) 5月、イギリス船ブラザース号浦賀来航、通商要求を拒否
文政  5年(1822) 4月、イギリス船浦賀来航、薪水要求
文政  7年(1827) 5月、イギリス捕鯨船常陸大津浜上陸、薪水要求
同   年      7月、イギリス捕鯨船薩摩宝島上陸、野牛掠奪
文政  8年(1825) 2月、異国船に対して即座に砲撃して追放することが指令される
同   年      5月、イギリス船陸奥沖に接近
天保  3年(1832) 7月、イギリス船琉球漂着  
天保  8年(1837) 6月、アメリカ船モリソン号漂流民7名を送還するため浦賀来航する
                も浦賀奉行砲撃により退去させられる。
同   年      7月、上記モリソン号鹿児島湾に回航するも砲撃退去させられる。
天保  9年(1838) 6月、オランダ商館長、モリソン号来航の事情を幕府へ報告
天保13年(1842) 7月、異国船に対して文政8年令を改め、薪水・食糧を支給する天保
                薪水給与令を施行(モリソン号の影響)

天保14年(1843) 3月、イギリス軍船、八重山諸島測量
同   年      8月、漂流民護送を清・オランダ二国船に限定
天保15年(1844) 3月、フランス軍船琉球来航、通商要求
同   年      7月、オランダ使節、国王の開国勧告書提出
弘化 2年(1845) 3月、アメリカ捕鯨船浦賀来航、漂流民送還
同   年      5月、 イギリス軍船琉球来航、通商要求
同   年      5月、前年のオランダ開国勧告書に拒否を通告
同   年      7月、イギリス測量船長崎来航、測量要求
弘化 3年(1846) 4月、イギリス・フランス軍船那覇来航
同   年      5月、フランス東インド艦隊司令長官セシュ琉球来航、通商要求
同   年       閏 5月、アメリカ東インド艦隊司令長官ピ
ッドル浦賀2隻来航、通商要
               
同   年        同 月、デンマーク船浦賀来航
同   年      6月、フランス東インド艦隊司令長官セシュ長崎来航、薪水要求
同   年      8月、イギリス軍船琉球来航
弘化 4年(1847)  6月、オランダがイギリス軍船長崎来航を報告
嘉永元年(1848)  5月、アメリカ捕鯨船西蝦夷地来航
同   年      7月、フランス軍船琉球来航
嘉永 2年(1849)  3月、アメリカ軍船長崎来航
同   年    閏 4月、イギリス測量船浦賀・下田来航
同   年     11月、イギリス軍船那覇来航
嘉永 3年(1850)  4月、イギリス捕鯨船蝦夷地厚岸漂着
同   年      6月、オランダがアメリカの日本開国要求の風説報告
嘉永 4年(1851) 正月、アメリカ船琉球来航、土佐漁民中浜万次郎らを護送
嘉永 5年(1852) 正月、イギリス軍船琉球来航
同    年      6月、ロシア船紀伊漂流の漁民を下田に移送
同    年        同月、オランダ、来年のアメリカ艦隊日本来航を報告
嘉永 6年(1853)  6月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー浦賀4隻来航、通商要求
同   年      7月、ロシア軍船提督プチャーチン長崎来航
同   年      8月、ロシア、樺太久春古丹占領

 その弘化3年(1846)8月29日、朝廷は前触れもなく、幕府へ海防強化の勅書を下すのである。
 朝廷には文化4年の蝦夷騒動の報告以降、一切対外関係の状況報告はなかった。にもかかわらず、朝廷は海防強化の勅書を出すのである。情報を得ていないと、こうした行為はできない。その情報を朝廷はどこから得ていたのだろうか。
 天保15年7月10日の右近衛権少将中院通富(なかのいんみちとみ)の日記に、こんな記事があるという。

「阿蘭陀王より政事の儀につき、日本に渡来の郵示長崎に至る、これに依り肥前少将出張のよし告げ来るなり、甚だ奇怪の事なり」

 オランダ国王の親書を携えた使節が長崎へ入港するのは7月2日、日記との誤差は8日である。。「奇怪」とあるから親書の内容はつかんでいないようだが、この時代の情報のスピードとしては素晴らしく早い。その内容は、「独り国を鎖して、万国と相親しまざるは、人の好みする所にあらず」と、開国してはどうかと勧告するものだった。肥前少将は10代佐賀藩主鍋島直正(閑叟)を指す佐賀藩は福岡藩(黒田家)と1年交替で長崎警備を務めていたから、海外情報は早かったであろう。こんなリアルタイムな情報が中院に入るのは、鍋島家と中院家が姻戚関係にあったからだ。鍋島直正の祖父8代藩主治茂の正室に中院通富の5代前の通枝の娘が嫁ぎ、鍋島治茂の娘で直正の大叔母にあたる女性が通富の父通繁に嫁いでいる。通富に鍋島家の血が流れているかどうかは、わたしの手持ちの資料では判らないが(後に調べたら通富は徳大寺実堅の子で中院家へ養子に入っている。よって鍋島治茂の娘は通富の養母となる)、中院家は鍋島家ときわめて近い関係にある。
 他の公卿で鍋島家と近しい家は、この当時では正親町、久世がある。この二家にも直正からの手紙が届いていたかもしれない。
 
この頃の関白は鷹司政通(まさみち)であった。政通の正室は水戸徳川家9代藩主斉昭の妹であった関係で、かなりの情報が伝えられていたようだ。この当時の水戸家との姻戚から親しいと思われるのは一条、二条、有栖川である。この三家にも斉昭から同様の情報が流れていたと考えられる。
 鍋島家と長崎警備を1年交替務めていた福岡黒田家はどうか。当時の11代藩主長溥(ながひろ)と親しいのは、長溥の義母にあたるのが二条治孝の娘であるから二条家、また長溥は薩摩島津家から黒田家に養子に入っている関係から、近衛とも親しかったと思われる。近衛は薩摩藩と姻戚関係が深いから琉球情報も入ったであろう。
 すなわち、幕府から対外情報が入らずとも、長崎警備を務める藩と姻戚関係のある摂家と公卿の一部には対外情報がかなりの早さで入っていたものと推測できるのである。
 ところで、オランダ商館長は、その交替ごとに長崎奉行へ海外情報をまとめて提出し、それを日本の通詞に翻訳させ、江戸の徳川幕府に送付するのが決まりであった。これを、「阿蘭陀風説書」(中国船からは唐船風説書)と称しているが、アヘン戦争が終結した
天保13年(1842)から、この他に一層詳細な「別段風説書」を提出させるようになっていた。
 こうした経緯から、オランダは海外状勢に神経質になっている幕府に対して、清国の二の舞になる前に開国を強く勧めたものと思われる。

 海防勅書の内容であるが、近年異国船渡来の噂を内々耳にしている、幕府は異国を侮らず畏れず海防を強化し、「神州の瑕瑾(かきん きずの意)」とならないよう処置し、天皇を安心させるようにせよ、というものであり、勅書提出と同時に朝廷は、最近の対外状勢の報告を幕府へ要求した。この要求を所司代に武家伝奏がする際、

異国船の儀、文化度の振り合いもこれ有り候につき、差し支えこれ無き事柄は、近来の模様あらあら申し進め候様には相成りまじき哉

 と述べている。「文化度の振り合い」とは、文化4年の蝦夷騒動を幕府が朝廷へ報告したことを指している。前例があるのだから今後は対外状勢を報告してくれぬか、と要求したのである。幕府はこの要求を問題視せず、弘化3年の異国船来航状況を書付にして朝廷へ提出する。これ以降、幕府は逐一朝廷へ報告するようになるのである。

日米通商条約勅許事件
 
幕府がアメリカと結んだ条約は、嘉永7
年(1854)3月3日の日米和親条約(神奈川条約、同年5月25日に下田条約)と、安政5年(1858)6月19日の日米修好通商条約である。
 和親条約の内容は、薪水・食糧の供与、難破船・漂流民の保護、下田・箱館の開港と領事の駐在、アメリカに最恵国待遇を付与など。
 修好通商条約の内容は、神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、日本に関税自主権のない自由貿易、アメリカの治外法権を認めるなど。

 ペリーが初来航するのは嘉永6年(1853)だが、7年前の弘化3年(1846)にもぺリー同様、東インド艦隊司令長官の地位にあるピッドルが来航して通商を要求している。嘉永3年と同5年にはオランダからアメリカが開国を要求しに艦隊でやってくるとの報告もある。幕府も前もって警戒したが、ペリーも失敗を繰り返さないよう研究したと思われる。
 ペリー来航予告の情報に接した幕府は、海防掛(かいぼうがかり 老中・若年寄・大目付・目付などから構成、海岸防備策が主務だったが対外関係全般を評議するようになり、安政5年から外国奉行へ発展解消)の役人や長崎奉行に対処法を諮問すると共に、長崎警備の佐賀・福岡両藩、琉球との関係から薩摩藩、江戸内湾警備の会津・彦根・川越・忍の4藩、御三家に予告情報を公開する。
 朝廷には幕府からの報告はなかったが、水戸藩主徳川斉昭から関白鷹司政通に情報が伝えられていた。
 ペリーが来航したのは6月3日、朝廷へはペリーが去った3日後の同月15日にペリー来航を報告、アメリカ大統領親書(国書)は7月1日に諸大名へ開示し返書について諮問しているが、朝廷にアメリカ国書を提出するのは7月12日であった。
 ペリーは翌春の来航を約して去ったわけだが、幕府は前例のない諸大名へ諮問する有り様で、この年の11月下旬に13代将軍家定の将軍宣下で武家伝奏三条実万(さねつむ)が江戸へ下向すると、老中首座阿部正弘が天皇にお考えがあったら遠慮なく幕府へ仰って下さい、幕府はその御意向に沿って措置しますとの旨を2回も伝えたそうである。天皇の命令通りに幕府は動くといってるようなもので、アメリカへの対処法に余程苦慮していた様子が窺える。
 諸大名の意見が統一されることもなく、幕府の対処法は曖昧なまま翌年春を迎え、アメリカと和親条約が結ばれる。朝廷へは事後承認・事後勅許の形となり、4月29日に幕府から、国防態勢不備のためやむなく寛大な措置を講じたとの報告があった。朝廷は同意したが、弘化3年の
勅書のように、「神州の瑕瑾」なきよう処置せよと指示した。

 この頃の朝廷をリードしていたのは関白鷹司政通だった。政通は不思議なことに、情報源とする徳川斉昭とは逆の開国論者だった。伝奏の三条実万や議奏の烏丸光政、大納言久我建通(たけみち)など反対する者もいたが、政通の3代前の祖が閑院宮直仁親王にあたり、孝明天皇と祖を同じくする血統のよさと、その政治的老練さをもって押さえ付けてきたのだった。政通の考えは、江戸期より昔は諸外国と交渉を持っていた、武士が臆病で怠惰となった現状では外国にはとてもかなわない、戦争をするより貿易で利益をあげたほうが得策だ、というものであった。
 鷹司政通がリードする朝廷において最も恐れたのが、外国の軍船が京都近くに来航することだったという。朝廷は嘉永7年2月に、京都警衛について所司代に問い合わせている。これに対し所司代は朝廷の意向を聞いてきた。鷹司政通は尾張か彦根のような大名が総督となり、譜代の武士による警衛がよろしかろう、と答えている。
 同年9月に大坂湾安治川河口の天保山沖にロシア使節プチャーチンの軍船ディアナ号が突然現われる。朝廷内は騒然となり、極秘に彦根城へ遷都する準備が進められたという。当時の彦根藩主は井伊直弼、もし彦根城遷都が実現していたら、安政の大獄はなかったかもしれない。

 安政3年(1856)7月、アメリカ駐日領事ハリスが下田に着任。9月になると通商条約の交渉開始を提起。安政4年には通商条約締結、調印が問題となってくる。幕府は「世界の形勢変革」という漠然とした理由から通商交渉を行なう方向にあった。この時、江戸城溜間詰(たまりのまづめ)大名から質問書が老中らへ提出される。溜間詰大名とは、彦根井伊、会津松平、高松松平の定席、この他に忍松平、姫路酒井、松山松平、桑名松平、及び老中経験者の中から選ばれた者たちが詰めていた。いわば元老格待遇の大名たちといえるかもしれない。
 彼らは国持ち大名=有力外様大名たちが納得しているのか、朝廷へは事後報告でいいのか、この二点について心配して問い合わせたのである。老中(当時は阿部正弘、堀田正睦、久世広周、内藤信親、脇坂安宅、松平忠固)たちは、有力外様大名は「いかようにも申しなだめ候見込み」であり、朝廷へは近々に報告するが、事後報告でも「すべての事江戸へ御任せ」なので問題なしと答えている。
 しかし、水戸の徳川斉昭が安政4年7月に、関白九条尚忠(ひさただ)宛てに意見書を送っていた。その内容は、欧米の野心は日本侵略であり、通商条約を締結すると国家滅亡につながるとし、朝廷に傍観することなく反対の意志を鮮明にして、諸大名や有志の奮起を促すべきだと述べている。
 幕府は安政4年12月29日、30日の両日、外様大名に江戸城登城を命じ、通商条約締結の方針を説明。反対意見はなかったが、尾張藩主徳川慶(よしたみ)、仙台藩主伊達慶邦、鳥取藩主池田慶徳(よしのり)、阿波藩主蜂須賀斉裕(なりひろ)などから、朝廷の勅許を求めるべきだとの意見が出る。
 朝廷へは12月29日に林大学頭と目付津田半三郎が武家伝奏に、通商条約締結やむなしの説明をしていたが、幕府は改めて外交担当老中堀田正睦(まさよし)を京都へ派遣し、日米和親条約締結以来まとまりに欠ける国論を、天皇勅許によって一挙に統合へ向けようと企図したのだった。
 孝明天皇は鎖国攘夷論者であった。関白九条尚忠に送った
宸翰(しんかん 天皇の直筆文書)にこうある。

「私の代よりかようの儀に相成り候ては、後々までの恥に候わんや、それに付いては、伊勢始めのところは恐縮少なからず、先代の御方々に対し不孝」

 外国と通商条約を結ぶなどという一大事が自分の代にあれば、伊勢神宮を始めとして申し訳なく、先祖の歴代天皇に不孝である、と責任を感じている。
 天皇個人の考えがこうであっても、朝廷の考えは朝議によって決定される。公家諸法度により朝議を独占するのは、関白・武家伝奏の政務ラインなのであった。孝明天皇は関白への宸翰に、関白・太閤(鷹司政通)に遠慮することなく公家が自由に意見がいえるようにし、現職の公卿へも諮問するようにも書いていた。
 上洛した老中堀田正睦は、安政5年2月11日に、武家伝奏と議奏を旅宿の本能寺に招いた。堀田は得心してもらうよう、こんなふうに説いた。選択肢は世界の市場経済の中へ入っていくか、鎖国を維持するために戦争するしかない、だが戦争に勝利する可能性はない、通商条約を締結して世界市場経済の一員となり国力を挽回していく、日本国の道は今やこれしかない。
 堀田は武家伝奏の支持を得た。元から開国論者の太閤鷹司政通も堀田を支持した。
 孝明天皇は朝議の行方も心配だったが、左大臣近衛忠熙に宸翰を送り、戦争をすれば堀田のいったように本当に負けるのかどうか、姻戚関係にある大名らに確認してほしい旨を述べている。
 朝議は2月21日に開かれた。結論は、三家諸大名に意見書を提出させて天皇にご覧にいれるように、というもので現段階では勅許は出せないとしたのであった。
 この頃、彦根藩士長野義言(よしとき)は井伊直弼に命じられて京都で朝廷工作を行なっていた。長野は朝議政務ラインの中核である関白九条尚忠を抱き込もうと、親交のあった九条家の諸太夫島田左近を介して九条尚忠と接触する。長野は本居宣長派の国学者でもあったから、通商条約締結のやむを得ない状況を堀田よりも巧妙に説いたと思われる。それによって九条尚忠は豹変し、鎖国攘夷派の青蓮院宮尊融親王(しょうれんいんのみやそんゆうしんのう)、内大臣三条実万、左大臣近衛忠熙の3名が会合することと、青蓮院宮の御所参内を禁じた。
 こうした関白の動きに反発する公卿が3月になると出てくる。3月3日に議奏久我建通が辞表を提出、同7日には権大納言中山忠能(ただやす)、前権中納言正親町三条実愛(さねなる)、権中納言正親町実徳(さねあつ)、参議八条隆祐(たかさち)、参議中院通富、参議橋本実麗(さねあきら)、参議野宮定祥(ののみやさだなが)の5名が連名の意見書(条約締結は神国の汚穢との反対論)を武家伝奏へ提出。
 関白九条尚忠は勅答案を作成し、3月9日の朝議で決定しようとした。その勅答案の内容は、天皇は決断できないので幕府のほうで判断してやってくれという旨であった。関白は三公と五摂家による朝議での決定をねらっていたが、近衛忠熙と三条実万が欠席し、決着はつかなかった。この日、議奏徳大寺公純(きんいと)は御所からの帰宅途中に、何者かに輿を囲まれ斬られそうになったという。関白派の伝奏東坊城聡長(ひがしのぼうじょうときなが)と間違えられたものらしい。
 これ以後、勅答案は二転三転し、平堂上にも意見書を出させるなどした結果、3月20日に堀田正睦に勅答を伝達することになる。2月21日の朝議の結果と大差ないもので、三家諸大名に意見書を提出させ、天皇にご覧にいれてから再度天皇に伺うように、という内容であった。
 堀田は幕府一任の勅答案を取ることができず、国賊と罵られた武家伝奏東坊城聡長は辞職、禁裏付都築峯重(つづきみねしげ)は自裁するなど、幕府にとって後味の悪い結果となった。