天皇公卿の制度と事件                                    江戸と座敷鷹TOP   江戸大名公卿TOP

 

江戸時代の天皇公卿は平安時代とは異なる。平安時代の摂政藤原兼家は午前6時30分頃に参内し、午前10時には退庁している。遅くても正午前には退庁するのである。勤務時間が午前中のみだから、朝廷といったのかどうかは知らないが、兼家は毎日午前3時頃に起床すると、出勤支度に取り掛かっている。
 これが江戸時代になると、関白は毎日午前10時に参内し、午後2時に退庁するのである。この勤務時間帯は幕府の老中などの重職と同じである。五摂家も平安時代にはなく、鎌倉時代から始まっているわけで、華々しい平安時代とは様相が違ってくるのである。

 さて、関白である。関白は退庁するまで御所の八景間(はっけいのま)を詰所として、議奏や武家伝奏らと打ち合わせながら政務を掌った。関白は毎日の勤務だが、大臣や大中納言、参議は毎月朔日(さくじつ ついたちの意)と15日に御礼に参内し、あとは公事に召された時だけであった。
 関白には正米500石が役料として支給され、摂関職が氏の長者を兼任する決まりであれば、氏の長者としての禄高500石の支給があるから合計1000石の収入となる。
 摂関家の一つの一条家には姻戚関係となった大名から毎年援助(御手伝と称したようだ)があった。判っている御手伝として紀州家から1000石、肥後熊本細川家から1000石、備前岡山池田家から1000石、水戸家から500石〜300石。合計3300石、これだけで一条家の家禄を超える。これに関白・氏の長者になった場合の1000石と家禄2044石を加えると、6344石。姻戚大名は他にもいるから1万石近くになったであろう。大名のように参勤交代や御手伝普請などの国役、軍役などはないから、摂関家や姻戚大名の多い公卿は結構な生活ができたと思われる。
 さらに、摂家の子女が寺院に入院すると、摂家門跡となったその寺院から毎年50石〜100石の御手伝があった。天皇の皇子女が入院する宮門跡も同様だったという。
 公家諸法度が三公は親王の上座としたため、往来で摂家と親王家の乗物が出会うと親王家のほうがよけ、朝廷での法事などでも摂家の焼香が済んでから親王家が焼香した。
 また、摂家の家柄の者が中将、少将でいる間に、往来で大中納言の平堂上の者と出会うと、先方の大中納言は丁寧に礼をするが、摂家の中少将は駕籠の戸前を引くだけだった。
 摂家の勢いは大したものだったが、その摂家の筆頭の近衛家は、元服の際に天皇から直筆で名前を賜った。これは摂家の中では近衛家のみだったというから、近衛家は一頭地を抜いていた。

■例年2月になると江戸から年頭の使者として、幕府の儀式・典礼などを担当する高家が参内する。この時に大名、旗本の官位申請書である小折紙(こおりがみ)をまとめて持参し、武家伝奏に伝達する。伝奏がこれを職事に送り、職事(しきじ)は議奏に渡し、議奏は関白に伝達し、関白は議奏と相談し、その上で宣下(天皇の命令文書を下すこと)がある。
 高家はこの宣下の口宣(くぜん 叙位任官の勅命文書)を伝奏から受け取り江戸へ帰る、という段取である。
 関白と同様に議奏、武家伝奏、職事は毎日勤務だった。殊に職事は忙しい。議奏・伝奏から伝えられる命令によって諸公事を奉行し、官位の事で勅問(天皇の質問 勅が付けば天皇の意)の家に勅使として行ったり、宣下された官位を口頭で申し渡したりする。職事は蔵人頭2名、五位蔵人3名が任にあたるが、蔵人頭の中の1名は羽林家から出て近衛中将を兼任する決まりで、これを頭中将(とうのちゅうじょう)と呼ばれた。もう1名は名家から出て弁官を兼任するので頭弁(とうのべん)と呼ばれた。
 頭弁は少弁から大弁、五位蔵人を経て蔵人頭に就くので事務処理に慣れているが、頭中将は近衛権中将から蔵人頭に就くため事務仕事には慣れていなかった。いわば事務の素人がいきなり事務処理の責任者になるため、他の4名は面白がって苛めたそうである。
 上役苛めほど面白いものはないが、苛められてはかなわないので頭中将になった者は詰所に酒食を持参し、部下をご馳走攻めにして機嫌をとったという。
 
 職事の勅問勅使について。官位の申請書である小折紙を出さないと昇進はできないので、摂家でも小折紙を職事へ出すが、摂家の場合は即日披露即日宣下となる。清華家以下の小折紙だと、職事はこれをまとめておき月1回〜2回の勅問日に、これを持って勅使として関白以外の摂家を廻って意見を伺う。摂家で異議なしとなると、関白は議奏と職事を連れて常御殿(つねごてん 天皇が日常いるところ)に上がり、御小座敷で天皇と関白が対座して、議奏が小折紙を広げて関白に差し出す。関白は扇の要(かなめ)で点を捺し、天皇は親指の爪で勅点を捺す。
 以上が裁許の形式で、これによって宣下となった。官位の位(二位や三位など)はその家の世襲例によって小折紙を出すので落とされることはなかったが、官(大納言や参議)のほうは一つの空きに対して小折紙が出てくるので落とされることが多々あったという。宣下の日には合格者も落第者も呼び出して、職事からその旨を申し渡し、落ちた者には小折紙を返した。
 叙位の正式文書を位記(いき 天皇の授与文書)という。位記を作成する担当は内記(ないき)というが、位記を作る紙代や表具代に金1分〜2分ほどを要した。堂上や地下の公家たちが位記を作成してもらう礼金は金2分と決まっていた。しかし、彼らは位記を作成してもらおうとせず、担当の内記のほうでも実費を割りそうな礼金額で作成するのを嫌った。金2分も出して嫌な顔をされるほうも堪らない。これに対して、武家や地方の神官はかなりの礼金を積んだので、内記は大喜びで位記を作成したらしい。
 位記がこうした次第なので、公家たちは口宣で間に合わすことになる。ただし、堂上は口宣をもらわなかった。地下は宣下の翌日、職事の屋敷へ行って口宣をもらう。お礼は鯣(するめ)2連(1連は10枚)か、金なら2疋(1疋は10文、後に25文)だった。
 武家の礼金を調べてみると、寛永期(1624-1643)の叙位と任官に対する礼金は御所に対して、四位・五位は黄金1枚(10両相当の大判金1枚)、従三位は黄金3枚、少将・侍従は銀30枚(一枚銀43匁)、中将は黄金3枚、参議は太刀折紙料銀50枚(太刀目録と銀50枚)など。この他に仙洞や女院(にょいん 皇太后の御所)などへも礼金を贈る決まりだったようだ。

■江戸時代に堂上家を内々(うちうち)と外様(とざま)に区別するようになった。天正期末年(1592
)を境にそれ以前に成立していた家を旧家、それ以降に成立した家を新家と呼ぶが、これと内々、外様は関係しない。内々・外様の別は家格に差が生じたとする説と影響なしとする説がある。ちなみに清華家の中で外様は西園寺家のみで、他は内々である。
 差があったとする説は、下賜や拝謁などの待遇が違っていたとする。区別が生じるところには差があるのが常だと、わたしは思う。内々と外様は御所の詰所が異なり、内々番所と外様番所に分かれた。いずれも毎日昼夜に渡り輪番した。これを「御番(ごばん)と称した。御番は嫡男が元服して15歳より勤仕することになっていた。摂家はもちろん勤番しないが、清華家以下は高齢か大臣を務めた者以外は総員を五番に組み分けして輪番交替した。各組には番頭(ばんかしら)がいた。番頭は大中納言の者から選ばれ、毎年6月、12月に番組が改められたという。
 堂上に対して昇殿を許されない公家を地下人という。これは六位からなのだが、六位の蔵人だけは昇殿を許された。六位の蔵人の中にも順位があり、上から極臈(きょくろう)、差次蔵人(さしつぎくろうど)、氏蔵人(うじのくろうど)、新蔵人。特典のようなものがあり、極臈を一代で三度務めるか、父子孫の三代で務めるかすると、その家は五位の堂上家の家格となることができるというもの。
 新蔵人から氏蔵人へ昇るのに10年かかるという。よって新蔵人から極臈に昇るのに30年かかる。人の一生分であるから、父子孫の三代とも長生きして勤仕しないと無理だ。なんとか遣り遂げた家が時々出たという。目出度いことだ。
 地下人の役職は概ね外記方(げきかた)、官方(かんかた)、蔵人方(くろうどかた)に分けられる。この三つを三催(さんもよおし)といった。三催の署・役を記すと以下。

外記方 大外記、外記、史生(ししょう)、文殿(ふどの)、召使、少納言侍、中務(なかつ
      かさ)省史生、大舎人寮(おおとねりりょう)、同史生など
官  方 官務、史、史生、官掌(かじょう)、召使、弁侍、内舎人(うどねり)、内匠寮(たく
            みりょう)史生、大蔵省、同史生、木工寮(もくりょう)官人、同史生など
蔵人方 出納(すいのう)、御蔵小舎人(おくらことねり)、蔵人所衆(くろうどどころ
しゅ
      う)、同行事所、図書寮(ずしょりょう)、同史生、内蔵寮官人、同史生など
 
 
この他に検非違使、楽人(がくにん)、滝口、近衛府、院司、陰陽寮などや、摂家、親王家、清華家、大臣家、門跡などの諸大夫(しょだいぶ)、侍があった。
 摂家の諸大夫は正六位下から始まり正三位まで進み、官は省の輔(すけ)、寮の頭(かみ)、職(しき)の亮(じょう)、司(し)の正(かみ)などに任ぜられ、親王家の諸大夫の官位も摂家と同様だが、清華家の諸大夫は一段劣り、大臣家はさらに劣った。
 摂家、親王家、門跡には諸大夫の下に、六位侍、用人、近習、勘定方、青士(せいし)、茶道(さどう)など士分の者がおり、その下に小頭(こがしら)、中番(なかばん)、下僕(しもべ)がいた。
 近衛家には近習30〜40人、中小姓10人、青士20〜30人がいた。一条家では用人3〜4人、近習14〜15人、中小姓3人、勘定方3人、青士10人、茶道2人、小頭4人、中番4人。清華家、大臣家では侍の下に近習、青士をおき、平堂上は雑掌(ざっしょう)、近習をおいた。近習は1年の給与が3石だったので、「3石さん」と悪口をいわれたそうだ。江戸で呼んだ、「三一」(さんぴん 3両1人半扶持 御蔵奉行小揚の者の給与)と同じようなものか。
 上記の三催に史生(ししょう)の役が多く見える。史生は省、職、寮、司で任ずるもので、そこの実権を握っている家の自由になったようだ。例えば中務省(なかつかさしょう)では平田家が実権を握っており、自分の家に出入りする魚屋や蕎麦屋、小間物屋などから史生にしてほしいと頼まれると、「補中務省史生」の辞令を出し、この旨を職事に届ける。職事は「地下次第」という記録にこれを書き入れる。すると、しばらくして魚屋の某が正七位下に叙せられ、「肥後大掾(だいじょう)などという国の掾に任ぜられる。
 公事があれば官位相当の装束を着け供を連れて出掛け、家に帰れば魚屋に戻る。魚屋の隣に玄関を構え、菊の紋の高張提灯を出しもする。こうしたことができるのは当然富裕な町人で、相応の礼金を贈っているわけだ。官位をもらう町人の利点は、奉行所の役人が家に踏み込んでこないこと、菊紋の高張提灯がある店には悪人が踏み込んでこないこと、3点目は自己満足あたりだろうか。

■御所の勝手向(財政面)の事務を行なう部署を「口向(くちむけ)と呼んだ。この口向の諸役人を支配する者が「御付武家(おつきぶけ)で、これは幕府から朝廷への付人であった。2名おり、1名を上御付(かみのおつき)、1名を下御付と呼んで区別した。いずれも旗本であり役料1500俵が支給され、与力10騎、同心40人が各々に付属した。
 口向の諸役人を紹介する。
 士分以上の役人は以下。上から順に記す。

執次(とりつぎ)
御付武家を助けて口向一統を総轄する。定員7名
役料5石。
賄頭(まかないかしら)
幕府御家人が旗本格で務めた。口向の金銭出納を掌る。定員1名。
勘使(かんづかい)兼御買物方
賄頭に従って金銭出納を掌る。また御入用品物の買入方を申し付ける。定員は4名、2名は幕府御家人、2名は中詰(ちゅうづめ 後述する)から昇進した者。
御膳番
板元諸役で説明する。

修理職
営繕を掌る。

賄方
賄頭と勘使に従い賄(経理)を掌る。定員6名。
板元諸役
板元は料理番のこと。板元吟味役が3名、板元、板元表掛(おもてがかり)、板元見習が各若干名いた。天皇の食事は板元が板元表掛を使って調進し、板元吟味役と立会いの上で容器に入れる。これを御膳番に渡し、御膳番は女官の御末に渡す。さらにこれを命婦が運び、典侍と掌侍が陪膳(給仕)して、天皇が召し上がることになる。
鍵番

口向と奥(後宮)との境の戸口=御錠口の鍵預かっている。なお、後宮は江戸城大奥のように男子禁制ではない。
奏者番
奏者所に詰めて公家、武家、寺社からの使いを受付ける。献上物はここで受け取り奥へ廻すが、奏者番は当然のごとく献上物の上前をはねたという。1日交替で定員4名。

使番
奥の女御などからの御用文匣(ふばこ)を持参して届けたり、寺社への代参などの御使い全般。使番の古参になると文匣の封を解かずに中の文を読むことができたそうで、この秘伝は代々の使番に伝えられたという。また、典侍や内侍が代参や宿下がりの際は、口向の玄関である奏者所の玄関で駕籠に乗ったが、この時は「御塞り」(おふさがり)と称して女中が玄関の障子を閉めるので、使番は障子が開くまで玄関の式台で控えていたという。
 
 この他の士分に番頭、小間使があった。これ以下は仕丁(じちょう)と総称するが、下部(しもべ)小者とも呼んだ。仕丁は苗字帯刀羽織袴の者から縹石持看板(はなだのこくもちのかんばん)という法被(はっぴ)のようなものに股引尻からげの木刀一本差しという者までいた。
 士分の諸役は、武士から就く者と地下官人から就く者がいた。地下官人の場合は、御膳番以上は中詰(ちゅうづめ)の家から、奏者番以上は使番の家から昇進していく決まりだった。
 中詰の家は30軒、一軒が無位無官の他は官人。中詰の仕事は御付の給仕役で三日に一度の勤務だったので、官人の給与だけでは暮らせないため中詰に出た。中詰は5石2人扶持。扶持は武家と異なり、2人扶持は1日8合+7合=1升5合であった。1年で5石2人扶持は10石4斗の計算となる。
 使番の家は無位無官が65軒、官人が49軒。給与は中詰と同様に5石2人扶持。

 御付武家の話に戻す。
 御付の行列(先徒士3名、槍持、駕籠かき4名、近習2名、草履取、傘持、押さえ2名)は駕籠の前に槍を立てた。自分の持槍だったが、「お上から拝領の槍」と称して往来で摂家、大臣、親王に出会っても槍を伏せなかったそうだ。とはいえ、御付自身は駕籠から降りて一礼し、摂家、大臣、親王は輿の御簾を少し上げる。御簾は通常巻き上げてあるが、御付が来ると供の者が御簾を下ろし、出会う際に少し上げるのだという。
 御付に口向の士分の者が会って礼をすると、御付の駕籠に付いている近習が駕籠の戸前を引くが、士分以下の者が出会って平伏しても御付は挨拶を返さなかった。
 御付の勤務は月番で毎月交替した。勤務時間は午前10時に出仕して午後3時に退庁した。出仕は行列のまま台所門を入り武家玄関から上がる。この時に玄関に詰めている預(あずかり)の仕丁が、「御付さん御上がり」と大声で触れる。冗談で「お月さんが昼上がる」といわれたらしい。
 御付が伺候之間に入ると、中詰が茶と煙草盆を出す。正午になると二汁五菜の料理が出て、中詰が陪膳する。料理は摂家、親王、大臣と同じものだったが、彼らのものは三方(さんぽう 前・左・右に穴を開けた台付き膳部)に載せられ、御付のは平付(ひらつけ 脚のない膳部)の違いはあった。
 武家伝奏と面会する際は、武家伝奏を呼びつけたというから、幕府を代表しての御所(禁裏)御付武家の勢いは大したものであった。

■天皇は毎朝含嗽(うがい)、洗顔を済ませると「おあさ」の後で朝餉(あさがれい)を摂られたという。「おあさ」は餅のこと。室町時代に河端道喜(どうき)という餅屋が献上したのが始まりで、江戸期になっても献上していた。「おあさ」は、団子くらいの大きさで塩餡(しおあん)が被せてある餅。これを土器に6個盛り付け、白木の三方に載せてあり、手ではなく箸で持ったことを示すため、縦横に筋を付けてあった。しかし、天皇は「おあさ」を召し上がらず、「おあさ」は朝餉の前に差し出すのが慣例だったそうだ。
 天皇の三度の食事は白木の三方に載せた。箸は楊箸(やなぎばし)。天皇が使った箸を頂戴すると瘧(おこり)が落ちるとの言い伝えがあったため、諸方から頂戴したとの多くの願いがあったという。天皇が使った箸は側の者が折って下げるので、別に箸を差し上げて口に付けてもらったものを、手蔓を求めて来た者たちは有り難く頂戴したようだ。
 昼の御膳には必ず目の下1尺の鯛の塩焼きが差し出され、夕の御膳には錫の徳利で燗をした酒が付いた。第121代孝明天皇(明治天皇の父君)は6時過ぎから10時頃まで酒を召し上がったらしい。
 「皇室式微(こうしつしきび)という言葉がある。式微とは、きわめて衰えるの意であり、室町・戦国時代の皇室を指すことが多い。「おあさ」の餅の献上は皇室式微の時代から河端家が始めている。立入家(たてりけ)も皇室式微の時代に御粥を献上し続けた縁から、江戸期には八朔(はっさく 8月1日)には甘酒を拵え、これに香の物を100本添えて献上している。
 さて、「天皇公卿の制度と事件」の1で触れた女官の続きである。
 御差は天皇がお手水の際に「東司(おとう 便所の意)にお供する。夜分などは手燭を持って案内するので、直接天皇に返事をすることができ、天皇と最も親しい関係にあったという。御末は配膳の他に板元が作らない卯の花の煮物などを作ったりもした。
 御末以上は親が特定の身分であることを要した。例えば命婦は親が三位以上でないと就けなかった。
 女官の下に雑用係りの仲居と茶之間がいた。士分、百姓、町人いずれの女子でも構わなかった。仲居は紅色の前垂をしめたという。
 朝廷の賄は10万石だった。この内から3万21石6斗が天皇の日常費となり、天皇の食事や衣類、毎月1日の摂家・親王・大臣への御馳走費、議奏・伝奏・職事への食事、典侍・内侍らの給与・食事、口向武士、家僕らの食事などをこれによって賄う。残りの内の1万3000石を江戸・上野の輪王寺宮が取り、あとの5万6000石余りが摂家、親王家、その他の公家に配分された。
 皇子女が准后(じゅごう 太皇太后、皇太后、皇后に准ずるという称号。ここでは皇后に准ずる妃)に誕生すると、幕府から300石の支給があり、別の御殿で養育される。皇子女が親王家へ養子に行くと、300石は養子先へ持って行った。典侍や内侍に皇子女が誕生すると50石しか支給されないが、50石で皇子女は別の御殿で養育される。摂家、親王家との縁組や尼さんになると、250石が足されて300石が支給された。

 以上で天皇公卿の制度は終わりにし、天皇公卿と幕府との事件へ進みたい。天皇公卿の制度についてもっと詳細を知りたい方は、幕末に一条家の侍だった下橋敬長(ゆきなが)の口述をまとめた「幕末の宮廷」(平凡社東洋文庫)をご覧願いたい。