■付記 座敷鷹が廃れたのは博打化によって幕府に禁止されたため、とする史料があった。 先述した石井良助著「第三江戸時代漫筆」(明石書店)に挿絵がある。挿絵はすべて「宮武外骨(賭博史)所載」となっている。宮武外骨(みやたけがいこつ 1867-1955)と言えば、何回も筆禍事件を起こした明治・大正期の奇妙かつ反骨のジャーナリストのイメージがわたしにはあり、興味をそそられた。 地元の武蔵野中央図書館で調べると、「賭博史」は「宮武外骨著作集第四巻」(河出書房新社 85年刊)に収録されていた。 「賭博史」は大正12年5月の発行。例言にこうある。 「昨年の十二月三十日、あすは大みそかという日、旧友の折口信夫先生が来訪されて、彼是と雑談の末【賭博の事を書いた本は古来一つもないが、これも国民性研究の一として是非なければならぬ物で、アナタのやうな人がやるべき事だらうと思ひます、我々の如き教職にたづさはつて居る者共は、賭博研究の専門書がないので、いつも困る事があるのです、アナタ一流の編纂式でやつて下さいませんか】との要求」(原文は旧漢字。水喜が改めた。以下同)があり、これがきっかけになったと述べている。 また、自跋にこうある。 「歴史は民衆生活の表裏を基礎とした叙述でなくばならぬ、支配階級者の動静や、政権争奪の戦乱記などを主としたものでは、その歴史といふ意義を成さない、又そんな歴史は自己に目醒めた後生には何等の益もない」。大賛成である。 ■能書きが長くなった。件の史料は同書「動物バクチ」の「(五)虫合せ」にある。 「子供の遊戯としては甲虫を闘はせたり、蜘蛛を闘はせたりする、賭博といふ程の事ではないが、時としては五文十文のカケをする地方もあるといふ、土佐では鬼蜘蛛といふのを捕へて闘はすさうである、又闘はすといふ程でなく、桶か大鉢などに水を入れて其上に一本の細い棒を架け、其棒の両端から蜘蛛を歩かせて、中央で出合つた時、一方の蜘蛛を退かせて、先方へ渡つたのを勝とするなどの事もある 【古事類苑】に引用せる【閑窓自語】には大供が蜘蛛合せの賭博をやつた事が出て居る 【土御門故二位泰邦卿かたられけるは、享保のはじめ、世に蝿とりくもとかやいふ虫をもてあそぶ事あり、風流なるちいさき筒に入れて、蝿の居る所へとばせてとらしむ、一尺二尺など遠くとぶをもて最上とす、よくとぶ蜘はあまたのこがねにかへてあらそひもとめ、蜘合をして博奕に及ぶのあいだ、武家より制してやめしむとぞ、世にめづらしきもてあそびもありけるなり】 此外、支那人は螽斯を平皿に載せて闘はせる賭博をやると聞くが、我国では行はれないやうである」 螽斯は音読みでシュウシ、キリギリスのことだがコオロギの古称でもある。中国でコオロギを闘わせるゲームについては瀬川千秋著「闘蟋」(とうしつ 大修館書店)で詳細が判る。2000年の歴史があるそうだ。 さて、手っ取り早く「古事類苑」から調べるとは、さすが外骨である。この手があったんだな、と虚を衝かれた感じである。「古事類苑」は現在、吉川弘文館から普及版全51冊として刊行され一般の図書館で閲読できる、我が国最大の百科史料全書と言われている。ついでに同出版社から「国史大系」全66冊も刊行されており、「公卿補任」(くぎょうぶにん)「尊卑分脉」(そんぴぶんみゃく)「徳川実紀」など基本史料が収録されているので興味のある方は利用されるといい。 それで「閑窓自語」である。著わしたのは柳原紀光。公卿で正二位権大納言、延享3年(1746)-寛政12年(1800)享年54歳。「閑窓自語」には公卿らの逸話や本草関係のことなどが記されているが、虫の類いより植物や鉱石に関心があったようだ。30〜60aも跳ぶハエトリグモはいない。せいぜいが10aくらいだ。 ■脇道へそれてしまった。座敷鷹が博打化して幕府が禁止した、よって廃れた。これを裏付ける史料が「閑窓自語」と見られたのだろう。歴とした位階にある公卿が記し、特異な家職にある土御門のそれも技量に富む公卿が伝えた話なのである。まことに由緒正しき史料と言えよう。 が、真偽は分明となったわけでない。どこで流行ったのか、京都か江戸か。記してないから京都なのだろう。先述した座敷鷹に関する史料、「好色一代男」は江戸で流行っていると記し、「足薪翁記」と「嬉遊笑覧」は江戸人が著わしたものである。江戸と京都の時間差はその内容によって異なるだろうが、1、2年の内には流布すると見なしていいのではないか。 そこで、幕府から禁令が江戸の町人たちへ出された事実があるかどうか、これを調べることにした。 時代の区切りとして天和2年(1682)〜享保4年(1719)の37年間。この期間にした理由は、まず天和2年から説明すると、この年は西鶴の「好色一代男」が出版されていること、さらに西鶴が41歳の時の出版であることから、「好色一代男」でハエトリグモが登場するのは主人公の世之介が30歳の設定の文中に見られ、11年前(西鶴41歳−世之介30歳=11)の風俗を取り入れた可能性も推定され、であれば天和2年以降に禁令が出る確率が高そうだ、と考えたわけである。 享保4年は「閑窓自語」にあるように享保の初めに流行ったとあり、京都で座敷鷹ゲームが自然発生的に生じたとするより、江戸に出店を持つ富裕商人や俳諧の連衆(れんじゅう)を通じて広まったと推測するほうが自然であり、そうであるなら京都で禁止する以前に江戸で禁令が出されたであろう、と考えたことによる。
■検証 以上の期間の禁令を、「江戸町触集成第二巻・第三巻」(編集・近世史料研究会 塙書房 94・95年刊)で調べた。江戸の町触(まちぶれ)は町奉行所から町年寄の三家(奈良屋・樽屋・喜多村)へ伝えられ、三家が町名主へ、町名主が家持(いえもち 家屋敷を所有している住居人)・家主(いえぬし 管理人)へ、家主が店子たちへと伝達したもので、内容は禁止事項のみではなく火の用心や誰それの屋敷の建築入札案内、上水道の総浚い案内など多義にわたる。 調べた37年間は綱吉、家宣(3年)、家継(4年)、吉宗の時世にあたる。各時世の町触を読んだ感想を述べると、綱吉は死や血を穢れたものとして強烈に忌み嫌った人のようで、服忌令(ぶっきれい)が複数回にわたり長々と出ている。服忌の服は喪服であり、曾祖父母は何日とか外祖父母は何日、流産は何日と細かく決めている。また酒が嫌いだったのか酒の寒造りの米量を減少したり後には禁じている。 家宣・家継の時世は出居衆(でいしゅ 深川遊所語では「でいし」だが、ここでは地方からの出稼奉公人の意味)の取り調べを厳しくするよう複数回、これまた長々とあり、ちゃんと働いているのかプータローでないかチェックしている。吉宗は治世は初期だけだが、鷹狩りが余程好きだったらしく、綱吉とは違った意味で地区を限定して魚や鳥の捕獲を禁じている。魚は鳥の餌であり、鳥は鷹の餌と言うことであろう。 さて、肝心の座敷鷹の禁令なのだが、これはなかった。例えば貞享3年(1686)、大黒からくり人形を作って町中で博打まがいの商いをしてはならないとか、元禄14年(1701)、宝永3年(1706)、宝永7年(1710)の三度にわたってコマを町中で回したり売ってはならぬという禁令を出してはいるが、座敷鷹の類いは残念だが皆無であった。 しかし、気になる一連の禁令があった。元禄10年(1697)12月29日の御触に、こうある。 「誹諧点者、連衆之内江褒美と名付、器財等をかけわざ之様二取り遣り二仕、畢竟博奕之勝負二似より不宜相聞候、左様之取やりを定、博奕わさ仕なし候義ハ向後無用可仕候、若密々二も左様之仕形仕、脇よりあらハるるにおいては可為曲事候」 現在我々が俳句と言っている五・七・五の17文字は、これだけで独立した世界を表現するものだが、俳諧の世界は異なる。俳諧は連句とも言い、五・七・五の17文字の長句と、七・七の14文字の短句とを、交互に付け合わせていき、一定の句数になったところで一つの世界を表現する形式となっている。 従がって一人でも長句と短句を交互に詠んでいけば俳諧(独吟)と呼べるが、本来は俳諧の作者は複数(十数人の場合もある)を原則とする合作で、この俳諧を作る仲間のことを連衆、俳諧の席を捌(さば)く人=連衆の作った句を吟味し添削しつつ進行させていく人を宗匠と言った(以上、東明雅著「連句入門」を参照した)。 御触を説明するにはもうちょっと字数がいる。松尾芭蕉が「奥の細道」の旅から江戸に帰ってきた翌年、元禄5年2月18日に膳所藩(ぜぜはん 七万石 滋賀県大津市)の武士で芭蕉の弟子の菅沼曲水に宛てた手紙がある(暉峻康隆著「芭蕉の俳諧 ・下」を引用及び参照)。 「点取に昼夜を尽し、勝負をあらそひ、道を見ずして走り回るもの有り。彼等風雅のうろたへものに似申し候へ共、点者の妻子腹をふくらかし、店主の金箱を賑はし候へば、ひが事せんには増りたるべし」 もう一つ。上の手紙の三ヶ月後の5月7日、芭蕉は京都の弟子、堂上家に儒者(医師)として勤仕していたことのある向井去来宛てにも出している。 「この方(江戸)俳諧の体、屋敷町・裏屋・背戸屋・辻番・寺方まで、点取はやり候。なかなか新しみなどかろみの詮議思いもよらず、むつかしき手帳(作為)をこしらへ」 点取(てんとり)とは庶民が点者=宗匠に採点料を添えて自作の句の採点をお願いすること。風雅の趣きなどなく、奇抜な趣向によって高得点を競い自慢し合う当時の俳諧世相を、堕落した心得違いの宗匠が多くなったからだと芭蕉は嘆き揶揄(やゆ)しているのである。 御触はこうした点取俳諧宗匠の中に器財を賭けて博打がましき事をやっている者がいるとし、それを今後は処罰対象とみなすと警告しているのである。この年以前にこの種の御触は出ていないので、これが初となる。では、どう博打がましかったのか。八年後の宝永2年(1705)1月4日と翌年1月15日の御触で明らかになる。 「頃日俳諧点者之内、前句附之褒美と名付、博奕に似寄候儀いたすもの有之由相聞候段」 「俳諧点者之内、前句附褒美と名付、博奕二似寄候儀致由相聞候二付、停止之旨度々相触候所、其砌ハ看板をも引候得とも、程過候得ハ最初之ことく看板を出、今以右之仕形有之由相聞不届二候、向後ハ人を廻召捕、家主迄急度越度二可申付候間、此旨町中可触知候」 前句附、これである。宗匠が出題した前句(七・七の短句)に、一句あたりの応募料を取って付句(五・七・五の長句)を募集、宗匠が選んだ高点句を前句とともに発表し、上位の句には品物か金銀を与えると言うもの。昔は連句の付け合いの稽古という大義名分があり、まともな前句を出題していたが、徐々に適当となり、「ならぬことかな、ならぬことかな」「やすいことかな、やすいことかな」「ちらりちらりと、ちらりちらりと」「ばらりばらりと、ばらりばらりと」などどうでもいいような七・七の14文字となった。看板とあるのは、「前句附」の看板を出して商売をしていることを指し、庶民の間に人気の高かった証拠と言える。 しかし、この適当な下の句(前句)に対してさえ上の句(付句)をつけるのは難しいとなり、おそらくもっと人を集めたい宗匠が多かったのであろう、下の句を出題するのは取り止め、上の句の五・七・五の内の初めの五字を宗匠が出題し、残りの七・五をつけさせるようになる。 ところが、これも面倒だと、残りの七・五も宗匠が出題することになる。初めの五字の出題を三題に増やし、これに対して21種類の「七・五」を出題し、三つの優れた「五+(五・七)」の組み合わせをあてさせることになった。まったくのクイズ形式である。 21の数字はサイコロの目からきていると言う。1の裏が6、2の裏が5、3の裏が4、裏表を足すといずれも7、7×3=21。このクイズ形式の付け合わせを、「三笠附」(みかさつき)と呼んだ。参加料十文(約300円)で三題とも秀句をあてた者には一両(約20万円)の賞金が与えられたと言う。 三笠附の名が町触に記されるのは、正徳5年(1715)。クイズ形式とはいえ、ここまでは文字のある句合わせであった。しかし、享保の時代に入ると、文字はなく完全に数字の組み合わせをあてる博打となったのである。競馬も数字だが、馬が実際に競争する。享保期の三笠附はサイコロ博打同然となったわけだ。 ■結論 芭蕉が「奥の細道」の旅に出発するのが元禄2年(1689)3月下旬。その頃は点取俳諧は流行っていない。が、稽古の大義名分を掲げ出したのは、それより2、3年前の貞享期(1684-1687)頃からと見るのが無理のないところであろう。点取俳諧→前句附→三笠附→完全博打化、句合わせの雰囲気を残していたのは正徳期(1711-1715)まで。 この貞享期〜正徳期は座敷鷹が流行ったとされる期間より6、7年遅れているだけで奇妙に符合している。蝿虎(はえとりぐも)は俳諧の季語であり、俳諧の連衆に身分差はなく武士も町人も一座の衆である。座敷鷹ゲームに興じた人々と俳諧の連衆は重なるところ大のように推測される。 おそらく、座敷鷹が博打化し禁止されたので廃れたとされるのは、座敷鷹と三笠附への禁止が錯綜し誤認を誘ったものと、わたしは思う。たぶん、そうであろう。 「蜘蛛」(斎藤慎一郎著 法政大学出版局)と言う本がある。クモを直接闘わせる風俗が残る日本各地と、その地域におけるクモの呼び名の方言を調べるという民俗学的アプローチをしている。この中に座敷鷹のことが若干載っていた。わたしが未見の史料に「滑稽雑談」(こっけいぞうだん)があった。寛文年中に流行ったとして引用文が掲載してある。著者は「其諺」と言う人で、正徳3年(1713)に刊行されたものらしい。 調べると、著者は「四時堂其諺」(しじどうきげん)、俳号である。元文元年(1736)に71歳で亡くなっているから、寛文5年(1665)の生まれとなり、「寛文年中」に流行ったとする記事に信憑性が高まる。どこで生まれたか分明でないが、京都の円山正阿弥の住職だったと言う。 和漢によく通じている人で京都俳諧の重鎮だったようだ。「滑稽雑談」にはいわゆる季題・季語2500の解説がなされており、「蝿虎 はひとりぐも」は「第一総目録巻之十二」の「六月之部 下四二」に説明されている。 ■さて、「滑稽雑談」の記事は「閑窓自語」の記事と時間差が50年ほどある。しかも、京都(おそらく)でどちらも流行ったとしている。ここで総合して言えるのは、座敷鷹は江戸・京都で寛文後期〜享保前期の約50年にわたり楽しまれた大変興味深いゲームだった、と言うことである。 |