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綱差(つなさし)役と野廻り役
 百姓から抜擢された役職が、綱差(つなさし)役と野廻り役である。
 野廻り役は鷹匠頭支配の役職で、御捉飼場内の村々の名主クラスの百姓から選ばれた。苗字帯刀が許され、2人扶持が支給された。享保3年以前までは郷鳥見と呼ばれていたが、同年に誕生した在宅鳥見と紛らわしいため、野廻りと改称されている。職掌は鳥見と似ており、御捉飼場を巡回して取り締る治安・警察的業務から石高調査などの諸調査にあたった。

 綱差役は在宅鳥見支配の役職だった。綱差という役職名は吉宗の命名による。将軍鷹狩時に野鳥を捕獲しやすいように、あらかじめ餌付けしておいたり飼いならしておき、獲物が獲れない緊急時用に常時準備しておく役目であった。鷹狩の演出家といえようか。
 綱差役は享保元年に吉宗によって初めて設置された役職だが、どうしたものか設置当初と享保5年以降の待遇がガラリと異なってくる。苗字帯刀は当初許されたが4年後には当役職者が遠慮したのか自然消滅した。後年に綱差役たちが先例をたてに、苗字帯刀御免を願い出るも許されなかったという。
 役扶持にしても同様で、当初は3人扶持に手当金15両、さらに新田地が下賜されたが、なんと1年後に役扶持と手当金が廃止となり、出扶持(出勤手当て)として2人扶持を支給、享保5年には1人扶持につき銭36貫文の計算で支給されるようになり、以後は銭相場が下落するごとに、特に田畑を所有しない綱差役の生活は厳しくなっていったようだ。
 綱差役は餌付けの技量に優れた百姓が任じられ、各自技量を秘密にした。よって秘伝するため世襲されることが多かった。御拳場6筋に綱差役は各3、4名ほど配置されていた。なお、綱差役の下に綱差見習と飼付見習があり、両役とも勤めた日に限り5合が支給され、後に1升へ改善された。

鷹野役所
 ここまで述べてきた鳥見組頭と鷹匠頭は若年寄支配下にあったが、鷹場関係の部署で老中支配下にあったのが鷹野役所だった。この役所は幕府勘定所に属しているのだが、それ以前は関東郡代を務める伊奈氏が処理していた業務だった。しかし、伊奈氏が突如として寛政4年(1792)に
関東郡代を罷免されたことにより移管となったのであった。
 先述したように寛政4年に鳥見役の待遇がよくなる。在宅鳥見が管理する御拳場は、関東郡代が管理した地域と重なるため伊奈氏の罷免について考えてみたい。

関東郡代伊奈氏のこと
  伊奈の名からすぐに思い出すのは利根川、荒川、鬼怒川の付け替え工事を行い、その新田開発により大幅な石高増加を幕府へもたらした伊奈忠次(ただつぐ)のことである。忠次の時代は関東郡代は設置されておらず、忠次は代官頭であった。設置されるのは寛永19年(1642)、忠次の次男である忠治が初の関東郡代に就き、以後伊奈氏は罷免される寛政4年まで、実に150年10代にわたり世襲したことになる。
 郡代(10万石以上を管理)は代官(10万石以下を管理)と同様に勘定奉行支配だったが、享保18年(1733)に伊奈氏は勘定吟味役首座を兼任し、関東郡代は老中支配となった。幕府の職制には勘定吟味役の「首座」という役はなく、伊奈氏のために設置したものと思われる。他の郡代とは別格なのであった。
 伊奈氏が管理する幕領地は宝暦期(1751-1763)で約27万石、開発新田2万石からの年貢1割が伊奈氏の得分として認められており、さらに家禄4000石に自らの家臣を400
人ほど抱えていたため、実質大名クラスといえた。
 江戸馬喰町には広大な郡代屋敷があり、武蔵国足立郡赤山(埼玉県川口市)や小菅(葛飾区)などの陣屋には家臣を代官として配置し、大名領・旗本領・寺社領が複雑に入り組む関東では、それらに規制されない警察権の行使も許されていた。
 時代が下るにつれて江戸府内が拡大し、伊奈氏管理の幕領と重なることが多くなった。江戸周辺の地では町奉行や道中奉行と縄張りをめぐり悶着が起きたりした。伊奈氏が罷免される5年前の
天明7年(1787)5月、赤坂の米屋20軒の襲撃から始まり、江戸市中全域に拡大した打毀しは江戸町奉行の手には負えず、関東郡代伊奈忠尊(ただたか)によって沈静化する。これ以後、江戸の町人たちは本来ならば町奉行所が処理すべき苦情や願い事を郡代役所へ持ち込むようになり、町奉行の面目丸潰れとなる事態が生じたりした。
 江戸町人に信任され勢いのあった伊奈氏ではあったが、内に家督相続の問題を抱えていた。当代の忠尊は9代忠敬(ただひろ)の婿養子であった。9代忠敬には忠善という実子がいたが婿養子の忠尊が10代となった。10代忠尊には子ができなかったので忠善を養子とした。ところが忠尊の妾腹に子ができた。ここに内紛が生じる。
 加えて、伊奈氏は
幕府から無利子で借入れた拝借金を運用する貸付金役所を経営しており、貸金利息が伊奈氏の大きな収入源となっていたのだが、この頃1万5000両が期限内に返済できなくなっていた。幕府へ返済延期を願い出ても拒否され、忠尊はヘソを曲げてしまう。先祖以来の勲功や天明の打毀しを収拾した自らの功績を誇る忠尊には、腹立たしいことだったと思われる。
 御家の危機を感じたのであろう。伊奈氏譜代家臣54名は忠尊に対して、その行動の諌めと家督移譲を願う連判状を提出する。これに対して忠尊は首謀者を処罰。これに
我慢できない家臣51名が、なんと幕府へ内紛の経過を詳細に記した始末口上書を提出するのである。

 おそらく伊奈氏を激しく妬む幕府吏僚複数が画策したのであろう。この機会に乗じ、関東郡代を罷免した上に家禄没収、忠尊は永々蟄居。
 江戸期の一識者がこう述べている。
 「伊奈半左衛門(歴代の通称)と申せば、百姓は勿論町人に至る迄、神仏之様に敬ひ申候(寛政四子覚書)
 伊奈氏本家は改易、幕府は分家に1000石を与え伊奈氏名跡を継がせたが、幕府の沙汰は厳罰に過ぎると思うのは、わたしだけではあるまい。関東郡代はその後勘定奉行が兼任するが、文化3年(1806)廃止。なぜか元治元年(1864)再設置。慶応3年(1867)関東在方掛と改称して明治を迎える。

触次と触元
 話を戻そう。
 郡代・代官の職掌で在宅鳥見がまったく行わないものは年貢徴収と裁判くらいで、幕府とすれば伊奈氏の罷免はお釣りがたっぷり返ってくる行政改革だったといえよう。
 さて、鷹場役所である。鷹場に関する事務一切の処理を行った。将軍鷹狩時の村々への回状伝達と、御用人足の徴発、金銭の出納などが主な役割である。
 例えば御用人足といっても鳥獣を追い立てる勢子(せこ)や将軍に随行する供奉衆の荷物を運ぶ伝馬人足に限らず、放鷹(ほうよう)の御場拵人足、藪をすいたり道整備や橋修理の普請人足、野鳥を入れる籠や狭竹を作製する人足、昼夜にわたって鷹の番をする人足、鷹場によっては川を舟で渡る水夫(かこ)人足など細部にわたる。
 回状伝達についてはこうである。
 鷹場の村々には組合があった。鷹場組合あるいは霞組合と呼ばれた。享保3年(1718)に20〜40ヵ村がまとまって結成された。後述する鷹場負担を鷹狩先の村だけから徴収するのではなく、村々が共同で負担しようとの趣旨であった。組合の惣代は御拳場では触次役、御捉飼場では触元役で、両役とも村々の名主クラスの百姓が就いた。
 「触」の文字が付いているように、村々への回状伝達の核となる役目がある。御拳場は、鳥見役→触次役→鷹場組合。御捉飼場は、野廻り役→触元役→鷹場組合。鷹場役所は御拳場、御捉飼場の区別なく回状伝達するのだが、鳥見役と野廻り役を通して回状伝達するのではなく、鷹野役所→触次役→鷹場組合、鷹野役所→触元役→鷹野組合であった。なお、中野筋の触次役は代々堀江卯右衛門が務めている。

鷹の狩り
 鶴御成については先述した。他に雉御成、鶉御成、雁御成、鴨御成がある。それぞれ獲物となる対象の鳥を冠している鷹狩だが、軍事訓練の要素が強い鷹狩に追鳥狩(おいとりがり)、鹿狩(ししがり)があった。
 雉御成は4月頃に千住や三河島(岩淵筋)で行われ、御立場が築かれて将軍はこの上から上覧したり飼いならした雉に鷹の羽合わせをしたという。鶉御成と追鳥狩は駒場野(目黒筋)で行われた。また、追鳥狩は雉狩であることが多く、鶉御成と共に戦陣を模して行われたようだ。鹿狩は騎馬隊や鉄砲隊を繰り出して行われ、享保以降は下総小金原(葛西筋)で行われるようになった。規模の大きなものとして享保10年(1725)、同11年、寛政7年(1795)、嘉永2年(1849)。
 陸上の鷹狩だけではなく、品川沖で引網御狩(ひきあみおかり)と呼ばれる海上鷹狩が、寛政期以降に行われるようになったらしい。松平定信が「宇下人言」でこう記しているそうだ。「御船の調練はなきなり、よって引網御狩と名づけ、年々品川の海にて船の調練」をするようになったと。

鷹狩随行員
 以下は100人規模で行われた享保3年正月26日の鷹狩。先から順に記す。
 
 徒(かち)10人  徒歩で行列の先導をする役、70俵5人扶持、一代限り
  
 徒頭1人  
 小十人(こじゅうにん)頭1人  小十人は小従人とも書く、戦時の兵隊だが平時は警衛役、100俵10人扶持  
 この間、34間(62bほど)離れている
 刀持2人 松下専助 渋谷縫殿右衛門
 鷹匠頭1人
 この間、「見計」とあり、様子を見計らって距離をとったようだ
 若年寄衆
 側衆  将軍第一の側近、役高5000石だが老中待遇
 小姓
 小納戸  将軍の身の周りの雑用役、小姓より軽い役目、役高500石 
 目付
 徒頭
 小十人頭
 伊奈半左衛門  役職名もなく名前だけ出てくる唯一の関東郡代伊奈氏の通称名。江戸在方のスペシャリスト
 鷹匠頭1人
 鷹残らず  鷹匠が拳に据えた鷹すべて
 鷹師2人  鷹師とは?不明
 鷹匠同心2人
 荷物1人  この時の鷹狩に必要な荷物。何かは不明
 この間、3、4町(380bほど)離れている
 茶弁当持1人  茶道具一式と弁当
 水荷物1人
 丸弁当持1人  「丸」は、すべての意味か?鷹匠言葉で「丸」は鶴の肝の意味があるが関係あるか不明
 挟箱持1人
 交替要員として手明きが2人付く
 直鎗1筋
 手筒1挺
 騎馬持1人
  鳥持2人
 小十人10人
 徒10人
 鷹匠手明き残らず  拳に鷹を据えていない鷹匠すべて   
 奥坊主1人  小姓の下回り役で将軍に茶を出す役。20俵2人扶持、役金23両  
  部屋坊主2
人  老中、若年寄の給仕役。役金20両
  土圭之間坊主1人  土圭は時計で、時間を正確に告げる役、太鼓櫓で時を告げる太鼓を打つ。役金20両

 
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 規模の大きな鷹狩は1年以上前から村々の百姓らに知らされ、勢子人足の動員や鷹場の整備が行われた。だが、上のような100人程度の鷹狩がほとんどであり、御成日は2、3日前に知らされたようである。
 鷹場における服装は、陣構えなどの軍事訓練の色彩がある鶉御成・追鳥狩・鹿狩を除いた鶴御成・雉御成・雁御成・鴨御成などは、享保元年以降は将軍以下すべて股引半纏草鞋履きであった。ただし、将軍は帯の上に絹地浅黄(水色)染に子持筋模様(太い線と細い線が平行に走る模様)を白く染め抜いた三尺帯を巻いていたから、他と区別が付いたらしい。
 さて、実際の将軍の鷹狩である。やはり綱差が演出した飼付場を必要とした。まず将軍は鳥見役と綱差役の先導で飼付場へ近づく。この時に将軍の供をするのは側衆、小姓、小納戸、鷹匠などの少数で、他の従者は遠くで控えている。鷹匠が将軍へ鷹をわたすのは、獲物が餌を食べているか静止している時で、将軍は頃合を見計らって鷹を放つ。放たれた鷹が獲物を倒した場合、その獲物が飛び立つ前か後かが重要だった。鶴御成であれば、鶴が飛び立つ前に倒せば、その鷹は一番の大鷹と呼ばれ、紫の房を下賜された。
 鷹が獲物を倒すと、従者が駆けて行き獲物を押さえる。この獲物を押さえた従者に3両が、鷹匠には5両が褒美として与えられた。

鷹場村の負担
 井の頭公園のお茶の水の崖上が、御殿山という住居表示の地だと初めに述べた。無礼(牟礼)野での鷹狩を好んだ家光が、休息施設として御殿を建てたという話が伝えられている。江戸周辺にはこうした御殿あるいは御茶屋御殿と称された将軍の休息宿泊施設があったが、寛文期から元禄期(1661-1703)にかけて大部分が廃止される。街道の要衝に建っていたものなどは民間の本陣へ移行したらしいが、家光の後の4代将軍家綱は鷹狩を好まず、5代綱吉にいたっては鷹匠、鳥見の役職を廃止した将軍であり、鷹場御殿が寛文・元禄期に廃止されたのも鷹狩嫌いによるものと思う。
 鷹場制度が復活するのは8代将軍吉宗によってであり、享保以降は江戸周辺に御腰掛・御膳所・御小休所・御休息所・御立寄所・御弁当所などと呼ばれる休息施設が指定される。指定されたのは寺社や名主宅であったが、吉宗の時代に指定された御膳所52ヵ所、御小休所43ヵ所、御弁当所1ヵ所、御立寄所2ヵ所と多かった。

 さて、休息施設は上ヶ物(あげもの)という村々に課された品々の上納所となっている場合が多かった。上ヶ物は急な用命が多く、村々の百姓らは難渋したようだ。例えば、サイズと数量を指定した生魚類として鮠(はや)、泥鰌(どじょう)などの生餌、青虫やケラ海老蔓虫(えびづるむし)などの虫類、鷹とは関係ない江戸城台所御用としての野菜、魚貝、特産物、蚊遣り御用としてよもぎ、杉の葉など多種にわたっていた。
 村々の鷹場負担は、将軍御成時はもちろん、鳥見役が村に巡回して時、鷹匠が村を通過ないしは鷹の訓練を行う時に伝馬人足を始め様々な人足を徴発すると共に、彼らへの賃銭を負担した。加えて上記した上ヶ物を調え、それを納入する持ち送り人足の費用負担があった。江戸城台所用命の上ヶ物は、江戸城まで届けねばならなかった。
 霞才料(霞宰領とも書く)と呼ばれる鷹場に関する諸雑務をする者たちがいた。村の使い走りのような役だが、彼らの給与は村々が負担した。給与は寛政期頃は金1分(1両の4分の1)、幕末には5両と上昇している。

海老蔓虫=ブドウスカシバのこと。成虫はアシナガバチによく似たガ。幼虫はヤマブドウの一種である海老蔓の蔓の中に入り込み幹を喰う。幼虫がいる幹は5センチほどの長さにわたって膨らんでいるので見れば判る。吉祥寺村では久ヶ山(久我山)村や無礼(牟礼)村よりも多く生息していたようで割当てが多く、文政10年(1827)9月に幼虫の入っている幹を6寸に伐り揃え、1尺の縄でしばったものを11把半納めている。幼虫は古くから川釣りの餌として使用されていたが、現在では稀少となっている。


その他
 鷹狩に使用された鷹は、オオタカ、ハイタカ、ハヤブサであった。ハヤブサは人に飼われて餌をもらうようになると、獲物を狙わなくなるらしい。よって、オオタカとハイタカが重用されたようだ。オオタカはハイタカより一回り大きいため鶴や雉を対象とした御成に使用され、鶉などの小鳥の場合はハイタカを使用したらしい。両種とも♀のほうが大きく、♂より値打ちがあるとされた。
 鶴はナベヅルを主とし、マナヅルは一格下品とされたようだ。鶴の食べ味やヒバリの料理についての資料もあるが、野鳥好きな方が多い今日、紹介は控えることにした。
 また、本項は尾張家の鷹場標石を紹介しているが、わたしの居住地が中野筋に入ることから幕府の鷹場制度の紹介を目的としている。よって尾張家の鷹場について興味を持っている方は、「多摩と江戸(大石学編 けやき出版)で蛭田晶子氏が尾張家鷹場の詳細を記しているので、そちらを参照していただきたい。



※参考文献: 「鷹場史料の読み方・調べ方」(村上直・根崎光男著 雄山閣出版) 「江戸町方の制度」(石井良助・編集 新人物往来社) 「盛岡藩御狩り日記」(遠藤公男著 講談社) 「関東郡代」(本間清利著 埼玉新聞社出版局)他