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将軍の鷹場
 
■鷹場標石  クリック拡大
 パルコ側から井の頭公園へ向かう吉祥寺通りの崖下奥に「お茶の水」という石の井筒がある。現在はポンプで汲み上げているが、湧き水が溢れ出ていて昔の面影が偲ばれる。東京都の立て札があり、「当地方へ狩に来た徳川家康がこの湧水の良質を愛してよく茶をたて」たので「お茶の水」と、呼称されたとある。
 一説には家康が関東随一の名水と賞し、江戸城のお茶の水に用いるように命じたともいう。「井の頭」の命名にも諸説あるが、家康の命名か秀忠か、家光か、いずれにしても彼らはこの地に鷹狩に来て、この湧水池に休息したのであった。
 また、「お茶の水」の崖上を走る吉祥寺通りとこの通りを渡った自然文化園の住居表示は「武蔵野市御殿山一丁目」で、家光が鷹狩の休息施設にした宿舎が建っていたとの言い伝えがある。
 三鷹という名前自体が鷹狩に関係深い三鷹市の市役所敷地内の中庭に、「鷹場標石」がある。この標石は三鷹市内に7基建てられていたそうだが、現在は3基が残っている。左写真の三鷹市役所敷地内にある標石は、江戸期にこの場所にあったものではなく、市内寺社にあったものを移設したという。標石は明和7年(1770)に造作され、3基は大沢新田、野崎新田、井口新田に建っていたという。三つの新田は享保期の幕府の政策である武蔵野新田開発で誕生した地域である。井の頭池から最も近いのが井口で、2`余り離れている。写真を拡大すると標石に刻まれた文字が、「従是東西北尾張殿鷹場」とあるのが読める。これより東西北の地域が尾張家の鷹場であることを示している。
 おそらく現在の大沢四丁目に建っていたものではないか。御三家、御三卿(田安・一橋・清水)、家門、有力大名の鷹場は江戸より5里〜10里の間に貸与されていた。これを「御借場(おかりば)というが、尾張家の鷹場は武蔵国入間・新座・多摩の三郡内とされていた。しかし、多摩のどこが境界なのかわたしが読んだ資料には出ていなかった。標石に東西北と刻まれているが南がない。よって標石が建っていた場所は尾張家鷹場の南端と思われる。であれば、三鷹市の南端は大沢四丁目か中原一丁目。中原一丁目は江戸より5里以内になろうから、これは幕府の鷹場となり、尾張鷹場の南端が三鷹市大沢四丁目と推定できる。
 さて、御借場という言葉が出てきたが、江戸幕府の鷹場には御借場の他に、「御拳場(おこぶしば)・「御捉飼場(おとらえかいば)があった。順次説明していきたい。

鷹狩とは?
 鷹場という言葉はほとんどの人が知っているだろう。鷹狩をする場所という意味だが、鷹狩をしない場所も鷹場としていたことは知られていない。なにしろ関東一円すべてが鷹場だったのである。
 家康の頃の鷹場は東金(千葉県)、越谷・忍・鴻巣(以上埼玉県)、相良・中泉(以上静岡県)などに散在していた。鷹狩には軍事目的もあり、これら地域は後北条氏系の土豪や残党、房総の里見氏や佐竹氏に対する要衝の地であるから、当然といえば当然であるが、寛永5年(1628)になると江戸からほぼ5里以内の沼部、世田谷、中野、戸田、平柳、淵江、八条、葛西、品川の9領が将軍家の鷹場に指定され、享保2年(1717)にこの9領の鷹場は、葛西、岩淵、戸田、中野、品川(その後、目黒筋に改称)、六郷(その後、品川筋に改称)の6筋に分け、「御拳場(おこぶしば)と称されるようになる。徳川政権が安定するにつれ、江戸から離れた地域に散在していた鷹場が、江戸近縁を囲い込むように指定されてくるのである。
 それでは、鷹狩の目的をここで整理しておこう。家康が語ったとする「東照宮御実紀」には次のごとくだという。
 1民情視察
 2軍事訓練
 3身体鍛錬
 4家臣団知行所支配の実態把握
 5家臣等の剛弱究明
 6色欲調節
 7士風刷新とその高揚
 8他領国の情勢探索
 9地方支配の拠点づくり
 以上9項目である。
時代が下るにつれ重きをなす項目が違ってきたと解釈できようか。しかし、これだけでは江戸一円に鷹場を指定する理由が分明ではない。

最高権力者の象徴
 
鷹狩の歴史を眺めていくと、鷹狩が最高権力者の象徴として機能していたことが理解できる。
 鷹狩の由来は中央アジアの騎馬民族に始まり、日本へは百済経由説と高麗経由説があり、また日本独自のものとする説がある。分明ではないわけだが、仁徳天皇の時代に鷹甘部(たかかいべ)が設置されており、群馬県佐波郡境町から尾羽に鈴を付けた鷹を左手に据えている鷹匠埴輪が出土していることから5、6世紀には鷹狩が遊猟として行われていたようだ。
 大宝令による律令制下になると兵部省に鷹と犬を調教する主鷹司(しゅようし)が置かれ、天皇や貴族の他に一般庶民にも鷹狩が普及していったらしい。
 しかし、鷹狩を好む桓武天皇や嵯峨天皇の平安初期になると鷹狩は天皇の大権と結び付き、狩場は禁野(しめの)と呼ばれ庶民は立ち入ることができず、鷹狩を行える者は六衛府次官以上だったというから官位では従四位下以上となり、江戸期に置き換えると家門や有力大名以上となる。武家政権の鎌倉・室町時代でも守護・地頭・御家人の間で鷹狩は好まれ、戦国期には耕作の邪魔になると武田信玄などは禁止したが、織田信長や豊臣秀吉は好み、特に秀吉は優れた鷹の取得に熱心で諸大名に巣鷹(巣の中の鷹のヒナ)の献上の強制や畿内一円を禁猟区にしたり、この禁猟区へ野鳥の追い込みを諸大名に賦役として命じたりしている。
 家康は征夷大将軍になった翌年の慶長9年(1604)、有力大名へ鷹狩禁止令を、慶長17年(1612)に公家へ鷹狩禁止令を発布し、鷹利用の権利を統制する。
 鷹狩は権力の象徴であり、それを統制できる者が最高権力者の証しであり、その権利を一部支配下の者へ分け与えたり、鷹狩による獲物を分け与えたりすることは、最高権力者の施しとみることができる。よくいえば、儀礼的な意味もあったわけである。

 鷹狩で獲った野鳥にはそれぞれ名称があった。鶴は「鷹の鶴」、雁は「鷹の雁」、雉は「鷹の鳥」。獲物を饗応する場合、席順が厳格に決められていた。幕府の使者として獲物の鳥を持参した御使蕃を最上客としてもてなした。さらに食膳作法があり、「宗五大草紙」という本に以下のように出ているという。
 「鷹の鳥のくひよう、春の鳥にはなんてんの葉をかんなかけに敷て、焼鳥にして出し、亭主鷹の鳥のよし申されば、箸を手に持ながら、手にてふかふかと戴き、過分のよし申て、箸持たる方の手にて、はし持ながらゆびにてつまみてくふべし、其後は箸にてくふべし、又引物汁菜などに、鷹の鳥をすること有、其時も過分のよし一礼して、はしにてくふべし」

 獲物の中で最も喜ばれたのは鶴であった。鶴を狩る鷹狩は「鶴御成(つるおなり)と呼ばれ、寒の入りの後に行われた。年度初めての鶴の獲物は内裏へ献上する習慣であった。献上する鶴を捕らえると、鷹匠は将軍の前で鶴の左腹を刀で割き、ハラワタを出して塩を入れ、これを縫い合わせて京都まで継ぎ送りして届けた。
 鶴御成は享保期(1716-1735)以降は、棲息数からか葛西筋で行われるようになり、御成の当日は午の刻(午前11時頃)から開始され、鶴が獲れないと八ツ刻(午後2時頃)になっても食事をとらず狩りを続けたらしい。

鳥見役
 御拳場の話に戻ろう。
  御拳場の名称の由来は、将軍が鷹を拳に据えて放つことからきていると思われる。将軍でなくても鷹は拳に据えて放つのが鷹狩であるが、「御」が付いているから鷹匠ではなく将軍の拳となる。
 この御拳場を管轄管理した役職は、「鳥見」であった。名称から野鳥の棲息観察が主な職掌のように思われるが、それは表面上のことで本来の職掌は隠密的な探索だった。江戸前期は江戸近在に増えてきた諸大名の下屋敷や抱屋敷の動静を探るため、野鳥の状況を観測すると称して庭に自由に出入りした。なお、下屋敷は中屋敷、上屋敷と同様に大名が幕府から拝領した屋敷地のこと、上屋敷は政務・藩主住居用、中屋敷は世継ぎや隠居の住居用、下屋敷は休息用か産物倉庫用などに使用された。抱屋敷は大名・大身旗本が私的に所有した屋敷地のことで、下屋敷と用途は似ている。
 江戸後期の鳥見役は御拳場内村々であれば、幕領であろうと大名・旗本領や寺社領であろうが領有関係に規制されることなく、自由に取り締まることができた。よって在地目付のような存在であったらしい。新たに寺社や百姓が家屋の建築・修復する際は領主ではなく鳥見役が最終的に決裁し、種まき田畑の起返し、相撲や芝居の興行の許可権も握り、道や橋の普請にも指図監督した。
 野鳥と直接関係しないことまで決裁権を有し、鷹場内での鷹匠による鷹の取り扱いまで規制できた鳥見役だが、彼らは鷹匠より役高は低かった。
 鳥見組頭(くみがしら)は役高200俵、役扶持5人扶持、伝馬金18両、書状遣金7両を支給され、一代限りの御目見(おめみえ)で定員は3名だった。ヒラの鳥見は役高80俵、野扶持5人扶持、伝馬金18両を支給され、御目見以下だったが寛政4年(1792)から在宅鳥見を5年務めると役高100俵となり一代限りの御目見となった。他に鳥見見習と鳥見見習並がおり、見習は10人扶持、野扶持5人扶持、伝馬金18両が支給され、見習並は野扶持3人扶持、伝馬金10両が支給された。鳥見、見習、見習並は合わせて40名以上いたようである。
 役料の名称が独特である。推測になるが、野扶持は探索の野営手当て、伝馬金と書状遣金は現代風にいえば通信費用となろうか。名称からも鳥見の職掌が特別であったことが知られる。

 5年務めると御目見になれた在宅鳥見とは、先述した御拳場6筋の各々に鳥見役所が設置され、ここに常時詰めたことから在宅鳥見と称されるようになった。井の頭池は中野筋の御拳場内にあり、享保2年(1717)に御拳場が6筋に分けられた折に、中野筋では高円寺村に鳥見役所が設置され、75ヵ村3万7000石の中野筋に粟津喜左衛門が在宅鳥見として配置されている。
 鳥見役所は御用屋敷地の中にあり、他に将軍休息所としての御腰掛(おこしかけ)、薬園、薬種置所、作事方役所、厩舎、御成門、御裏御門、通用御門、門番人長屋、鳥鶉置所などが設置され、目黒筋の御用屋敷地は5万6000坪ほどあったという。
 鳥見役所には当初一名が配置されたが、後に増員され中野筋、目黒筋、戸田筋に各4名、品川筋に5名、岩淵筋に8名、葛西筋に10名が配置され総勢35名の体制となった。

 御拳場ではなく江戸府内に詰めている鳥見を筋掛鳥見(すじがかりとりみ)と呼んでいた。これは将軍鷹狩の際に御膳所の整備や御膳賄いの指揮にあたった。寛政4年から鳥見手付と野鷹移出役と呼ぶ役職が登場するが、これらは野鷹移出役→鳥見手付→鳥見見習並と昇進過程で務める役目であった。

鷹匠
 江戸から5里以内が御拳場であった。御捉飼場(おとらえかいば)はその外側地域を指し、鷹匠頭が管轄管理した。御捉飼場は鷹匠が鷹を調教する地域であったため、その地域の村々は、泊まりながら鷹の調教をする鷹匠へ宿や諸入用の賄いを始め、人馬の提供や上ヶ鳥(あげどり)と呼ぶ鷹の餌となる鳥を供給する賦役を負っていた。
 百姓相手に権高となる鷹匠が多かったらしく金品をねだったり、鷹の調教時に田畑を荒らすことがあり、享保3年に鷹匠目付が新設され鷹匠の監視にあたったが、どうしたわけか20年後の元文3年(1738)にこの役職は廃止された。その後も鷹匠の身勝手な行動は続き、村々から忌み嫌われたようだ。
 
 鷹匠頭は御捉飼場の管理の他に鷹の飼育所である御鷹部屋を管理した。御鷹部屋は二箇所あった。戸田家が管理する千駄木御鷹部屋と、内山家が管理する雑司ヶ谷御鷹部屋。戸田家は幕末を宇都宮藩主で迎える譜代大名戸田家の同族で秀忠・家光に鷹匠頭として仕えた戸田貞吉を祖としており、禄高は1500石であった。内山家は10代将軍家治の明和7年(1770)に内山永清が小納戸から鷹匠頭に任じられ、役高1000石だったため家禄200石の内山家は800石の足高(たしだか)で戸田家と共に鷹匠頭を幕末まで世襲で務めている。役扶持として20人扶持が支給されている。
 鷹匠頭の下に享保元年に設置された鷹匠組頭があり、役高250俵の支給。ヒラの鷹匠は役高100俵、3人扶持。鷹匠見習は初め御救金10両を支給され、5年目に50俵支給となる。以上が御目見である。鷹匠16人と見習6人を一組として二箇所の御鷹部屋に居住。他に御鷹部屋には、遊猟中の将軍を離れた場所から警固する鷹匠支配同心が各50名おり、役高は譜代准席(世襲ではないが二代続いている)か抱席(一代限り)によって30俵3人扶持から15俵2人扶持まであった。

  鷹匠頭支配から配属替えとなった役職に犬牽(いぬびき)役がある。狩猟時に獲物を追い出すために犬を扱う役で、犬は御鷹部屋に付属する犬部屋で飼育訓練したが、鉄砲を使用した大掛かりな鹿狩や追鳥狩が度々行われるようになったため、享保14年(1729)に先手鉄砲頭(さきててっぽうがしら)の支配へ転じた。役高は犬牽頭が50俵7人扶持で御目見以下。
 また、餌差(えさし)という鷹の餌の野鳥を捕獲する役職があったが、享保7年に廃止となり、新たに江戸町人8名の請負制とした。請負った町人らに鷹場立ち入り許可の鑑札を渡したが、餌差を装った者らの密猟が絶えなかったそうだ。