幕府の水運統制
■関東水系 寛永10年(1633)
城米、年貢米など御用荷物や戦時の兵員、軍需物資輸送の「役船」動員体制を、川船奉
行に土屋忠次郎利常を補任して確立する。
延宝6年(1678) 川船奉行を3人体制とする。農民の商品生産が発展してきたのをうけ、関東諸河川の農民
生産物の運送を担う商船に、極印を打って船年貢、役銀を徴収するようになる。
元禄3年(1690)
関東8ヵ国および伊豆、駿河10ヵ国の城米、年貢米の津出し湊と河岸を指定。江戸までの
距離の遠近、水路の状況などを考慮して運賃を制定し、江戸への廻送機構を確立する。
元禄年間(1688-1704)
商品物資の運送が活発化してきたため、川船極印改めを強化。しかし無極印船が横行す るようになる。
享保5年(1720) 川船奉行3人体制を廃止。町人身分の鶴武左衛門を「川船支配」という役職に登用し、船
年貢、役銀の徴収を鶴氏の請負制にする。関東川船の徹底した極印改め実施。
宝暦年間(1751-1764) 農業の合間に船稼ぎをする船や農業用の小船に対しても、船年貢を徴収して鑑札を交付
するようになる。
明和8年(1771) -
安永3年(1774) 元禄以降の商品貨幣経済の進展にともなって成立した新河岸場、新河岸問屋を掌握する ため、勘定奉行・石谷備後守清昌が大掛かりな河岸吟味を前後2回にわたって実施し、運 上金額を各河岸ごとに査定・決定した。
■淀川水系
慶長8年(1603) 過書船に対して運上銀、役船、運賃、上わ米に関する7ヵ条の制規を記した朱印状を、河
村与惣右衛門、木村宗右衛門、過書仲間へ交付。
元和元年(1615)
河村与惣右衛門に代わり角倉与一が過書奉行に任命され、以後、木村、角倉両家が過
書奉行を世襲し、川船運上銀の徴収、役船の徴発を行なう。京都に過書会所を設置し伏
見、淀、橋本、枚方、大坂、平田、吹田浜、尼ヶ崎に船番所を設置。
元和5年(1619) -
元禄11年(1698) 大坂地方で活動していた上荷船、茶船、柏原船、古土船、剣先船、伏見船などに極印を
打ち年貢、役銀を徴収するようになる。
■地方の河川
享保8年(1723) 最上川においては、上郷、酒田の有力商人を川船差配役人に登用。
寛政4年(1792) 最上川では新興商人や船持層の躍進による通船秩序の混乱から、大石田に「川船方役
所」を設置。
文政2、3年(1819-1820) 信濃川、阿賀野川においては、川船から年貢、役銀を徴収するため、幕府勘定所役人、川
船改役を派遣して調査。両河川は天領、私領が交錯する流域。
諸藩の水運統制
■水戸藩
川船極印制を実施し船の大小に応じて船役金を徴収。明暦元年(1655)水陸の交通の要
衝、海老沢に津役所を新設して津役奉行を配置、領内の上がり荷物1艘(40俵積み) につき
40文、大名衆城米1俵につき1文の津役銭を徴収。
■古河藩
船方役所を配置して御船奉行が領内4河岸の河岸問屋を支配し、年貢米、木炭などの御 用荷物を統制。天明3年(1783)2名だった御船奉行が嘉永3年(1850)に5名に増員。
■前橋藩
船方役所が河岸運上金の徴収、役船の徴発、年貢米の江戸輸送を統制。
■仙台藩 阿武隈川の水沢(現・福島県双葉郡)と荒浜に御番所を設置。水沢番所が上流、荒浜番所が下 流を統制。水沢、沼上、玉崎(現・いわき市)にヒラタ肝入が任命され船税を徴収。
■盛岡藩 北上川は上流域を盛岡藩、下流域を仙台藩が統制。盛岡藩領内の川船は下流域を航行 する際、仙台藩の番所に「川通証文」(かわどおししょうもん)を提示する必要があった。
■秋田藩 雄物川て船役を徴収。
■綾部藩
由良川上流域の大嶋村(現・綾部市)を唯一の河岸場と指定。同村庄屋を河岸問屋に指定 して穀物1駄あたり銀2分の口銭を徴収した。
■福知山藩
由良川中流域にある同藩は享保2年(1717)から船渡運上の徴収開始。元文2年(1737)、 城下の船持17人が株仲間を結成。領内船運の独占の代償に運上銀10枚上納と船役。河 岸場は2ヵ所に限定し番所を設置して町奉行に支配させた。
■田辺藩 由良川下流域にある同藩は初期から2ヵ所に船番所を設置。享保期には領内の由良船、 神崎船、有路船に通船を限定し、これらの船持から船体に対して運上を徴収。安永期には 船荷からも水戸銭と称して運上を徴収。
※福知山藩、田辺藩は他領内の船をも厳しく統制したため、他領の村々から反対運動があ
った。詳細は「日本海水上交通史」第1巻、真下八郎氏の論文「丹波・丹後地方諸藩の由良川舟運政策について」 文献出版を参照。
■新見藩、松山藩 高梁川の上流域にある新見藩と下流域にある松山藩の境に、荷物を積み換えさせる継船 制を実施。新見領の広瀬、松山領の井高、辻巻、青木の4ヵ所に船番所を設置し船運上を 徴収。松山領内では積荷物にも運上を賦課。 これらに対して新見藩は宝暦4年(1754)、新見領内の船に番号を付け、松山領内の船を締 め出す策に出た。詳細は「交通文化」1-1号、藤沢晋氏の論文「河川交通における領主的体制とその崩壊過程」 を参照。 材木流送の統制
■荒川 慶長8年(1603)、支流の赤平川との合流点に幕府直轄の材木改め所「間知場」(けんちば) 設置。秩父郡大淵村の名主・金室家と、同郡野巻村逸見家が代々査検にあたる。檜、槻 などの禁制材木の流出防止のため、幕府の御用材や御三家の材木であっても厳しく査検 された。商人材の流出については、関東郡代か所轄代官所へ出願許可をうけ、冥加金を 上納する定めだった。
■天龍川
上流に高遠藩が設置した大久保番所、下流に幕府が設置した鹿島十分一番所。遠山地 方の年貢榑木(くれき)や高遠藩領、飯田藩領から伐採された材木の改めをする満島番所が あった。中期以降には通船開発され船荷の査検がされた。
■木曽川 元和年間(1615-1624)、尾張藩は無手形の船、筏の通行禁止。寛文5年(1665)、木曾山 での営林事業を直轄に改め伐木から川下げまで統制。川並奉行5人を新任し錦織以下の 要所に配置。川並番所40ヵ所以上増設し送り筏の手形と上下の船荷を改め強化。材木役 銀、船役銀の徴収と流木を厳しく取り締まった。 |