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水運                                                                                               江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 
 
左図は中川の番所「江戸名所図会」(都立中央図書館蔵)
左図は中川の番所「江戸名所図会」(都立中央図書館蔵)
 「中川の西岸小名木川の入口にあり。中川関所とも云。江戸より下総国葛飾郡行徳領の方へ往来通船改の番所なり
(新編武蔵風土記稿)。とあるように中川番所は、川船の通航を改める関所として名高かった。その前身は、深川の万年橋の北に置かれていた「深川船改番所」。寛文元年(1661)に中川の川口に移されたという。
 川船による旅人通行の改めは厳格ではなかったが、川船に積まれた荷物については極めて厳しかった。この番所の本来の目的が、商品流通を把握するところにあったからである。重視した物資は米、酒、鮮魚、野菜、硫黄、塩。米と酒は江戸の米価政策に関わり、生鮮食料品は真夜中の通関を許すほどの気の使いよう、普通の関所は通さない。江戸に入る硫黄、出る塩は戦略物資として重要視していた。


■総論
 水上交通の発達は、A江戸・大坂(江戸時代は「阪」ではなく「坂」の表記) の2大都市を中心とした各地の経済発展と、B陸上輸送に比べ安く大量の物資を運送できたことによる。江戸時代初期はともかくも中期以降は5街道よりも重要な交通路と水喜は考えている。江戸も大坂も水路の都であり、日本は大小の川が網目ように走っている。現代人の多くが渋谷の街のど真ん中に川があることを知らない。暗渠化されているから仕方ないが、40年ほど前は江戸の昔のごとく東京は水路の都であった。
 
  
■上記Bに関して
 大型の川船に高瀬船、ヒラタ船(ヒラタの漢字は舟ヘンに帯のツクリだが、ここではヒラタと表記する)がある。利根川下流域で用いられた例として、高瀬船の最大は船長26.9b、船幅5.1b。積載量は米1200俵。ヒラタ船の最大は船長24.4b、船幅4.24b。積載量は米500俵。船頭や水夫などの舟子の数は150俵に1名の見当。
  水運の駄賃について。寛政4年(1792)の陸路での駄賃は、利根川中流域の下総国布施河岸(現・柏市)から、江戸川上流の加村・流山の12`で米1駄(2俵)当たり口銭(売買手数料)も入れて160文。対して水路では、加村から江戸までの32`で蔵敷料(倉庫料)も入れて1駄当たり72文。
  船の特徴は、海船に比べて吃水が浅く船底は扁平で浅瀬でも運航できる形だった。帆柱は取り外しができ、順風時には帆柱を立て、木綿帆を張って川を遡った。


■関東
   関東郡代・伊奈氏3代(忠次・忠政・忠治)
にわたる利根川、荒川の大改修工事によって江戸と関東、東北、上信越の各農村を結び付ける水上ネットワークができ、関東周辺に所領のある大名、旗本は城米、年貢米、その他の物資を江戸へ回送するため各河川に河岸場を開設した。

  ■利根川下流域
  現在のように銚子から太平洋に注ぐ利根川は、伊奈氏が太平洋側に流れ込んでいた常陸川上流と、江戸湾に注いでいた古利根川・太日河を結合させたことによる。これによって蝦夷、東北地方から江戸への廻米は銚子から利根川を遡り関宿を経て、寛永18年(1641)に開削した江戸川を下るコースを採った。理由は房総半島を迂回して江戸湾に入る「東回り海運」コースは、航海技術の未熟と航路の危険性から江戸中期まで利用されることが少なかった。多くなるのは文化年間(1804-1817)、川筋に浅瀬ができ大型船の航行が困難となった。
   主な内川コース
    A那珂湊→涸沼(ひぬま)→海老沢(陸送)→塔ヶ崎→北浦→利根川
    B那珂湊→涸沼→大貫(陸送)→鉾田→北浦→利根川
    C銚子経由潮来(海船直行)→利根川
       慶長14年(1609)幕府の命令で米沢藩が銚子湊を竣工。承応2年(1653)北浦と霞ヶ浦の接点である潮来
       に仙台藩の米蔵設置。以後、東北諸藩の米蔵開設が相次ぐ。
    D
銚子湊→利根川
        寛文12年(1672)南部藩が銚子に米蔵設置。
   回送物資
    江戸、関東の農村へ送られたものは。
    米、大豆、煙草、木材、海産物→鰹節、塩物、干物、海藻、肥料→鰯粕(いわしかす)、干鰯
(ほしか)
    鮮魚の場合は銚子から「なま船」で木下河岸・布佐村へ、陸揚げして江戸川の松戸河岸→水運で江戸。
    夏は活船(いけぶね)で江戸直行。

 
■鬼怒川・利根川中流域
  鬼怒川上流の阿久津(現・栃木県塩谷郡)や板戸河岸などから船積みし、途中陸揚げして境六ヵ宿通りを馬付けして、
総州境河岸から船で江戸へ運ばれた。
  
回送物資
     米、大豆、青苧(あおそ)
、紅花、紙、煙草、蝋、中期以降は木綿、、醤油、酒、蔬菜→蓮根・牛蒡などが加わ
     った。帰り荷として江戸から北関東農村へ、赤穂塩、松永塩
(共に瀬戸内産)、四国産の斉田塩、尾張糠、干鰯
     酒、酢、油、反物などが運ばれた。

 
■利根川上流域
  上信越の諸大名の年貢米や商人荷物は中山道、その脇道、三国街道筋から馬付けして、利根川上流や烏川上流などの河岸へ運び込まれ船で江戸へ送られた。

  
回送物資
      米、大麦、大豆、麻、煙草、板、砥石。江戸方面からは塩、干鰯、茶、太物→綿織り物・麻織物、小間物、
      俵物などが登ってきた。

  
■荒川
  寛永年間(1624-1644)、下久下(しもくげ、現・熊谷市)河岸から下流域に20数ヵ所の河岸場が設置され、周辺村落の年貢米や農産物が江戸へ送られた。また、奥秩父の御林(おんばやし、幕府直轄林)から伐採した檜、槻などの御用材や商人材が筏に組んで運ばれた。筏の上積み荷物として木炭なども送られた。

  
回送物資
      柴宮(現・和光市)河岸から大根などの蔬菜。後期になると地酒、紅花。江戸からは下肥として肥船が遡上。


■東北
   ■北上川
   初期に仙台藩士・川村孫兵衛重吉による北上川河口・石巻の大改修工事。沿岸に37ヵ所の河岸が設置され上流域の南部藩や仙台藩の年貢米、商人荷物が江戸方面へ運ばれた。
   南部藩が本格的に北上川水運を利用するのは寛永年間(1624-1644)以降。藩米の集積地・黒沢尻(現・北上市)
から河口石巻へ。当初江戸廻米は請負商人が行なったが、間もなく藩営に変わる。
   回送物資
      米、木材、生糸、真綿、紅花、藍、煙草、鉄、大豆などを江戸方面へ。帰り荷は古手着物、食塩、海産物。


   ■阿武隈川
   水運が本格化するのは寛文10年(1670)、河村瑞賢が幕府の命令で信夫(しのぶ)・伊達両郡の幕府城米を江戸へ回送するため水路開発。その後、米沢藩や仙台藩も利用。
   回送物資
      米がほとんどだが、文化4年(1807)に上流の伊具郡の村々から油粕、菜種、油、大豆、小豆、小麦、蒟
      蒻。

   
■最上川
 
   回送物資
      幕府城米や領主米が中心だが、商人荷物として紅花、青苧、真綿、蝋、漆、荏油、紙、葉煙草。酒田湊に
      入津したのは播磨の塩、大坂・堺・伊勢の木綿類、出雲の鉄、美濃茶、南部・津軽・秋田の木材、松前の
      肴類。

   
■米代川・雄物川
   米代川の河口・能代湊からは上流域で伐採された秋田杉、阿仁銅山から産出された銅を回送。材木は上方へ、銅は長崎へ運ばれていた。雄物川は土崎湊から秋田藩や亀田藩の年貢米、材木を上方へ送り、上方から塩、木綿などの日用生活物資を移入していた。


  
 ■阿賀野川
   会津藩によって水路が開発されたが、津川(つごう、現・新潟県東蒲原郡)より上流の会津盆地までは、峡谷のため難所が多く航行が困難だった。このため会津藩の廻米は塩川(現・福島県耶麻郡)の米蔵に納め、塩川・津川間を陸揚げしてその後、新潟湊へ水運で送るのが通例だった。こうした水運を差配していたのは領主から特権を与えられた「津川船道」と呼ばれる、津川町の8名の有力者を核とする組織だった。


■中部
   ■信濃川
   幕府城米や諸大名の年貢米、商人荷物は「船道」と呼ばれる通船組織で新潟湊まで川下げされ、西回り海運で上方方面へ運ばれた。上流の千曲川水運が公許されたのは寛政2年(1790)だが、信濃川への直接の航行はできず西大滝(現・飯山市)、福島(現・須坂市)間のみを運行。
   回送物資
      米、大豆、小豆、大麦、小麦、蝋、漆、紙、紅花、煙草
   
   
■神通川
   富山藩は西岩瀬(現・富山市)・四方(よかた、現・富山市)まで年貢米を川下し、西回り海運で上方へ送った。水運の担い手は富山木町の船方衆。


   
■小矢部川 
   明暦3年(1657)、富山藩は礪波(となみ)郡内に年貢米を河岸出しする米蔵が5ヵ所設置。河口の伏木湊(現・新湊市) へ年貢米を運ぶ特権は高岡木町の船方とその下部組織の小矢部船方に与えられていた。

   ■富士川
   慶長12年(1607)、徳川家康の命令で京都の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)が水路開発。幕府城米や年貢米は甲州三河岸と呼ばれた鰍沢・青柳・黒沢から河口の岩淵(現・静岡県庵原郡)まで川下し、ここから海運の拠点の蒲原浜へ陸送した後、清水湊へ海上輸送し廻船で江戸へ送られた。他のコースとして岩本河岸(現・富士市)で陸揚げして吉原宿を通り江之浦湊から江戸へ海上輸送。

  
■天龍川
  戦国時代に今川義元、豊臣秀吉らが材木の流送路として利用。徳川家康が慶長12年(1607)、
角倉了以に水路開発を命じてから本格化。通船は江戸中期からでそれ以前は材木の流送路。流れが急峻のため1本ずつ流された(管流し)木材を、船明(ふなぎら、現・天龍市)の綱場(つなば、流木集積場)で水揚げして筏に組んだ後、河口の掛塚(現・静岡県磐田郡)まで川下げされ、ここから廻船問屋により江戸、大坂、駿府へ海上輸送。

 
■木曾川
 江戸城、駿府城、名古屋城などの建築材として利用するため、徳川家康は木曾義昌の旧臣・山村甚兵衛良候(たかとき、道佑)を登用して伐採と運送の体制整備をさせる。材別に運送法が異なり、木曾材は錦織湊(にしきごおり、現・可児市←かにし)まで管流し、飛騨材は下麻生湊(現・加茂市)まで管流し。筏に組んだ後、河口の桑名や熱田まで川下げ。中期以降は通船も始まる。
 回送物資
  米、材木、白木、板、薪炭、茶、煙草、糸。遡上物として塩、干鰯、干魚、塩魚、古手→古着・古道具。これ
     らの物資運送には鵜飼船が使われた。


■畿内
 ■淀川
 京都、大坂の2大都市を結ぶ、関東の利根川と並ぶ重要河川。船の大きさと活動流域によって15石船、20石船、30石船、伏見船、上荷船、茶船、剣先船、屎船(くそぶね)がある。20石船、30石船は過書船(かしょぶね)と呼ばれ、慶長8年(1603)に幕府への運上銀200枚の上納や運賃などが定められた。
就航区域は大坂、伝法、尼ヶ崎、伏見の間を上下した。元和元年(1615)、運上銀を400枚に増額、その代償として過書株(1株1艘)と定め船数の増減を勝手次第と許可。
 20石船は運航の軽妙さと、川船支配の過書座が定めた運賃より安くしたため活況を呈した。これに対して同じ過書船仲間の30石船は低調となり、20石船を大坂町奉行所へ訴えるなど内部抗争が続いた。この間隙を衝くように登場したのが伏見船。伏見船は伏見町の繁栄のため伏見町人・津国屋藤右衛門らが元禄11年(1698)
運上銀1200枚上納の条件で幕府から営業を許可された15石船。淀川の本・支流で荷物の運送をしていたが、
過書船仲間による営業圧迫の訴えで宝永7年(1710)に営業停止。が、嘆願が採り上げられ享保7年(1722)営業再開となった。
 大坂市中の水路で活躍していたのが上荷船と茶船。元和5年(1619)に両船とも極印打ちされ大坂町奉行から営業認可。茶船は元来茶を売っていたことからの名称で、上荷船と同じく船底が深く海川両用船であり、河口から海船の荷物を河岸問屋へ運び、またその逆のことも行っていた。剣先船は正保3年(1646)、上荷船・茶
船からの請願によって許可された、大和川筋で活躍した船でその沿岸が棉作の中心地であったため干鰯や油粕などの肥料物資の積荷が多かった。
 屎船は文字通り桶に入れた糞尿を運ぶ百姓の船であったが、元禄年間(1688-1704)より特権的川船である過書船、伏見船、上荷船、茶船に対してゲリラ的な活動でそれらの利権を脅かし続けた船だった。農村へ肥料を大坂市中へ百姓の縄、莚などの藁工品や木綿織物を回送した。


■中国・四国
  ■由良川
  丹波・丹後地方の内陸部を西回り海運、ひいては全国市場へ結び付けた水路。中流域では綾部藩、福知山藩が、下流域では田辺藩が通船を規制。
   回送物資
      下り荷→米、蒟蒻玉、茶、煙草、桐実、漆実、櫨実、楮、繰綿、木綿、串柿、薪炭、材木、竹類
      上り荷→米、塩、干鰯、菜種、菜種油糟、蕎麦、干物、鉄類

  
■高梁川(たかはしがわ)
  上流域を開発したのが新見藩、下流域を開発したのが松山藩。そのため利害関係から継船制が生じた。松山藩在籍の高瀬船103艘が、松山より下流へ運航することを禁止し、上流の新見藩領の問屋商人や船稼ぎは松山より折り返し運航していた。

  ■太田川
  平安末期には荘園年貢米を河口の倉敷へ川下げしていた。戦国時代に毛利氏、福島氏が水路開発するが、本格化するのは元和5年(1619)、広島藩主となった浅野氏が年貢米輸送のために船運開発してから。

   回送物資
      米、鉄、材木、塩、干鰯、塩鰯、薪炭、山繭紬、煙草、和紙、畳

  ■吉野川、肱川((ひじがわ)
  
吉野川は上流の阿波西部から年貢の炭・煙草・楮を下し、河口から斉田塩、肥料、日用雑貨を上した。肱川の船運は、大洲藩が指定した城下の商人、竹田屋と奈良屋に川船を取り締まらせていた。これを「川ヒラタ掟」といった。


■九州
  ■遠賀川(おんががわ)
  流域の福岡藩や秋月藩、小倉藩などの領主へ、運上銀を上納して認可をうけた川ヒラタ仲間が水運を取り仕切っていた。宝永年間(1704-1711)には仲間総数393艘。後期になると、領主と富裕商人が結び付き頭株、船場株を成立させて売買するようになり水運を独占。これに自由な商品生産と流通を望む農民層と船頭らが抵抗。幕末には年貢米と石炭の輸送運賃の増額闘争があった。詳細は「史淵」91号、野口喜久雄氏の論文「江戸時代遠賀川の水運」を参照。

  ■筑後川
  本格化するのは、上方へ年貢米輸送のために久留米城下入口に河岸場が開設された正保3年(1646)からである。中期から農民の商品流通の発展から上流域の水路開発。通船開削に貢献した中城河岸
(現・福岡県嘉穂郡)
の広瀬久兵衛など富裕商人と農村の庄屋が船の所有者となった。天保3年(1832)には株数が定められ、冥加金を上納し代官より鑑札が交付された。

  ■大淀川
  船運は都城藩主・島津久倫の寛政2年(1790)の開発出願によって始まる。
  回送物資
    
胡麻


※主な参考文献
児玉幸多編「日本交通史」吉川弘文館  古島敏雄著「江戸時代の商品流通と交通」御茶の水書房  交通史研究会編「日本近世交通史論集」吉川弘文館  柚木学編「日本水上交通史論集第1巻 日本海水上交通史」文献出版  横山昭男「近世河川水運史の研究」吉川弘文館  丹治建蔵著「関東河川水運史の研究」法政大学出版局 川名登著「河岸に生きる人びと」平凡社など。