江戸の農民9                                           江戸の農民TOP  江戸と座敷鷹TOP  江戸大名公卿TOP

 

百の姓は多様だった

■江戸時代の仕組みは、「幕藩体制」と呼ばれている。これは徳川将軍が統一者として全国に政令を及ぼす一方、将軍から所領を分け与えられた大名・旗本・公家・社寺などが、各々の所領内を支配するという二重の政治機構を表現した言葉。所領地は1反(300坪)あたりの米(玄米)の標準生産高を根幹に、その単位を石(こく)として表記された。幕藩体制は石高制であり、米が幕府、諸藩の拠りどころであった。
 米を納める「年貢の民」は、百姓しかいない。百姓の主体は1組の夫婦を中心とする単婚小家族、いわゆる地主層ではない自作農民、歴史学の本で「小農」などと記される民である。江戸時代はこの自作農の育成を企図し、自作農が困窮したら幕藩領主が「御救(おすくい)を行い、自作農は領主の仁政に応えて年貢皆済を果たす、ということを理想としていた。実際は貨幣経済の実力者として、領内の一握りの地主層や江戸・大坂の富裕町人が時代を追うにつれ登場してくるのだが、「自作農撫育=年貢皆済」は建前として生き続ける。

■前回の領主側の余業・余稼の禁令は、百姓とは農耕専一であって百姓というものだが、これを守っていたら生活が立ち行かない。ゆえに余業・余稼へ走る。このことが幕藩体制を崩壊に導く矛盾となるのだが、少し見方を変えてみよう。
 広辞苑は農民を「農業に従事する民」、農家を「農業を営む世帯」と記している。これは正しくもあり、誤りでもある。余業・余稼に走ったのは自作農や小作農に限ったことではなく、地主層も質屋・酒造・醤油造・太物(木綿織物類)商などを経営しているのである。目端の利く百姓であろうがなかろうが余業・余稼をやっている。翻って現代の農民はどうか。大都市への出稼ぎから花屋・植木屋・地酒・地ビール造・不動産屋などを兼業している。
 彼らは偽もの歪んだ「農民・農家」であろうか。兼業が本業になる可能性は以前書いたから措くとして、「兼業農家」こそ「農家」なのではないか。農業農耕は本来懐が深く、兼業的なる部分を抱えているのではないかと思う。

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